2015/10/20

バランスのとれた生活とは(全文)


 
 今日、天の父があなたに求めておられることは何ですか?
 
 
 
Jill Briscoe
ジル・ブリスコー 
 



長男が33歳になった時、ああイエス様はこの年齢で死なれたのだ、と改めて実感しました。「33歳」とはあまりにも若いです。
そんな若さで人生を終えるというのは、普通はととのった生涯とは思えないのですが、いかがでしょうか。
けれども、地上での生涯の終わりに、イエスは「(天の父の使命を)完了した」と言われました。

33年のうち30年間は、イエスはナザレで「仕事」をしておられました。
それも、効率のよい人生の過ごし方とは思えませんね。
しかし、ナザレでの30年間は、神様が計画されていた期間であるがゆえに、非常に大切な年月だったと言えるのです。
30年間、御父がイエスに望まれる第一のことが、そこで過ごすことだったからです。

「やり遂げる」というのが、あれもこれも全ての分野、領域のことをこなすことでない、と知るとほっとします。
むしろ、神様が私たちにしてほしいと願われるのはどの分野のことで、どの仕事をきちんとやり遂げるのかを見出すことなのです。

一人ひとりに異なった仕事があり、神様は私たちがそれをできるよう、あらかじめ備え助けてくださるのです。
たとえ、それが人生のほとんどを「ナザレで過ごす」ようなことだったとしても・・・!


覚えておいてください。御父があなたに与えられたことに目をとめていさえすればよいのです。
他の人がすることを代わりにすべきではないのです。
さあ、あなたにとって御父からの仕事とはなんでしょうか。

長年、私はどう優先順位をつけたらよいか、さまざまな本を読んできました。
ある本には、「第一に神、第二に家庭、それから教会」と書いてありました。
また別の本には「第一に教会、第二に家庭、そして神」というものもありました。
私自身も、優先順位に関する記事を執筆してきました。
それぞれの説がどれも聖書的なので、どの立場もとってきました。

そして、この年齢になって出た結論は、神様への愛を、他のすべてへの愛よりも優先させる、ということです。
つまり、優先順位の原則とは、御父と御国のことを第一にすることです。
御国の仕事が最優先です。
「神の国とその義とをまず第一に求め」(マタイ6:33)なければならないのです。
すなわち、神が今日は第一にせよと言われたことを、今日は最優先にしなければなりません。

もっとも、今日は最優先であったことが、明日あさってには最優先ではないかもしれません。
でも今日一日のことだけを心配すればよいのです。
神様の優先順位が私たちの優先順位でもあるべきでえす。

だから、もしかすると御父は「今日あなたが最優先にするのは、子どもと家にとどまっていることです」と言われるかもしれません。それなら、そうします。

あるいは、「今日は他の人に子どもの世話を任せて、あなたはバイブルクラスを指導しに出かけなさい」、「出ていってあれとこれとをしなさい」と言われるかもしれません。
御父がそれを今日最優先にせよと言われるのなら、そうします。

でも、神があなたの隣にいる人に、まったく別のことをせよと言われていても、驚かないでください!

だいたい、神が私たちに同じことを願われると思いますか?
私たちはそれぞれとてもユニークに造られています。
また、人生の異なる段階を歩んでいます。
責任もそれぞれ違います。
だから誰かを見て「あの人はこれを第一にすべきなのに」と言うべきではないのです。
だって、他の人にとっての最優先はわからないのですから。
ただ、自分はどうかということを知っていればよいのです。
 
 
 
「イエス様が一番、そうすれば他のこともうまくいく」

もし神様があなたに、何を、いつしてほしいと願っておられるかを理解したなら、すべてのことが整理されてきます。
私の友人の一人は「イエス様を第一にしたら、次に何がくるかわかりますよ」とよく言います。
その通りです。

しかし、そうした満ち足りたライフスタイルの中でも、ストレスはやはりあります。
ほとんどのストレスは、あなたのしていることを批判されることからやってきます。

宣教師として14年、牧師夫人として21年の生活を振り返ると、周りのクリスチャンからの批判は、私にとって最も辛かった(現在でも辛い)です。
神様を第一にしてせっかく得られた良い結果にもかかわらず、そうした反対意見の中での生活はあなたを疲弊させるのです。

批判を受けながら過ごすのは容易ではありません。
それは教会内での反対意見であったり、家族内での反対であったりします。
イエス様もその両方を経験されました。


私は、子どもが18歳、16歳、14歳だった時のことを思い出します。
夏の間、18歳のデーブはアルバイト、16歳のジュディは友達のところに泊まっていました。
夫のステュアートと私は宣教旅行で南アフリカに行く予定でした。

一番下のペートは、その間実家のあるイングランドに行くのがよいと、私たち夫婦は考えました。
そこまで私が連れていって祖母と会い、それから南アフリカで夫と合流する予定でした。

私はいつも異なる5つの方向へ自分が引っ張られているように感じていました。
特にその夏は。
このように思ったのを覚えています。

「いったい、誰のために時間を使えばよいのだろうか。
子どもたちか、夫か、自分自身か。一番はどれだろう。
夫の留守中、教会で奉仕をするのがよいのか。
そうそう、私の母はどうだろう。
何千キロも離れているし、あまり体調もよくない。」

私は、神様が何を第一にするように言われているのかを知ろうとしました。
祈りを重ね、夫と共に宣教旅行に行くのがよいという結論に至りました。

そこで、イングランドに立ち寄り、母としばらく会い、そこにペートを残して南アフリカに行くことにしました。
母とペートと私とで、2,3日の素晴らしい時間を過ごしました。

ところが、南アフリカに出発する日の前夜、ペートが部屋に来てベッドに座り、泣きだしました。
そうして「お母さん、行かないでちょうだい」と言いました。

まあ、どうしましょう!


「ねえ、行かないで。お願い」と、息子は何度も頼みました。
「ママがいないなら、ここにいたくない。
だって思っていたような場所じゃないんだもの。
ここで待つのはいやだ。僕もママと一緒に連れて行って。」

「ペート、それはできないわ。だってあなたはビザ(査証)も持っていないんだもの。
それに、もし持っていたとしても、あなたを連れて行くことはできないの。
ここにとどまることもできないわ。
ママは行かなければならないの」と私は答えたのでした。

私はちょうど、出エジプト記を読んでいました。
昼は雲の柱が、夜は火の柱がイスラエルの民を導く、という箇所でした。
家族連れは、そんな中をどう感じながら暮らしていたのだろう、と考えたものでした。

おそらく、雲の動きにかなりうんざりしていたのではないか、と想像します。
なぜなら、家族全員がやっと寝袋を並べ、テントを張った時に、
雲の柱が再び動き出す、ということがあったと思うのです。

父親の「あれまあ、また移動だ!」という声が聞こえるようです。
母親は「せっかく子どもたちを寝かせたところなのに」と言ったかもしれません。
「さあ、子どもたちを起こして着替えさせるんだ」と父親が声をかけたでしょう。
雲や火の柱は、イスラエルの人々に「従順」を学ばせたに違いありません。

自分の聖書のその箇所の余白に、「子どもたちへの祝福は、親に従順であることからくる」と私は書き込んでいました。
それも、ちょうどペートが部屋に入ってくる直前に。

だから、この場合何が最優先であるか、私にはわかっていました。
南アフリカへ宣教に行くことです。
しかもその聖書箇所だけでなく、さまざまな状況からも確信がありました。
そうすることが正しいとわかっていました。

でも、それがいかに辛いことだったか、わかっていただけるでしょうか?
ペートがどのような状態で過ごすだろうかということが脳裏を横切りました。

ペートは乗りきれるだろうか。
親に見捨てられたと思うだろうか。
神様はひどい、と腹を立てるだろう

私は重い気持ちで5週間の宣教旅行に出発しました。

2週間後、ペートからの手紙が届きました。
封を開けてみると、このような文面でした。

~ママ、そして↑(上向きの指のイラスト)ありがとう。
僕は元気です。その後、僕がどう過ごしていたと思う?
泣いてママを見送ったけど、すぐに涙をふいて従兄弟とフットボールをしたよ。

シャーリーおばさんには、僕がしょんぼりしているのがわかったと思う。
「ペート、あなたが小さいころよく行ったカンファレンスセンターに連れて行ってあげましょうか」
と言ってくれたんだ。~


言い添えておくと、彼女は私たちの説教をほとんど聞いたことがありませんでした。
私たちが何をしているのかも、あまり知らなかったのです。
でも、彼女はその時、私たちが以前仕えていたキリスト教団体のところへ連れていってあげようか、と言ってくれたのでした。

それだけでなく、彼女は自分の子どもも一緒に連れていくことにしたのです。
ペートは出かけるうちに少しずつ元気を取り戻しました。
現地に着くと、リーダーが子どもたちに声をかけてくれました。
そして、3人の子どもたちは信仰について学び、受け入れたのです。
ペートもそこで起こったことを目の当たりにすることができました。

神様に従順であろうとして痛みを経験し、その後でこんな手紙を受け取るとは、
とても想像できませんでした。
みことばの約束がもう一度浮かんできました。
子どもたちの祝福は、両親に従い、主に礼拝をささげることである、と。


もちろん、いつも母親や父親が子どもを置いて行くのがよい、と言っているのではありません。
神様が「南アフリカには行かず、イングランドにとどまっていなさい」と言われる可能性もあるでしょう。
その場合には、別のところで葛藤を覚えることになるでしょう。
夫に電話して、私が担当するはずだった集会奉仕をすべてキャンセルしてもらうことになるでしょう。
私は「それでも、今は御父が子どものことを最優先しなさい、と導いておられるの」
と話したことでしょう。


周りの人をがっかりさせるというのも、勇気のいることです。
特に、愛している人々をがっかりさせるのは。
どうしてよいかわからない時には、神の助けを求めてください。
神様は、あなたに最善の道を示そうとしておられます。
そして、あなたがその道を選び従うなら、神様はあなたの従順を喜ばれます。



 
役割は変化する
 
いつも同じことをシステムとしてこなせばよいなら、どんなに楽でしょう。
それなら葛藤は生じません。
この本にはこう書いてあり、あの人はあのように言い、またメッセージではこのように語られている。
私たちは文化的・キリスト教的なならわしや、これまで学んできた人や物事のパターンに従って行動しています。
 
けれども、「主よ、私が母として、妻として、またあなたの弟子として、
すべての役割の中で、今日は何をすべきか、あなたは示してくださいます」
と祈るのはそれよりも難しいことです。
 
イエス様はどうなさったでしょうか。
 
30年間、ナザレで家族の必要を第一に満たされました。
それから3年間宣教されました。
永遠に続く神の家族の関係が、その期間は優先でした。
母親の世話を他の家族に任せなければいけなかったのが、イエス様にとって最も気がかりなことの一つだったでしょう。
 
それから、十字架にかかられ、やはり母親の世話を誰かに託さなければならなかったのです。
イエス様がどんな思いだったか、想像できますか?
長年の間自分がしてきたことを、十字架にかかりながら他人にお願いしたのです。
その十字架も、自分が降りようと思えば可能だった道でした。
 
十字架にかかるのを中止しようと思えば、いくらでも理由をつけることはできたでしょうし、
特に母親のことを考えれば、それももっともだと思えました。
ある意味で、イエス様は御国の家族のために、地上の家族を見捨てなければならなかったのです。
厳しい試練を自ら通られたのでした。
 
イエス様はヨハネに「そこにあなたの母がいます」、
マリヤに「そこにあなたの息子がいます」と言われました。
 
その時には、御国の家族の関係が最優先されたのです。
なぜなら、御父がそれを願っておられたからです。
イエス様は御父が第一にするよう言われたので、十字架の上にとどまられたのです。
 
似たようなことが、あなたの人生にも起こるかもしれません。
私たちはふさわしい時、正しい時を知り、従順を学んでいきたいものです。                                                
    
この記事は、1992年夏号に初めて掲載されました。ジル・ブリスコーがこれを書いた23年前も今日も、真理は変わっていないのだということに気づかされます。
どこにバランスを見出したらよいのかというのは、常に読者の関心のトップ5になっています。


Just Between Us 誌 2015 秋号より    Copyright 2015 Jll Briscoe. Translated from Just Between Us, 777 S. Barker Road, Brookfield, WI 53045

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