2019/01/22

人生最高の時はこれからだ



神は、若くなくても喜んで働く人を必要とされる。

Patricia Raybon




私はもう25歳ではなく、45歳でもなく、65歳でもありません。
でも神様は気にはなさいません。
月曜日には私の電話が鳴ります。メールの受信箱はいっぱいです。
やる事はたくさんあります。
聖書が言うとおり収穫は多いのです。神様が私に望まれる働きがあります。
年齢を重ねて最も驚くのは、神様は年齢など気にされないということです。
神様は喜んで働く人を必要とされます。
私の生活で最大の関心事は、髪を染めること、太ももを細くすること、若返りの注射をすることではありません。
ただ、たゆむことなく神様のために喜んで働こうとしているか、に尽きます。

私は自分のライフステージや年齢で葛藤したことがありません。
それは私が常に働き続けてきたからです。
年齢や人生の段階、召し、肌の色にかかわらず、働くことは魅力的で聖なるものです。
かつては人生の最高の時期とは能力と賜物によるのだと考えていましたが、最高の時期とは神様の私達への目的、そして私達がそのために喜んで働くかどうかによるとわかりました。
89歳のニューヨーク・ブルックリンに住む芸術家について、ニューヨークタイムズの最近の記事は「彼女の長生きの秘訣はよく働くことだ」というものでした。

幼い頃から父はこの原則を教えてくれました。父には息子がいませんでしたが、「娘たち」すなわち私達姉妹がいました。私達は黒人差別の残っていた1950年代に生まれました。黒人居住区で育った私達は、毎日夜明けに起きてベッドを整え、皿を洗い、床や洗面所の掃除をし、そして岩を運びました。

まさしく、岩を運んだのです。それは公正住宅法(訳注:1968年米国で、住宅の譲渡・賃貸の人種差別を禁じる法律)が成立した1960年代のことでした。
働き者の両親は街中心部にあった懐かしくも狭苦しい小屋から、森林地帯にある広く清潔な新しい集合住宅に黒人の(私達)家族が引っ越すことを選びました。
それは私達にとって新たな始まりでした。新居は郊外の同じような風景にあり、家の前は岩がごろごろして何もありませんでした。
誰のものでもない空間でした。
そこである土曜の朝、父は私たち姉妹を早くから起こし、岩をすべて取り除くようにと言いました。
父はそこに何とか芝を植え、郊外にふさわしい芝生の庭にして隣人たちをなだめようと決めたのでした。
それで、私は岩を運びました。一日中。

私はやせた14歳で、岩は重かったのですが、空は青く太陽は輝いていました。
そしてその仕事は(仕事というものはたいていそうですが)、底抜けに良いものでした。
一日の終わり、自分の影が長くなってくる時間にそこに立ってすっかりきれいになった庭を見ると、苦々しい思いではなく、にこっと笑顔がこぼれました。
「よくやった」父が言いました。
「ありがとう、パパ。パパもよくやったね」と私も言いました。

父が教えてくれた事のうち、第一はキリストと十字架にある満たしでした。
そして第二は働くのはすばらしい、ということでした。
年齢?そんなことは関係ありません。
私たちの若いことを良しとする文化の中では、年を取ることは悲しむべきこと、軽くあしらわれることです。
皺は恥ずかしく、白髪は隠すべきものと思われています。

はっきりしているのは、私たちの文化には出エジプト記の内容が反映されていないということです。
3章には、モーセが義父イテロの羊を飼ってシナイ山に登った記事があります。
彼は80歳でした。
けれども神は彼の年齢など気になさいませんでした。
むしろ神はモーセに目を留め、山にいた彼に恐らく最も優しい言葉で語りかけられました。
「履き物を脱ぎなさい」と。
どういう意味でしょうか。
イテロの羊を飼って時を費やすのをもうやめなさい。
聖でない土地で履き物をパタパタさせて歩くのをやめなさい。
そうではなく、私の前であなたの履き物を脱ぎなさい。
そして?
本来の仕事にかかりなさい。
たとえ信じることができなくても、全てをあなたが変えることができる、とモーセは語られたのです。

もちろんモーセは尻込みしました。
自分はふさわしくない、と答えます。
「彼らは私の言うことを信じず、私の声に耳を傾けないでしょう…私は口が重く、舌が重いのです」(出4:1、10)。
今日でもモーセの言葉は私達のほとんどに当てはまるでしょう。
自分を疑い、うろたえ、勇気のない姿が。

しかし、モーセが口にしなかった印象的なことがあります。
80歳でしたが、彼は決して「私は年を取りすぎているのではないでしょうか」とは尋ねませんでした。
彼は他のことを心配しました。話下手なこと。まとまりのない人々を導く能力。
しかも、若さとはかけ離れた83歳の彼の兄アロンと共に行くことを願ったのです。

モーセは年齢を心配することはありませんでした。
ならば、私達も心配する必要があるでしょうか?

私達の多くは、ある年齢に達すると立派な人になり目的を達成するのだと思っています。
そして人生の表舞台から身を引き、ゴルフコースや自宅の玄関で過ごし、何かをなすには年を取りすぎたと言うのです。
けれども、聖書には引退という概念がほとんどありません(例外は民数記8:24-25のレビ人の奉仕)。
年齢に関しては、神様は何も気になさらないようです。
年月の創造主として、神様は引退の日を数えるのではなく、「自分の日を数え」、
「知恵の心を得」るようにと言われます(詩篇90:12)。

聖書にはいわゆる「素晴らしき日々」を過ごす英雄たちがたくさん出てきます。
アブラハムとサラはそれぞれ100歳、90歳でしたが、約束の息子を生み、国民を育てました。
ノアは600歳で箱舟を作りました。
ザカリヤとエリサベツはバプテスマのヨハネの親となった時には「二人ともすでに年をとってい」ました(ルカ1:7)。
女預言者アンナもまた、「非常に年をとって」も宮で仕え、注意深くメシヤの到来を待ち望んでいました。
ついにイエスを見ても、彼女は働きをやめて引退したのではありませんでした。
そうではなく、ますます熱心に「エルサレムの贖いを待ち望んでいたすべての人に」この幼子のことを話しました(ルカ2:36-38)。

私達に託されたことは、アンドリュー・マーレ―が言うように「働きと果実を混同してはならない」ということです。
「天の国の果実を結ばない、キリストのためにすると思っている働きがたくさんあるかもしれない」のです。
働き者の父はこの真理を理解していました。
野望や利己的な関心から悪い動機でする働きは、御国の目的や油注ぎがなく、天的な喜びもない、ということを。

父は日曜日に私達姉妹を教会に連れて行き、人生の全ての日を神様に捧げるなら、神様があらゆる瞬間を素晴らしい時にして下さることを私達に知ってほしいと思っていました。
父は、大人の期間をものづくりをした「大工」を、ガリラヤ地方に向かい世界を変える30歳までそうして待った「大工」を、私達に知ってほしいと思っていました。
彼はいつも働かれました。
そして私たちに素晴らしい約束を下さいました。
誰でも彼を信じるものは「さらに大きなわざを行います」という約束です(ヨハネ14:12)。その「わざ」とは奇蹟です。

私達には岩を動かす以上のことができると彼は言われました。
「山を動かすことができます」(マタイ17:20)と。
どのようにしてでしょう?
イエス様は説明して下さいました。それは「わたしが父のもとに行くからです」(ヨハネ14:12)と。
この良い知らせは、キリストから私達に送られた聖霊が、私達を強め、たゆむことなく御国のために働き続けるために隠れた能力を明るみにされるということです。

私が知る最も高齢の女性は現在105歳ですが今なお活動的です。彼女はアドバイス(私にくれた最上のもの)と共にこの真実を実証しています。
「よく長生きする方法、それはあなたのペースで歩み続けることよ。」
それに付け加えて「忙しくしていなさい。ただし、聖霊様に働いていただきなさい」と言いました。

私は60代後半に差しかかっていますが、電話は鳴り続けます。私は感謝しながら受話器をとります。
私は喜びをもって応答します。なぜなら、年ごとに収穫はよいものになっていくからです。
なぜかですか?
それは神様がよい果実を私達皆の中に実らせてくださるからです。



障がい児の親が平安を保つ5つの秘訣


Tammie Swaney タミー・スワニー


これから述べようとすることは、自己中心的で「母親らしくない」と思えるかもしれません。
それでも、肉体的には疲れ果て、感情面は心配、さらに精神的にまいってしまい、時には怒りがこみあげてくるという経験を通った私は、以下のことを心からあなたに分かち合いたいのです。

よい香りの入浴剤(Calgon moment)で気分転換しても一日やりきれない時、私は罪悪感と戦ってきました。
障がいを持つ子供を育てるのは、あられの中でロッククライミングをするのと同じくらい大変なことと言えます。
もちろん、どんな子どもでも困難な面はあります。
しかし両者の違いは、障がいを持つ子供が周囲の状況を理解できているのか、あるいはただふざけて親の言うことを聞かずに笑っているのかがわからない、ということです。

普通の子どもなら多くの節目を迎えます。
運転免許を取り、卒業ダンスパーティーに行きます。お泊り会、初めてのボーイフレンドあるいはガールフレンド、親子の会話、そしてちょっとした反抗。
「普通」とは日常のことを差します。
しかし、驚かれるかもしれませんが、障がい児を育てる普通とはずっと同じ状態が続くということです。その子の子ども時代が続き、そこであなた自身をいたわり身体・心・魂の安息を見出すことです。

 「永遠の5歳児」である私の息子ニコラス(ニック)は、本やドラマ、著名人(フィル博士やドブソン博士)、子ども番組(セサミストリート)では決して学べない、いくつかの子育てに関する事柄を教えてくれました。
彼は皆の心を引きつけ、地球上の誰よりも多くの愛情を受けています(親ばかですね)。
17歳のとてもやさしい子どもです。
けれども、気をつけなければなりません!興奮すると大暴れするので、数秒前までの我が家の平和な状態をめちゃくちゃにしてしまいします。
興奮する理由は誰にもわからず、すぐ対処するすべもないのです。

私にとって幸いなのは、夫のティムが積極的に子育てに関わってくれ、さらに神様が我が家を導いてくださっているので、耐えがたい日々を切り抜けられているということです。
障がい児を育てるという試練の中で気を確かに持ち続ける5つのステップを以下に示します(すべての親、すべての子どもに当てはまらないかもしれませんが、私たちにとって助けになっているものです)。


1. 神様と過ごす時を持つ。

神様のことばを読み、黙想し、力を得る時間を作ることが何よりも大切です。
神様は私たちがまさに必要な時に必要な方法を示してくださいます。
みことばは永遠の啓示であり、みことばを掘り下げる時に私たちは回復します。
「試練の日々」の中で私を支えてくれたいくつかの聖句を紹介します。

・「怒っても、罪を犯してはなりません。憤ったままで日が暮れるようであってはいけません。(エペソ 4:26)」
 叱った後でも一緒に座り、どれくらいニックを気にかけているかを示し、いつも消灯前には「愛しているわよ」と語りかけます。

・「私を強くしてくださる方によって、私はどんなことでもできるのです。(ピリピ 4:13)」
全てを失い、話す力もなくなった時、頼るべきは自分の力でなく神の力である、ということをこの聖句は思い出させてくれます。神様だけが私を持ち運んでくださるのです。

・「モーセの手が重くなると、彼らは石を取り、それをモーセの足もとに置いた。モーセはその上に腰掛け、アロンとフルは、一人はこちらから、一人はあちらから、モーセの手を支えた。それで彼の両手は日が沈むまで、しっかり上げられていた。(出 17:12)」
 これは最後の手段という聖句ではありませんが、必要な時には祈りの勇士である友人に電話し、支えてもらえるのだと思い出す重要な聖句です。誰でも疲れ果てた時にはそうした祈りの勇士に支えてもらう必要があります。


2. 夫婦で過ごす時を持つ。

これは難しいとわかっています。私たちは忙しいスケジュール、長時間の仕事と家事で疲れ切っているからです。
しかし、夫婦で過ごす時間は家庭を強くするのに必要な要素です。
夜の外出や、せめてコーヒーを飲む時間をとってください。
私の義兄は最近がんで倒れました。
姉が、一番つらいのは朝だと話してくれた時に心が痛みました。
朝は二人だけでコーヒーを飲みながら一日のことを語り合う時だったのです。
それは貴重な時間でした。
こうした貴重な時を見逃さないでください。
共に祈り、語り合い、手を取り、寄り添い、回想し、未来の計画を立てる時間を見つけて下さい。
そうすれば一致して力を合わせることができます。


3. 自分自身の時間を持つ。

私は霊的養いのリトリートに毎年参加します。
また、趣味も持っていて、女性どうしで楽しく過ごします。
姉妹でランチをしたり、iPodを聞きながら歩いたりします。
寒い夜にはニックが寝た後、好きな小説を読みながら紅茶を飲むのもお気に入りの静かな時です。
ほっとする時を作って下さい。


4. 予定を守る。

我が家にはニックの他に20歳の子もいます。
仕事、スポーツ、大学、余暇と、彼の多彩な活動スケジュールを把握するのは困難です。
しかし、私たち夫婦とニックに関しては、スケジュールをかなり固定化しています。
ニックにとっては規則的な1日が心地よく、調子が良くなると私は学びました。
友人から誘いを受けても翌日に差し障ると思われる時には、後ろめたいと思わずに断ることもあります。


5. 子どもから学ぶ。

障がいのある息子が示す愛の大きさは驚くほどです。
イエス・キリストの愛以外には経験したことがない大きさです。
それは無条件の愛です。
愛はニックから輝き出て、まさに伝染していきます。私が人々をどう愛せばよいのかを、たえず気づかせてくれます。
その愛にはごまかしや偏見がありません。
これこそイエス様が福音を通して教えられた愛です。
「『あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、知性を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。』これが、重要な第一の戒めです。『あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい』という第二の戒めもそれと同じように重要です(マタイ22:37-39)。」

もしあなたが障がいのあるわが子とこうした日々を過ごしているなら、イエス様の臨在のうちには平安があることを思い出してください。
一瞬一瞬を切り抜けるのに必要なもの全てを彼が備えてくださいます。 
あなたに障がい児を育てるという特別の仕事を与えて下さったのであり、その子はキリストの愛を完全に表すことができるのです。
この子どもを世界に分かち合う機会を与えて下さった神様に感謝します。


*この記事が書かれたのち、タミーの愛する息子ニックはしばしの闘病期間を経て地上の生涯を終え、天に帰りました。

Intentional Living:神の計画を意図的に生きる(5)

5 ふりかえり、 再評価し、 選ぶ。 主とともに歩みながら、目標を設定し、毎日のよい習慣を実践してください。 途中で立ち止まり、熟考し、再評価し、選択することです。 Intentional living は、大陸横断紀行によく似ています。 走行中に車を停め、燃料を補給する必要があ...