シェリー・エッシャー
昨年のことです。私は子ども病院の待合室で、娘が検査を受けている間待っていました。
何年も難治性の病気と闘ってきた当時にまた戻ったようで、私は重い気持ちでした。
一人で座っていると、車いすの子どもたちが次々と待合室に入ってくるのに気がつきました。
その中でも、特に一人の子どもに心がとまりました。
母親が手続きをしている間、私はその男の子が何とかして自分の身体を支えようとしているのに気がつきました。
あたかも彼の全身がきしみながら音をたてているようでした。
その時、娘の一連の病気を経験する中で、私は心から感謝することができました。
なぜなら、娘のアンナは車いすではなく、足で立ち、話すこともできているからです。
もちろん私たちの試練は大変なものでしたが、その朝、私は新しい視点を持ってみることができたのです。
それにしても、この小さい男の子の状況は、私には耐えがたいものでした。思いめぐらすうちに、私は心の中で祈っていました。
神様、どうかこの子の人生に現れ、日々重荷を背負っているこの子の母親と共にいてください、と。
できることがほとんどないとわかりながら、毎日病気の子どもの顔を見るのは、私にとって耐えられない痛みでした・・・7年前までは。
突然私は我に帰りました。検査技師が男の子の名前を呼んだのです。
「ジョブ (訳注:英語で『仕事』の意のjobのように)」
すると、母親はすぐにこう言いました。
「いいえ、この子は『ヨブ』です (訳注:聖書に出てくる人物ヨブJobのように)」
私は母親の言葉を聴いて背中に電流が走ったようでした。涙があふれました。
病院のこの待合室で、ねじれ制御できない身体を持った、現代のヨブに出会った思いでした。
私はこのヨブがどのように暮らしているか、想像できませんでした。
母親がどんな気持ちで毎朝起きて世話をしているのか・・・特に、自分の子がこの地上では逃れようもない苦しみにあると知って世話をするのは、どんな気持ちでしょうか。
無邪気な子どもが身体に障がいをかかえていることを、どう納得できるでしょうか。
私は「愛の神がなぜ災難をゆるすのか」という古典的なテーマに答えようとしているわけではありません。
しかし、人生でヨブのような状況に陥ったときにどうすれば希望を失わないでいられるでしょうか。
以下は、その朝の経験を通して、帰宅後神様が教えてくださったことです。
・感謝を忘れない。
サラ・ヤングはその著書の中で、
「試練を感謝するなどできるはずがない、と最初は思うでしょう。
しかしそれでも感謝を口に出し、信仰に立って祈るなら、やがてあなたの心は変えられるのです。感謝によって、あなたは主の臨在の中にいることを知り、全ての問題は影をひそめるのです。」
と述べています。
また、感謝によって私たちは日々新しく立ちあがり、新たな視点を持つことができます。
・希望を持ち続ける。
クリスチャンのアーティスト、ジェレミー・キャンプは「また明日がある」という曲の中で、
「・・・僕は神様のくれた この希望と約束を にぎり続ける
やがて 苦しみのない日が やってくる・・・
涙も 痛みも おそれも ない日が
今ある重荷は もはやなくなる
イエスと 顔と顔を合わせて
でも その日までは しっかりあなたに つながっていよう」
と歌っています。
歌詞を見てください。やがて苦しみも涙もない日がやってくる、しかしそれまでは、イエス様につながっていよう!というのです。
この世で苦しみの中にあってよく生きるには、イエス様につながっていることが大切です。
人生でどんなことがやってきても、神様はいつも私たちと共に歩いていてくださり、私たちを抱きかかえ、どんな問題に直面していても超自然的な力と恵みと希望をくださるのです。
神様は、私たちの心が押しつぶされそうな時、最も近くにいてくださいます。
そして、やがて私たちの涙をぬぐいさってくださるでしょう。
それまでも、試練の一つとして神に気づかれないこと、見過ごされることはありません。
黙示録21:4には、もはや以前のものは過ぎ去り、悲しみはすべてなくなる、と書かれています。
やがて、車いすの子ども、動けない身体、治療法のない病気、慢性的な痛み、うつ、喪失感がなくなり、涙のない日がやってきます。
そして、少年ヨブもいなくなるでしょう。
私たちには、地上での重荷が全くなくなり、イエス様と顔と顔を合わせて語る日がくる、という究極の約束と希望があるのです。
私たちはやがて全ての苦難から解放されます。
これこそ、私たちが人生でヨブのような経験を通るとき、持ち続けることのできる希望です!