2010/09/14

仮面をはずそう! 


~サンディ・シェパード 




たとえ危険でも、自分の抱える問題を正直に話すのはとても価値のあることです。


 「私は、心の中では泣き叫んでいても、表面はいかにも『すべて大丈夫よ』というふりをしているの」。昼食を共にしたとき、Rさんはこう打ち明けてくれました。「周りの人たちは、私には裏表がないと思っているの。でも、本当は違うわ。私は自分の悩みを人前で話すことができないの。」


 彼女だけではありません。多くのクリスチャンは、心の中では怒り、傷、恐れ、苦々しさなどの感情を抱いていても、うわべは何でもないように取り繕うのがとても上手です。Ⅰコリント12:25-26で、パウロはキリストの体がどのように機能すべきかを述べています。「それは、からだの中に分裂がなく、各部分が互いにいたわり合うためです。もし一つの部分が苦しめば、すべての部分がともに苦し」むのです。


 互いの痛みを分かち合うように勧められているのに、私たちの多くはどうして自分ひとりで葛藤してしまうのでしょうか。



なぜ仮面をつけるのか
 仮面をつけるのにはいくつかの理由があります。
  • もし自分の本当の姿を知られたら、愛されなくなるのではないかという思い。
私達は大人になっても、子供時代に経験した「拒絶されるのではないか」という恐れに基づいて行動してしまうのです。もし完全なよい子でなくても両親は愛してくれていると感じたなら、欠点があっても他人に受け入れてもらえると自信をもって成長できるでしょう。逆に、両親の愛は条件付きだと感じてしまうと、自分に「価値がない」限り拒絶されてしまうという恐れを持ったまま、大人としての人間関係に入ってしまいます。

  • 「よいクリスチャン」と思われなくなるのを恐れる。
「もし未信者の友達に話したら、クリスチャンなのに、どうしてそんなに悩みがあるのかと思われてしまうわ。偽善者と言われたくないの」と Rさん は話してくれました。

 「それに クリスチャンの友達に話そうとしても、彼女たちが悩んでいるのは見たことがないし。彼女たちのようなよいクリスチャンではないと思われるかもしれないわ。」


  • どうせ相手にしてもらえない、とりあってもらえないとあきらめている。

 「お元気ですか」と尋ねられても、それはあいさつ代わりで、別に相手は本音を知りたいわけではないと考えます。それで、「ええ」と微笑むだけになってしまいます。誰かが私達の本音を知りたいと思っているなどとは考えられないのです。


  • うわさになるのを恐れる。
うわさでいやな思いをした経験は、恐らく誰にでもあるでしょう。確かに、他人の秘密をこと細かにふれ回ってしまうような人は信用できません。その結果、どんな人も信用できなくなってしまうのです。

仮面をとるべき理由

 でも、自分の弱さを隠したままで人生を送るのは困難です。互いに心を開きあうことはとても重要です。仮面をとるべき理由はいくつかあります。

  • 人間関係において正直であれと命じられている。
聖書には、互いに真実であるようにというみことばが多くあります。「互いに偽ってはならない」(レビ19:11)、「互いに真実を語」りなさい(ゼカ 8:16)。パウロはコロサイ3:9-10で、「互いに偽りを言ってはいけません。あなたがたは、古い人をその行ないといっしょに脱ぎ捨てて、新しい人を着たのです。新しい人は、造り主のかたちに似せられてますます新しくされ、真の知識に至るのです」と書いています。



 パウロは、クリスチャンの歩みに欺きがあってはいけないと考えていました。彼は正直だったので、自分の弱さを会衆全体の中で認めることができたのです(私達の多くは、そのようなことをたった一人の人に言うことさえ難しいのですが)。パウロはコリントの人たちに「あなたがたといっしょにいたときの私は、弱く、恐れおののいていました(Ⅰコリ2:3)」と述べました。また ローマの人たちには、まだ自分が罪と戦っているとさえ書いたのです(ロマ 7:7-25)。パウロは自分から率先して、人々に対して正直であることを勧めたのでした。


  • 私達の必要を知ってもらわない限り、助けを得ることはできない。

 新約聖書には、クリスチャンが人々にどうかかわるべきかについて、さまざまなことが述べられています。「互いに忍び合い・・・なさい(コロ3:13)」、「 互いに励まし合い、互いに徳を高めなさい(Ⅰテサ5:11)」、「互いに心から熱く愛し合いなさい(Ⅰペテ1:22)」、「互いに受け入れなさい(ロマ15:7)」、「互いに訓戒し合う(ロマ15:14)」。けれども、もし私達が痛みを覆い隠し、何も問題がないようなふりをしていたら、周りの人たちは助けることが出来ないのです。



 数年前に私は「仮面をとる」ことがどれほどよいことかを実感しました。夫のリックが慢性の病にかかり、家庭生活の至る所に影響が及びました。特に試練が大きかった週のことです。スーパーの店内でカートを押していると、ある教会のメンバーであるデイブに会いました。彼女は私の近況を尋ねてくれました。自分でも驚いたのですが、私は「実は、あんまり順調じゃないの」と答えたのです。




 彼女はさらに尋ねてくれました。それで私はリックが病気で、家中が大変なことを話したのです。彼女は私に一歩近づいて、「ねえ、今あなたのために祈ってもいい?」と言いました。私はただうなずきました。彼女は私の手をとって祈ってくれました。私は店の通路で涙ぐみました。19年間牧師夫人として仕えてきましたが、これまで私にそのようにしてくれた人はだれもいませんでした。

 デイブは自分の祈りのグループにこのことを伝えたいと言いました。翌週、グループ全員が我が家に立ち寄り、私達家族のために祈ってくれたのです。彼女たちが帰ってから、リックと私は涙を流しながら抱き合い、彼女たちが重荷を持って祈ってくれていることを感謝しました。自分自身が弱い人間にすぎないことを認めたので、神様は祈りの大きな輪を与えてくださったのです。

  • 私たちが正直になると、他の人も正直になることができる。
私達が信仰生活で問題を持っていることを認めると、他の人も同じことをしてよいのだと思えるのです。リチャード・フォスターは「訓練の喜び(Celebration of Discipline)」という本の中で、このテーマについて述べています。

 「告白というのは難しい訓練です。なぜなら私達は皆、信者の集まりが罪びとの交わりだとは思えず、しばしば聖人の交わりであるかのように考えてしまうからです。・・・自分一人だけが天国への階段をまだ上りきっていないように思っています。・・・でも、神の民といっても、救われた罪びとの集まりにすぎないとわかれば、神の愛が無条件のものであることを受け入れ、兄弟姉妹の前で自由に自分の必要を告白することができるようになるのです。」



  • 私達が正直になれば、神に栄光を帰すことになる。
コリント12:7で、パウロは「肉体のとげ」があると述べています。これを取り去ってほしいと神様に願ったのですが、主は「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現われるからである(9節、傍点筆者)」と答えられた、と彼は書いています。


 パウロは、正直になることによってプライドを捨てました。彼は、神様がどんなに素晴らしい方法で自分を救い、異邦人とその王とに福音を伝える器として召されたか、ということを誇ることもできたでしょう(使9:1-19)。しかし彼は、「私について見ること、私から聞くこと以上に、人が私を過大に評価するといけないからです(Ⅱコリ12:6)」と考えました。むしろ、「キリストの力が私をおおうために(9節)」、彼は自分の弱さを誇ったのでした。



私達が弱さを認め、神様の恵みに全面的に頼るとき、神の栄光が現されるのです。


家族となる自由を与えられた


 何年も前のことですが、私達夫婦は、正直になることで教会が劇的な変化を遂げた経験をしました。


 リックは、副牧師として仕えていた大都市の教会から転任となり、小さな町の教会の単独牧師として赴任しました。最初の8ヶ月間、新しい教会員になじむのが大変でした。彼らも私達になじむのが大変でした。

 ある日曜日のメッセージで、リックは私達が7年間子供が与えられずに悩んできたこと、それを通して神様に信頼することを学んだことを話しました。その瞬間、教会の人たちは、私達が身近な人間であり、同じような問題を持った者であるとわかったのでした。私達の関係は変わりました。教会員は私たちと共に泣き、祈り、最初の子供が生まれたときには心から喜んでくれたのです。
 私達のありのままと弱さのゆえに、その教会の人たちは私達の家族となり、共に悲しみも喜びも分かち合うことができたのです。


 私達は仮面をつけたままの人生を歩むことが多いですが、神様はご自身に従う者には正直であってほしいと願っておられます。正直であることは変革をもたらします。そして変革は平安という結果を生み出します。仮面をはずせば偽りから自由になり、神の民の中でより深い交わりを持つ祝福を得ることができるのです。



仮面をはずすのを助けるために

 私達自身が仮面をとることも大切ですが、相手に「この人なら仮面をはずしても大丈夫だ」と感じるような人間であることも大切です。主にある信頼を得るためのいくつかのアドバイスをさせてください。


・人々の必要に敏感であること。

 最近ある聖会に出席したところ、数年間姿を見なかった女性が隣に座りました。少しやせたのでは、と声をかけたたところ、「このところ大変だったんです。5週間前に、夫が私をおいて出ていってしまって」ということでした。

 あなたのために祈るわね、と約束しました。彼女は私に感謝して、友人の隣の席に移動しました。そのとき、私は聖霊の促しを感じました。「どうして彼女のために祈るとだけ言ったのか。なぜ彼女と共に祈らないのか。」そこで私は、もう一度チャンスがあればそうしよう、と決心しました。昼食後、再び彼女に会ったので、「今祈ってもよいかしら」と尋ねました。彼女は目を丸くして、「あら、本当ですか」と言いました。
 彼女は感謝してくれ、私は今までどれほど霊的なカーテンを閉めてきたか、自分の周りの必要から目をそらしていたかがわかりました。神様がこの女性と親しくなるチャンスをもう一度与えてくださったことを感謝しています。

· 信頼できること。

 「祈りの課題を分かち合う」という名目で、秘密を話してしまいたいという誘惑は絶えずあります。しかし、友人が私を信頼して自分のプライベートなことを明かし、それについて祈ってほしいと言ったといっても、それがすなわち公の聖書研究会の場でも祈ってほしいという意味だと考えるべきではありません。

 箴言26:22 には、「陰口(うわさ)をたたく者のことばは、おいしい食べ物のようだ。腹の奥に下っていく」とあります。たとえ公の祈祷課題にするほど重要なことだと思ったとしても、友人には秘密を守ってもらう権利があるのです。

· 時間を使うこと。
 どんな人にも空いた時間があるものです。真実な人間関係を築くためには時間が必要です。たとえそれが、私達の優先順位を変え、忙しいスケジュールを見直すことになったとしても。


· よい聞き手であること。

  箴言18:13にはよい聞き手であることがいかに大切か書かれています。「よく聞かないうちに返事をする者は、愚かであって、侮辱を受ける」。私は夫と週に一回デートをし、ランチを楽しみます。夫はよい聞き手です。彼は私が話す時に私の目を見てくれるので、私の話を真剣に聞いてくれているのだと感じることができます。余計な口をはさまず、最後まで聞いてくれるのです。


· 恵みを分かち合うこと。


 友人たちが一番深い部分の必要を話すことを躊躇するのは、おそらく私達があまりにも早く「兄弟の目の中のちりに目をつけるが、自分の目の中の梁には気がつかない(マタ7:3)」からではないでしょうか。尊敬する友人のマーリンは噂話や否定的な会話に入ることをしません。「誰かが新任の牧師を批判するのを聞いたら、私は必ずよいところを言うようにしているの」と彼女は言います。マーリンは批判ではなく恵みを分かち合うことを実践しています。

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サンディ・シェパード(Sandy Sheppard):
元牧師夫人、「弟子訓練ジャーナル(Discipleship Journal)」のフリーランスライター 、非常勤講師、3人の子供の母親。女性のバイブルスタディーを導いている。ミシガン州ヴァサー在住。


Copyright 2007, Sandy Sheppard. Translated from Just Between Us, 777 S. Barker Road, Brookfield, WI 53045.

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