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2019/01/22

障がい児の親が平安を保つ5つの秘訣


Tammie Swaney タミー・スワニー


これから述べようとすることは、自己中心的で「母親らしくない」と思えるかもしれません。
それでも、肉体的には疲れ果て、感情面は心配、さらに精神的にまいってしまい、時には怒りがこみあげてくるという経験を通った私は、以下のことを心からあなたに分かち合いたいのです。

よい香りの入浴剤(Calgon moment)で気分転換しても一日やりきれない時、私は罪悪感と戦ってきました。
障がいを持つ子供を育てるのは、あられの中でロッククライミングをするのと同じくらい大変なことと言えます。
もちろん、どんな子どもでも困難な面はあります。
しかし両者の違いは、障がいを持つ子供が周囲の状況を理解できているのか、あるいはただふざけて親の言うことを聞かずに笑っているのかがわからない、ということです。

普通の子どもなら多くの節目を迎えます。
運転免許を取り、卒業ダンスパーティーに行きます。お泊り会、初めてのボーイフレンドあるいはガールフレンド、親子の会話、そしてちょっとした反抗。
「普通」とは日常のことを差します。
しかし、驚かれるかもしれませんが、障がい児を育てる普通とはずっと同じ状態が続くということです。その子の子ども時代が続き、そこであなた自身をいたわり身体・心・魂の安息を見出すことです。

 「永遠の5歳児」である私の息子ニコラス(ニック)は、本やドラマ、著名人(フィル博士やドブソン博士)、子ども番組(セサミストリート)では決して学べない、いくつかの子育てに関する事柄を教えてくれました。
彼は皆の心を引きつけ、地球上の誰よりも多くの愛情を受けています(親ばかですね)。
17歳のとてもやさしい子どもです。
けれども、気をつけなければなりません!興奮すると大暴れするので、数秒前までの我が家の平和な状態をめちゃくちゃにしてしまいします。
興奮する理由は誰にもわからず、すぐ対処するすべもないのです。

私にとって幸いなのは、夫のティムが積極的に子育てに関わってくれ、さらに神様が我が家を導いてくださっているので、耐えがたい日々を切り抜けられているということです。
障がい児を育てるという試練の中で気を確かに持ち続ける5つのステップを以下に示します(すべての親、すべての子どもに当てはまらないかもしれませんが、私たちにとって助けになっているものです)。


1. 神様と過ごす時を持つ。

神様のことばを読み、黙想し、力を得る時間を作ることが何よりも大切です。
神様は私たちがまさに必要な時に必要な方法を示してくださいます。
みことばは永遠の啓示であり、みことばを掘り下げる時に私たちは回復します。
「試練の日々」の中で私を支えてくれたいくつかの聖句を紹介します。

・「怒っても、罪を犯してはなりません。憤ったままで日が暮れるようであってはいけません。(エペソ 4:26)」
 叱った後でも一緒に座り、どれくらいニックを気にかけているかを示し、いつも消灯前には「愛しているわよ」と語りかけます。

・「私を強くしてくださる方によって、私はどんなことでもできるのです。(ピリピ 4:13)」
全てを失い、話す力もなくなった時、頼るべきは自分の力でなく神の力である、ということをこの聖句は思い出させてくれます。神様だけが私を持ち運んでくださるのです。

・「モーセの手が重くなると、彼らは石を取り、それをモーセの足もとに置いた。モーセはその上に腰掛け、アロンとフルは、一人はこちらから、一人はあちらから、モーセの手を支えた。それで彼の両手は日が沈むまで、しっかり上げられていた。(出 17:12)」
 これは最後の手段という聖句ではありませんが、必要な時には祈りの勇士である友人に電話し、支えてもらえるのだと思い出す重要な聖句です。誰でも疲れ果てた時にはそうした祈りの勇士に支えてもらう必要があります。


2. 夫婦で過ごす時を持つ。

これは難しいとわかっています。私たちは忙しいスケジュール、長時間の仕事と家事で疲れ切っているからです。
しかし、夫婦で過ごす時間は家庭を強くするのに必要な要素です。
夜の外出や、せめてコーヒーを飲む時間をとってください。
私の義兄は最近がんで倒れました。
姉が、一番つらいのは朝だと話してくれた時に心が痛みました。
朝は二人だけでコーヒーを飲みながら一日のことを語り合う時だったのです。
それは貴重な時間でした。
こうした貴重な時を見逃さないでください。
共に祈り、語り合い、手を取り、寄り添い、回想し、未来の計画を立てる時間を見つけて下さい。
そうすれば一致して力を合わせることができます。


3. 自分自身の時間を持つ。

私は霊的養いのリトリートに毎年参加します。
また、趣味も持っていて、女性どうしで楽しく過ごします。
姉妹でランチをしたり、iPodを聞きながら歩いたりします。
寒い夜にはニックが寝た後、好きな小説を読みながら紅茶を飲むのもお気に入りの静かな時です。
ほっとする時を作って下さい。


4. 予定を守る。

我が家にはニックの他に20歳の子もいます。
仕事、スポーツ、大学、余暇と、彼の多彩な活動スケジュールを把握するのは困難です。
しかし、私たち夫婦とニックに関しては、スケジュールをかなり固定化しています。
ニックにとっては規則的な1日が心地よく、調子が良くなると私は学びました。
友人から誘いを受けても翌日に差し障ると思われる時には、後ろめたいと思わずに断ることもあります。


5. 子どもから学ぶ。

障がいのある息子が示す愛の大きさは驚くほどです。
イエス・キリストの愛以外には経験したことがない大きさです。
それは無条件の愛です。
愛はニックから輝き出て、まさに伝染していきます。私が人々をどう愛せばよいのかを、たえず気づかせてくれます。
その愛にはごまかしや偏見がありません。
これこそイエス様が福音を通して教えられた愛です。
「『あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、知性を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。』これが、重要な第一の戒めです。『あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい』という第二の戒めもそれと同じように重要です(マタイ22:37-39)。」

もしあなたが障がいのあるわが子とこうした日々を過ごしているなら、イエス様の臨在のうちには平安があることを思い出してください。
一瞬一瞬を切り抜けるのに必要なもの全てを彼が備えてくださいます。 
あなたに障がい児を育てるという特別の仕事を与えて下さったのであり、その子はキリストの愛を完全に表すことができるのです。
この子どもを世界に分かち合う機会を与えて下さった神様に感謝します。


*この記事が書かれたのち、タミーの愛する息子ニックはしばしの闘病期間を経て地上の生涯を終え、天に帰りました。

2018/08/08

卒業シーズンの嘆きと恵み Graduation, Grief and Grace

~障がい児を持つ親へ、クリスチャンとしてのアドバイス







ダイアン・キム Diane Dokko Kim








「おめでとう!これからどうするの?」
「大学はどこに行くの?」
「どの会社に就職するの?」
「結婚したら、新婚旅行はどちらへ?」


アメリカでは6月は喜びの季節です。毎年、喜びとうれし涙の卒業と結婚、プロム(訳注:卒業のダンスパーティー)とパーティー、贈り物と正装の年度末があわただしく終わります。

しかし、重い障がいを持つ子どもの親にとっては、この時期は悲しみに襲われる季節でもあります。
もし障がいがなければ、私たちの子どももこうだったかしらと、心がまたうずくのです。

私の息子のような子どもたちにとっては、時と機会は違った流れ方をします。
私の16歳になる息子は自閉症、ADHDなどの障がいを持って生きています。
比べたり羨ましく思ったりしながら、私のような親たちは、普通は親として味わう記念行事の喜びを味わえないことをしばしば嘆きます。子どもの名前が書かれた卒業証書、結婚式に親子で踊るダンス、孫の誕生などです。
毎年6月になると、自分たちが経験することのない行事を耳にし目にしては、私たちが払う隠れた犠牲(機会費用)を考えるのです。

他の人の式典やお祝いに出席する時、あるいは誰かのプロムの写真をソーシャルメディアで見る時にはいつも、私たちは礼儀正しくにっこり微笑みます。
けれども心の中では、静かに悲しみます。
うちの子は違うもの。将来はどうなるのかしら。彼の人生の意味は何かしら、と。

また、この時期は私の信仰がゆらぎ、神観が問われる時です。
毎年、私は自分自身に福音を語って思い出させなければなりません。
神様の国では、この世界の価値観とは異なる基準、つまり神の国の貨幣価値で祝福と達成とがはかられるのだ、と。



罪の贖いに価値をおく

2000年前、天が開け、聖なる全く特別な方の誕生を告げる神の声が聞こえました。
その方は祝典と冠を受けるに最もふさわしい方でした。
神の愛するひとり子、神の喜ぶ子であり、洗礼を受け、若くしての死に従われた方でした。
無名で生まれ、身分の低い大工の子として育ちました。ご自身が結婚することはないと十分に知りつつも婚礼の席では喜びを表し、決して親になることはなくても喜んで子どもたちの病気を癒されました。祭りの祝宴では、決して離れないと約束した直後に自分を見捨てることになる友と、パンを裂いて分けられました。

与えられないものを嘆くかわりに、イエスはご自身に与えられた特別な召し、他の誰にも理解できなかったまさにユニークな重荷を背負うという召しに向かい続けられました。 
救いを与えるために来られたその世によって、裸で、誤解され、卑しめられて死にました。

この世的な成功から見れば、イエスは「失敗した」と見えるかもしれません。それでも、その誕生によって歴史を紀元前と紀元後に分けたような人物はいません。死からよみがえった人物も他にはいません。天に上り神の右の御座に座った方もいません。永遠の救いを全ての人に保証するのもこの方以外にはありません。他に救い主はいないのです。

神の御子はこれらすべてを、学位、キャリア、結婚、家族、優れた友人を持つことなく成し遂げられました。彼の功績はほとんど歓迎されませんでした。評判も、壮麗さも、境遇も伴わないご自身の召しを実行されたのです。



神の願いとは

「主はあなたに告げられた。人よ、何が良いことなのか、主があなたに何を求めておられるのかを。それは、ただ公正を行い、誠実を愛し、へりくだって、あなたの神とともに歩むことではないか(ミカ6:8)。」

何が神の望まれる最低限で最上のことか、それはただ神の子どもたちが公正を行い、誠実を愛し、へりくだって、神と共に歩むことではないか、とあります。社会の価値観にふりまわされず、イエス様はただ神様の目的を達することだけを望まれました。
心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして主を愛されました。そして隣人を自分自身のように愛されました。それだけが神がとられる基準です。
このようにして、イエス様は他に並ぶ者がいない、成功した人生を歩まれました。

対照的に、この世界での成功のバロメーターは学業や仕事の業績、強さ、力、美しさ、繁栄、地位などです。
こうした基準に照らすと、我が子のような障がい児は劣っているとみなされます。不十分で欠けがあるとみなされるのです。


「うちの子はどうなるの?将来は?この子の価値は何かしら?」


本当に愛されている子どもは、自分の価値を何かをすることによってわかってもらう必要はありません。何かを会得したり成し遂げたりする以前に、愛されているから価値があるのです。
我が子が生まれた瞬間から、その子が最も無力で依存的で、何も与えることなく、かえって私たちの持つ力を全て奪う存在であっても、私たちは決して壊れない愛を持って子どもを愛します。
それはただ、我が子だからだという理由で愛するからなのです。

私たちが子どもに注ぐ思いは、神様の犠牲的な愛のあらわれです。
私たちがまだ罪人であったときに、キリストは私たちのために死なれました(ローマ5:8)。キリストは私たちが最も価値のなかったときに、私たちを愛し、大切に思い、犠牲を払ってくださったのです。それはただ、私たちが神の子どもだという理由によるのです。

技能、業績、能力に関係なく、すべての神の子どもは、等しく尊い存在で神にあってそれぞれの目的を持っています。
主がご自身の子どもを「恐ろしいほど奇しく(詩篇139:14)」造られたのですから、神様の評価を疑わないでください。


悲しみが与えてくれるもの 

この人生の変化と移動を祝う驚くべき季節にほとんどの家族は喜びますが、中には悲しむ家族もあります。
典型的な親は子どもたちが家を出て大人になっていくことに喜びと悲しみの入り混じった複雑な思いを抱くのです。

一方で、障がい児を持つ家庭は、我が子が成長し自立する日が決して来ないことを嘆きます。
でも逆に、悲しみの気持ちは期待しなかった贈り物ももたらします。失ったもの、欠けたものを認識することで、私たちの最も大きな栄誉はこの地上で語られるものではないということを強く思わされるのです。

著名なクリスチャンの作家、C.S.ルイスはこう述べました。「もし、われわれの願望がこの世界では満たすことができないことに気づくなら、それはわれわれが別の世界のために造られたからだ、というのが最も妥当な説明である。」

私たちの究極の変化とは、別の場所で栄光に入れられることです。
「私たちの国籍は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主として来られるのを、私たちは待ち望んでいます(ピリピ3:20)。」

その時まで、神の子どもなら誰でも成績や学歴に関係なく、心、いのち、思いを尽くして主を愛することができます。また、隣人を自分自身のように愛することができます。
何を成しとげ行ったかではなく、神の子どもであるがゆえに、能力にかかわらず私たちはかけがえのない存在なのです。
私たちへの神の無条件の愛は成績証明書の点数ではなく、恵みのはかりではかられるのです。

「ですから、私たちは今後、肉にしたがって人を知ろうとはしません。かつては肉にしたがってキリストを知っていたとしても、今はもうそのような知り方はしません(Ⅱコリント5:16)。」


英語オリジナル記事は Graduation, Grief and Grace   (https://justbetweenus.org/relationships/parenting-challenges/christian-advice-for-parents-of-children-with-disabilities/)
Copyright 2018 Diane Dokko Kim.  Translated from Graduation, Grief and Grace

Just Between Us Japan は、アメリカの Just Between Us Magazine の日本語版サイトです。女性の働き人、伝道者の妻、教会の女性リーダーたち、そして人間関係や宣教、生活の課題に関心のあるあなたのための情報です!
英語版では季刊誌が発行されています。日本語ウェブサイトは、Just Between Us の情報を英語だけでなく日本語でも提供し、日本の宣教にかかわる女性を励ますため、2007年7月に発足しました。記事の翻訳を中心に、有益な情報を発信していくことを目的にした非営利のミニストリーです。英語版ウェブサイト:https://justbetweenus.org/

2011/05/10

身体のいやしよりも大切なもの Something Greater Than Healing

ジョニー・エリクソン・タダが苦しみと神様の主権の不思議について語る













 ジョニー・エリクソン・タダは「現代のヨブ」と呼ぶにふさわしい人物かもしれません。彼女は17歳の時、ダイビングの事故で両手両足の自由を失いました。この10年間は絶えず体に痛みを覚え、そして60歳になった今(2010年)、乳がんの宣告を受けました。




 6月に手術を受けて後、彼女は新刊「いやしの場:苦しみ、痛みと神様の主権の不思議(A Place of Healing: Wrestling with the Mysteries of Suffering, Pain, and God’s Sovereignty)」について前向きに確信を持って語りました。そこには苦しみにあうことと神の存在をどうとらえればよいか、彼女の考えが書かれています。


――乳がんの宣告を受けてから、苦しみや癒しについて、あなたの考えに何か変化はありましたか?

ジョニー: 感謝なことに、全く変化はありません。聖書を開けて、いやしに関する聖句を探すことがあるでしょう。私は四肢まひになった時にそうしました。また10年前に体がたえず痛むようになった時にも再びそうしました。乳がんと診断された時にも全く同じ聖句を開きました。神の言葉は何一つ変わっていませんでした。


 いやしに関する聖句はたくさんありますが、私はずっと第一ペテロ2:21が心にとまっています。



「あなたがたが召されたのは、実にそのためです。キリストも、あなたがたのために苦しみを受け、その足跡に従うようにと、あなたがたに模範を残されました」。



 ある意味、私はこの乳がんを通してでさえ、キリストがより近く感じられるようになったのです。主のご性質について1年前、あるいは半年前にはわからなかったことがありました。だから、私は今もなお成長と変革の途上にあるのだなあと思います。第一ペテロ2:21の聖句は、神様の目的を知りたいと思いつつ試練を通っているすべてのクリスチャンへの確かな約束です。


――主のご性質についてどのようなことが新しくわかったのか、詳しく話してくださいますか?

ジョニー: イエス様はヨハネ14章で「わたしを信じる者は、わたしの行なうわざを行ない、またそれよりもさらに大きなわざを行ないます」と言われました。私たちはまるでイエス様が「さあ、私のした奇蹟をみてごらん!いつかあなたたちもこれ以上の奇蹟を行うようになるよ」とおっしゃったのかな、と考えがちです。

 けれども、イエス様は必ずしも奇蹟について話されたわけではありません。イエス様は福音を宣べ伝え、神の国を拡大されたのです。この世がまさに神のものだと宣言されたのです。

 ヨハネ14章の約束を下さったとき、イエスは「あなたがすべきことを教えてあげよう。父なる神と私は福音が宣べ伝えられるように願っている。だからあなたがそのわざをするために必要なものは何でも与えると約束しよう。あなたは、私がしたよりもさらに大きな働きができるだろう」と言ってくださったのです。

 イエス様は3年間宣教をされましたが、地上での生涯を終えられる時には、信仰の弱い10人ほどの弟子しかいませんでした。復活後昇天され、聖霊を送ってくださいました。すると、驚いたことにあのペテロが一回説教をしただけで、何千人もの人が信じたのです。それこそが、神様が私たちに望んでおられる「さらに大きなわざ」なのです。


 同じことを私はこのひと月の間に体験しました。レントゲン技師、看護師、医師の秘書、医療スタッフなど、放射線治療やMRI検査で非常に多くの人達との出会いがありましたが、そのすべての人たちがキリストを求めて渇いておられたのです。

 どんな人にもキリストが必要だということは前からわかっていましたが、今回診断を受けてみてそのことを特に感じます。人々は「乳がんになったのに、それを許した神様にどうしてそんなに信頼していられるのですか」と 尋ねるので、とても驚いています。そして、私にはそれに対して答える機会が与えられているのです。
 大きなわざとは奇蹟のことではなくて、福音が拡大することであり、神の国が与えられたことであり、何がキリストのものであるかを宣言することなのです。




――それは「なぜ神がよい方なら、この世に苦しみがあるのだろうか」という古典的な問いに対する答えのヒントとなりますね。新しく出された本では神様の支配についてどのように表現されたのですか?
ジョニー: 私も疑問を持ちましたし、人々も同じ問いを持ちます。


 でも、その時私たちはこの世界が患難のうちにしばられているという事実を受け入れていないのだと思います。 この世が堕落しているからこそひどい苦しみがあるのであり、この世はひどい悪の支配のうちにあってうめいているのだということを覚える必要があります。



 もし正しい神が罪を取り除かれるなら、それはすなわち罪人を滅ぼすことを意味します。でも神は忍耐強く恵みに満ちた方であられるので、苦しみをあえてそのままにしておいてくださるのです。もっと多くの人がキリストとの交わりに入るまでは、神様は苦しみを取り除いてしまわれないのです。

 私にとってはこれが納得できる答えですし、他の方もこう考えれば納得がいくのではないかと思います。


 「この世の苦しみは人類の罪ゆえである。もし神が苦しみを取り除こうとされるなら、人類の罪を取り除かなければならず、それはすなわち罪人を滅ぼし尽くすということである。けれども神様はあまりにもあわれみ深い方なので、それをしないでおられる」と。


――もし苦しみの原因が人間以外にあるなら異なりますか?たとえば、自分でなりたくて乳がんになったわけではありませんね。ある人が故意に害を加えるのとは扱いが違うのでしょうか。


ジョニー: いいえ、乳がんに関しても、自分で予防することはできました。私がもし5年前にマンモグラムを撮っていれば発見できたでしょう。自分以外のだれの責任でもありません。レストランでの受動喫煙のせいにすることもできません。マンモグラムを撮るべきだったのに、撮らなかったのです。


 自分がそれを怠ったことについては後悔しています。(もし何か言うべきなら「マンモグラムを撮りましょう」と言いたいです。)

 試練が自分自身の怠惰から生じても、悪い人から直接受けたことによるものでも、あるいは自分の無知や誤った決断によって生じても、不注意や過失によっても、また自然災害によるものであっても、これらは神様の絶対的な支配の下で起こったことです。


 新約聖書をよく読むと、神様の主権はこれらすべてに及んでいることがわかります。神様はたとえご自身が望んでおられないことであっても、それが起こるのをあえて許しておられるのです。


 神様は私の脊髄損傷というケガやガンを望んではおられませんが、絶対的なご支配の下でそれを許されたのです。「許された」「認められた」「運命づけられた」とどんな言葉で表現してもかまいませんが、皆同じことです。最終的には神様の支配のもとにあるというところに行き着くのです。ですから、それほど違いがあるとは思いません。

 試練は辛く悲しいものです。辛さや悲しみと切り離すことはできません。

 もちろん、神様は苦しみを与えないでおくこともおできになったでしょう。泥棒が侵入し盗むことも防げますし、悪人が銃を発射しないようにもできますし、私をガンにならせないでおくこともできたでしょう。また、私の心に「マンモグラムに行きなさい」と命じることもできたでしょう。
 

 でももし神様がこれらのことが起こるのをお許しになったとしても、それは神様が人を無視しているとかどうでもよいと思われているとかいうことにはなりません。永遠に至るまでのこの地上では、神様の意思と目的、そして支配のあり方はもう少し理解を越えものた、不思議なものなのかもしれません。


――乳がんの宣告を受けたとき、あなたの反応はこれまでのさまざまな苦しみの経験とは異なっていましたか?

ジョニー: 感情的には落ち込みませんでした。腫瘍がある、それならば治療しようじゃないか、と思いました。首の骨を折りましたが、これはどういうことか、よし、まじめに向き合って歩んでいこう、と思いました。


 私は否定的な感情によって絶望してしまいたくない性格なんです。絶望はとても深い沼地に落ち込むようなものです。それよりは、私は全力で人生に向き合い、起こることをそのまま受け入れ、そこから学んでさらに前進したいのです。


――苦しみのある生活の中で、どのようにいやしを祈ったらよいのでしょうか?

ジョニー: 「長老のところに行き、油を塗ってもらい、罪を告白する」という聖書のことばに従うことが大切だと思います。もし特別な祈り会に参加する必要を感じたら、ぜひそうしてください。牧師に油を塗って手を置いてもらってください。それから、その人の人生を歩み続けなければなりません。

 私が最初のケガをしたときもそうでした。罪を告白して油を塗ってもらいました。手足のいやしのためにみことばをいただこうと、ただじっとしていますか?そう願いながらも人生を歩み続けなければなりません。もし導かれるなら癒しを祈り求められたらよいと思いますが、癒しを願いつつも日々生きていかなければなりません。


――もし生きていくことに視点を合わせるとしても、クリスチャンとして将来の試練や死に備えるべきではないのでしょうか。

ジョニー: 快適さを追求する文化の中では、死にどう備えたらよいのかだれもわかりません。

 けれども死への備えは日々すべきものです。一日一日、私たちは何千もの死を経ているのです。病気を宣告されたり心停止から蘇生したりするだけが死の陰の谷を歩んでいるというわけではないのです。


 自己中心的な欲望に「ノー」という時はいつも、私たちは死の陰の谷を歩んでいるのです。神様の恵みに「イエス」と言う時、私たちは死ぬとはどういうことかを学んでいるのです。

 この前の週末、私は友人と賛美歌を歌っていました。私の好きな歌の一つに「偉大なる主よ、私を導きたまえ(Guide Me, O Thou Great Jehovah)」がありますが、用いていた賛美歌集の中の歌詞が変わっていました。死についての歌詞が変更されていたのです。


「死や地獄の滅びから、私をカナンの地へ導きたまえ(Death of death and hell’s destruction, land me safe on Canaan’s side.)」というとても深い真理を表現した歌詞が


「私を助けてください、かなたまで(Help me through until the other side.)」

という曖昧な表現に代わっていました。「死」や「地獄の滅び」という言葉が省かれていたのです。


 どうしてそんな変更をしたのかしら、と思いました。私たちは日々どのように死ぬかを学ぶ必要があるのに。
 苦しみによって私たちは死ぬことを学びます。苦しみは私たちに死への準備をさせてくれるのです。毎晩眠ることも、やがてこの地上で永遠に目を閉じ、永遠の世界で目を覚ます日に備えてのリハーサルです。



――あなたが苦しみを理解する上で特に助けになるイエス様の教えは何ですか?

ジョニー: マタイ18章の中で、イエス様が

「もし、あなたの手か足の一つがあなたをつまずかせるなら、それを切って捨てなさい。・・・また、もし、あなたの一方の目が、あなたをつまずかせるなら、それをえぐり出して捨てなさい」


と言われた部分です。


 イエス様は喜んで手の不自由な人を癒し、歩けなかった人の足を歩けるようにし、目の見えなかった人を見えるようにされた方ですが、ここではもし罪を犯させるのならあなたの手を切って捨てなさい、目をえぐり出しなさい、と言われました。イエス様は、肉体的なことも大切ですが、魂の健康はより重要だ、という優先順位を強調されました。

 癒しについて尋ねられますが、私は肉体的な癒しよりも自分の心の癒しにより関心があります。

 どうぞ、私が神のことばや祈りに対して怠惰にならないように、また無用なプライドを捨て去ることができるように、自己中心から解放されるように祈ってください。それらはより重要なことです。なぜなら、イエス様が心の問題がより重要だと考えられたのですから。










    JBU2010冬号より クリスチャニティ・トゥディ誌(2010年)からの抜粋記事
 



Copyright 2011 Sarah Pulliam Bailey. Translated from Just Between Us, 777 S. Barker Road, Brookfield, WI 53045 

バランスのとれた人生とは Balancing Act 

JBU誌の編集スタッフが語る、 人生の季節をよく生きること 聞き手 Ann M. Cook 私たちは皆、バランスを取るのがなかなかうまくいきません。 家族の世話、ミニストリー、介護、奉仕は、私たちが抱えるほんの一例です。 たいてい、これらをすべて同時にこなさねばなりません。 JB...