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2025/02/11

バランスのとれた人生とは Balancing Act 


JBU誌の編集スタッフが語る、
人生の季節をよく生きること

聞き手 Ann M. Cook


私たちは皆、バランスを取るのがなかなかうまくいきません。
家族の世話、ミニストリー、介護、奉仕は、私たちが抱えるほんの一例です。
たいてい、これらをすべて同時にこなさねばなりません。
JBU 誌のアーカイブ記事の中に、2002 年夏号(この記事の21年前)「バランスのとれた人生」というインタビューがありました。
このテーマは、当時と同じく今日の女性にも当てはまります。
JBU誌 のスタッフである メアリー(Mary Perso)、スーザン(Suzan Braun)、シェリー(Shelly Esser) が、人生のさまざまな時期を通じてどのようにバランスをとり続けているか、以下に最新のディスカッションをお楽しみください。


JBU: あなたにとって「バランス」とは何でしょう。あなたの人生ではどんな感じですか?

メアリー: 秩序の感覚だと思います。
バランスがとれているとは、必ずしも忙しさがないというわけではなく、深い所に平安があることです。
バランスの取り方は人生の時期によって異なります。
イエスの人生、特に公生涯は、私たちがバランスと考える生活にはまったく当てはまりません。イエスは父の声を聞き、それに従うと決意していました。彼は過激でした!

スーザン: バランスが取れるのは私にとって不可能だと感じることが多いです。
他の人の生き方を見ると、よく「本当にうまくやっているなあ...私には絶対に無理だ」と思います。
私は比較の罠に陥らないよう気を付ける必要があります。なぜなら、他の人は私よりもずっとうまくやっていると思う傾向があるからです。

シェリー: バランスを取ろうとして、間違ったことに集中しすぎてしまうことがよくあります。
クリスチャン生活にあたって、神が私たちに望まれることを個人的に求めることが大切なのですが、それに対して、この社会は手っ取り早く簡単にできる方法を求めるように私たちを訓練してきました。
バランスそのものを求めることによってではなく、私たちの人生に対する神のみこころを求めることによって、よいバランスを見出せると思います。

マタイ6:33は、「まず神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられます」と述べています。
私たちに必要な「これらのもの」とは、まず神を求めるときに与えられます。そしてそれには何をすべきかも含まれます。

人生を通して、神が私に焦点を合わせるように願われることは絶えず変化してきました。
昨年私が焦点を合わせたことは、今日私がしていることとは異なります。
だからこそ、私たちの人生に対する神のみこころを日々求めることがとても重要なのです。
伝道者の書 3:1 は、「すべての事に時がある」ということを思い出させてくれます。
人生のある時点でうまくいくことが、別の時期にはうまくいかないこともあります。


JBU: 奉仕、家族、その他の要求のバランスを取る上で、何を学びましたか?

メアリー: 母親であり祖母であることは大きな喜びです。どちらも崇高な使命です。
夫と私は、宣教に献身していると感じており、常にお互いを尊重しようとしています。
夫は、私が神の召しを行えるように、多くのことを諦めました。
一方、夫が教会の役員になるよう頼まれたとき、私は多くのことを手放し、彼が神から召されたことに集中できるようにしました。
もっともこれらはよく考えねばならないことです。なぜなら、ついつい献身「しすぎて」しまうからです。

今は子育てが終わり、新たな人生の時期を迎えています。
私は Just Between Us編集部でフルタイムの責任を持ち、夫はこれまで以上に地域活動に携わることができます。
息子たちはそれぞれ素敵な家庭を持ちました。高齢の両親の世話をする時期も過ぎました。私たちの健康は守られています。
どれだけ続くかわかりませんが、私たちは人生のこの時期を心から楽しんでいます!

スーザン: 夫と私は分担しながらやっています。
私たちはどちらも離婚した家庭で育ったので、家族を優先することは常に重要でした。
子供を育て、祖父母となり、年老いた両親の面倒を見る中で、私たちはしばしば「完璧ではない」と互いに言い聞かせなければなりませんでした。
さまざまな方向に気持ちが向くことが多いので、現実的な期待にとどめるのを助けてくれます。

もう70歳間近なので、仕事、ミニストリー、家族への役割がさらに重くなっています。
5人の孫と共にいるのは、へとへとになる位素晴らしいことです。
彼らの人生に影響を与える機会を大切にしています。
「私が年老いて白髪になっても、私の神よ、私を捨てないでください。あなたの力を次の世代に、あなたの大いなるみわざを来るべきすべての者に告げるまで」(詩篇71:18)。


シェリー: 一度にすべてを手に入れることはできません。神がある活動を延期するようにと望まれていることに気づかず、ある時期にすべてを詰め込もうとすると問題が発生します。
延期しても私たちがそれらのことを二度とできないというわけではなく、それが今はできないという意味です。
この真理は、私の 2 番目の娘が幼稚園に通っていたときに、心に深く覚えました。

私は、やりがいのある奉仕を断るのに苦労していました。でもイエスと言い続けたら、娘たちにとって神が望まれるすべてをこなせません。
車で家に帰り、また母親としての義務的な日常を果たしているように思えたとき、娘が言いました。「ママ、どうやってクリスチャンになるの?」
その夜、彼女は寝る用意をしているとき、イエスを心に受け入れました。
神は、私が探していた「すべて」をその瞬間に示されました。
人生の別の時期にすることを急いでしていたら、娘との永遠の瞬間を逃していたでしょう。
毎日、神のみこころを求めることが全てです。


JBU: 家族のバランスを保つために、どんなことを実践してきましたか?

メアリー: 子どもたちがまだ家にいた頃は、十分ではありませんが彼らを巻き込んでいました。
外で働くということは、私がすべてをこなすことができないということでした。
そこで、息子たちは交代で洗濯物を仕分け、やがて自分で洗濯をすることを学びました。
また、夕食を作るのを交代で手伝ってくれました。(今では、二人の息子は料理上手です。)
家事当番表を作るのも役立ちました。
子どもたちを家族の責任に巻き込むことは、負担を減らすだけでなく、子どもたちの成長と成熟のためにも重要です。

スーザン: 子どもたちには好きなことを何でもしなさいと言っていますが、やりたいことをすべてできるわけではありません。
ノーと言うのは大変ですが、誰にとっても必要なことです。
祖母がかつて「1 つのことにイエスと言うなら、他のことにノーと言うのだ」と言っていました。私は子どもたちによくそのことを言います。

シェリー: 4 人の娘が生まれるたび、その時はできない活動を神の前に手放しました。
子ども1 人のときと、2 人以上のときではできることが違いました。
新生児がいる 1 年間は、なるべく外の活動を控えました。
といっても、子どもの成長期もずっと、私はミニストリーを続けてきました。
できる奉仕の量は常に変化していましたが。

家族の用事が多いと、配偶者をないがしろにしがちです。
敵は、子育ての忙しさに乗じて夫婦関係を弱めようとしてきます。
特に子どもが生まれてからは、夫と少なくとも年に 1 回は 2 人きりで過ごす週末を持つようにしました。
また、子どもが小さく経済も限られていたときは、家具の修理を始めました。
子どもが寝た後、地下室に行って家具を修理しました。
どの夫婦も、一緒に楽しめることを見つける必要があります。


JBU: バランスが崩れていることに気づくのはいつですか。どう修正しますか。

メアリー: バランスが崩れているのは家にいるとわかります。イライラしたり、神経質になったり、いらいらしたりします。そうしたら、何がバランスを崩しているのかを突き止めなければなりません。

子どもたちが小さかったときは、みんなで協力して 15 分間、1階の部屋を掃除し整頓するだけで本当に助かりました。今も同じです。
今は、成人した子どもたち夫婦、孫など、みんなが家に集まり、混乱で圧倒されそうになったとき、協力して家事ををすることで同じ効果が得られます。
家族の予定がいっぱいになってストレスがたまったら、予定をキャンセルします。

スーザン: 家族の当たりがきつくなったとき、バランスを崩しているのがわかります。
家族は私の安全な避け所であり、最もはけ口になりえます!
私は独りになるようにもしています。
また、普段は習慣となっている仕事や責任が、重すぎると感じることがあります。
この 2 つが起こり始めたら、自分に優しくし、助けを求める必要があることを認め、主とともに賛美と礼拝の時間をとるようにしています。
この習慣は、心の緊急事態を静めるのに役立ちます。


JBU: 単なる忙しさでなく、バランスを保つにはどうすればいいでしょうか?

メアリー: 今までに受けた最高のアドバイスは、イエスがすべてをやり終えずに死なれたことに気づかせてくれた、牧師からのものでした。
癒されずに残された人々、貧しいままだった人々、イエスを知らないまま残された人々がいました。
イエスが、多くのやり残しがあったにもかかわらず、自分の仕事は終わったと言われるのならば、私たちも同じようにできます。
それは私にとっての転機であり、決して忘れないでしょう。

忙しすぎるサインの 1 つは、忙しさに伴う不毛感です。
喜びがなくなり、むなしい気持ちになることがあります。
主との交わりの感覚が失われ、他の人との関係がぎすぎすすることがよくありました。
年をとってよかったことの1 つは、神が私に与えてくださった賜物がわかることです。もう「ノー」と言うのに苦労しなくなりました!

スーザン: 年齢を重ね、経験を積むにつれて、常にすべての人を幸せにしておくことはできないと気づきました。
人を喜ばせようとする私は、自分の決断や選択が家族を含め他の人をがっかりさせることがあっても、物事を手放すことを学ばなければなりませんでした。

シェリー: ミリー・ディーナート(Millie Dienert)はかつてこう言いました。
「聖霊に導かれていない活動は、ただの多忙に過ぎません。」
忙しさには細心の注意を払わなければなりません。
忙しさは、人生を喜んだり最も重要なことをしたりする妨げになるからです。
私は常に自分のすることを主の前に持っていき評価するようにしています。そうして、主に導いいただきます。
主は私に何が運べて、何を運べないかをご存知です。


JBU: 重荷を下ろして休息するにはどうすればいいでしょうか?

メアリー: 何が喜びを与えてくれるのか、何が自分を元気にしてくれるのかを知ることが重要です。
子どもたちが小さい頃、彼らの感情のタンクを満タンにしておくことが大切だという話を聞いたことがあります。
これは子どもだけでなく、すべての人にとって大切です!
自分が疲れ果てていたら、他の人に与えることはできません。
リフレッシュし、元気を取り戻す時間が必要です。
マタイ11:28-30 を黙想し、降ろすべき重荷を列挙するとよいでしょう。
それらは私たちが背負うべき重荷ではないことを思い出させてくれます。
イエスは、わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いと言われました。

スーザン: 時折リフレッシュが必要だと感じます。どこにも行けないときは、今通っていることを主に継続的に話すようにしています。
聖書や慰めの詩篇を読むこともあります。
多くの場合、その後数時間、数日間は、環境は少しも変わっていなくても、神様が私に平安を与えてくださることに驚きます。
不安を神様に話すだけで、安らぎとリラックスへと導く平安が得られます。

シェリー:平安というのは、心配ごとをキリストに委ねるときに得られます(1ぺテロ5:7)。
神様のおかげで、4つの大きなプロジェクトの締切が同時に迫っていても平安でいられますし、電話が鳴り、子供たちが泣き叫ぶ中でも、ある種の静けさを楽しむことができます。
心配事が迫ってくると感じるたびに、それを神様にお返しするようにしています。
ある日は、ずっと心配事が続くかもしれません。
でも、定期的にみことばに頼り、力を得、正直に祈る時間を過ごして神様に心を向け続けると、平安ががやってきます。
もちろん、身体の休息も必要です。
ストレス解消に自転車に乗ったり、賛美歌を聴いたり、ジャーナリングをしたりと、楽しんで心身を休められる短い「休憩」を生活の中に取り入れるようにしています。


JBU: 2002 年の夏以来、バランスについて何を学びましたか?

メアリー: 年を取ることには多くの利点があります。
主と共に長年歩んできました。これまでの歩みがこれからの歩みより長かったので、本当に重要なことに焦点を合わせることになります。
より積極的になり、悪循環に陥らないようになりました。

スーザン: 子どもが育ち祖父母になったら、人生はもっとリラックスできるだろうと以前は信じていました。
そうではありませんでした。
どの季節も忙しいものですが、満足感を得るための鍵の 1 つは、「あなたがたのうちに良い働きを始められた方は、キリストイエスの日までにそれを完成させてくださいます」(ピリピ 1:6) です。

神は今でも私の人生に目的を持っておられ、神をペースメーカーとして信頼し続ける限り、これからの日々や年月を笑顔で迎えることができます!

シェリー: バランスを取るためにセルフケアを含めるのはよいことです。
娘たちが結婚し、母親になり、年を重ねる歩みを見ていると、私が気づかなかったことに気づいています。
彼女たちは、楽しみや休憩、ネイルサロンへの旅行さえ、うまく取り入れています。私がそんな時間があるとは思ってもいなかった、あるいはしてよいとも思っていなかったことです。
慢性疾患を患う子どもと夫や他の家族の世話をしながら、定期的に自分の世話をしないで何十年も生きてきたため、私は何年も消耗し、とうとう燃え尽き、喜びを失い、再び自分を取り戻すための助けを必要としていました。
(イエスとカウンセラーの両方を必要としても大丈夫です!)

私の回復は、セルフケアをすることを神が望んでおられると理解したことに始まりました。
私たちは空っぽのまま、人生のすべてをケアすることはできません。

セルフケアをすることは聖書にも書かれています。
神は安息日という休息日を創造し、私たちが週のリズムの一部として元気を取り戻せるようにされました。
イエスはそれに従われました。
よく山に退き、エネルギーを補給し、神とつながりました。
セルフケアは、生活のあらゆる部分を適切に管理することです。
なぜなら、神から与えられた目的を果たすためには、絶えずエネルギーを補給する必要があるからです。
私は毎週、友人に電話をかけたり、森の中を散歩したり、聖書の学び以外の良い本を読んだりするなど、なにか楽しいことをするようにしています。
セルフケアは、神に栄光を帰す、よりバランスのとれた生活につながるのです。

女性として、私たちは自分のニーズよりも他の人のニーズを優先するようにできています。
自分のために時間を取るのは霊的ではないと考え、罪悪感を感じることがよくあります。
しかし、神が私たちに与えてくださった目的を生きるのであれば、自分をケアすることは贅沢ではなく、必要不可欠なことです。
バランスは私たち一人一人にとって異なりますが、神は私たちが人生のあらゆる時期を祝福のうちに過ごすことを望んでおられます。

2025/02/08

意図的な休息、その恵み


人生を回復し、新たな力を得、魂を整える。


Catriona Futter



「すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」(マタイ11:28)
 
イエス様はこう言われました。私たちの多くにとって、とても馴染み深いことばです。
しかし、もう少し詳しく知りたいと思うことがあります。
「イエス様、それは一体どういう意味ですか?私には効かないんです。疲れ果てています。」

私は精神的、感情的なエネルギーがいる人生の時期にいます。
2人の娘はどちらも遊学中です。
ここ数年は、娘たちが卒業試験を通過し、アートポートフォリオや大学の願書をまとめ、課題と共に家を出るのを手伝うのに忙しくしていました。
私はこれらの変化がよいことだと十分理解しており、感謝しています。

しかし同時に、自分が疲れ果てていることも知っています!
睡眠は休息をもたらすと知っていますが、なかなか心が落ち着かないときは、寝るのが難しいことがあります。
またぐっすり眠れたとしても、それで心、魂、精神を回復させることはできません。

私は、疲れの感じ方がいろいろあるのと同じように、休息の形もいろいろあるということに気づきました。

サンドラ・ダルトン・スミス博士は、7 つの異なる休息の型を提唱した医師です。
彼女の著書「聖なる休息(Sacred Rest)」を読み、彼女の Web サイトを紹介してもらって、これまでの人生で得られなかった多くの疑問の答えを解き明かす鍵を手に入れたような気がしました。


7種類の休息

私たちはしばしば、「休息」を身体的な休息や長めの睡眠を取ることととらえがちです。
しかし、この狭い「休息」の概念は、的外れなことがあります。
それは私たちの身体、心、魂の疲れに対する万能の解決策ではありません。

7 種類の休息の多様な概念を理解することで、疲れた魂に自由と希望がもたらされ、意識的な休息に満ちた生活を送ることができるようになります。


ダルトン・スミスによって定義された7種類の休息(www.dradaltonsmith.com/resources) は、以下の通りです。

1 肉体的な休息。

これは、よく知られている休息です。
身体を休めるということは、体を回復のためにリラックスさせ、緊張を和らげ、睡眠の質を高めることです。
私たちの体は驚くべきものです。
当たり前のように捉えがちですが、身体を休めるということは、断片化された私たちの体を、積極的で前向きな方法で再統合するように意図的に用いることです。

私は、自分の体が何を欲しているかに注意を払う習慣がありませんでした。
しかし、すぐれたピラティスのインストラクターが、体の緊張している部位を意識し呼吸や姿勢を変えることを、ストレッチによって意識的に行うよう指導してくれました。
まだまだ練習中ですが、とてもよいことです。


2 精神的な休息。

私たちの脳は、To-do リスト、細心の注意が必要な仕事、考えすぎる習慣、自己批判、終わりのない計画などで、常に負荷がかかりすぎています。
この精神的なノイズが私たちを疲れさせ、集中力を低下させます。

精神的な休息とは、その雑音を止め、心にかかり過ぎた負荷を取り除くことです。
特に画面を見る作業では定期的に短い休憩を取ることと、一日の終わりに頭の中にあることを紙に書き出すことが役に立ちます。

沈黙も、休息のための素晴らしい方法です。数分間座って、神様のことだけを集中して考え、完全に沈黙してみてください。どれほど難しいかがわかるでしょう!
これは、精神的な休息のための一例にすぎませんが、効果的な方法です。
呼吸と身体と聖書を結びつけて聖書の一節を黙想し、静まりへと導く「呼吸の祈り」を実践しましょう。
これは私にとって非常に役に立ちました。


3 五感の休息。

これは、意図的に感覚への入力を止めるものです。
電子機器の電源を切り、音楽を止め、雑音をシャットアウトし、会話をやめます。
現代社会にあふれる視覚への刺激から目を休めます。

これは、自分に必要であると気づいていなかった休息です。
静けさの中で美しいものを見ることがいかに大切なことかを発見しています。
それまでは五感が過敏で、緊張して常に警戒中の状態でした。
毎日数分間、静かに座って窓の外の木を眺めたり、川沿いを散歩して鳥のさえずりを聞いたりすることが、意識的な訓練になりました。
単純なことですが、雑音をシャットアウトすることが鍵でした。


4 創造的な休息。

この休息は、美しく感動的で、魂を解放してくれるものに触れることで得られます。
最も長時間いる環境を考えてみてください。
味気なく、機能優先、画面だらけの職場や、雑然とした家庭環境では、私たちがインスピレーションを得ることは難しいでしょう。
私たちには美しいものが必要です。
素晴らしい音楽、華やかなテキスタイル、香りのよいキャンドル、感動的な芸術作品などです。

人は素晴らしく恐れ多い、創造主である神の似姿で作られています。
だから創造的なことに注意を払うのは当然です。
自分を甘やかしているのではとも思えるので、この休息は取りにくいと思います。
しかし、美しさや創造性は、どのようなものであれ内側に反応を与え、畏敬の念を再び呼び覚まします。
これは、視点を創造主ご自身と、必要のすべてを満たしてくださる主の、その栄光の豊かさ (エペソ3:16) に向けさせてくれます。
驚き、畏敬の念を持つことができるなら何でもしてください。
それは創造的な休息をもたらします。


5 霊的な休息。

自分よりも大きな存在とつながると、目的、意味、帰属意識が生まれます。
神は、私が視点を変えるのを、ここでも優しく助けてくださいました。

私は、愛する人たちや周囲の世界の必要をすべて持っていくことはやめませんが、律法的に神との時間を持つことはしていません。
しかし、この時期に、主の翼の下に身を避け、神の前にただ座っているだけで十分だということを神様は教えてくださいました (詩篇 91篇)。
私は何か言う必要も尋ねる必要もなく、何かを読んだり書いたりする必要もありません。
神はただ、静まるように私を招いておられます。
それが、今のところ、私が必要としている霊的な休息です。


6 感情の休息。

いつも周囲の全ての人を喜ばせようとしていますか?
失望したり、拒絶されたり、批判されたりするのを恐れて、自分の本当の気持ちを表現できないと感じていますか?
おそらくあなたは、皆から頼りにされる人なのでしょう。

感情の休息とは、批判されることなく自分の気持ちを十分かつ誠実に表現できる安全な場所にいることです。
これはもう一つの大きな視点の変化でした。
私は生来がむしゃらに取り組むタイプで、力いっぱい取り組み、強くて独立心があり、計画的に進める人間です。
私にとって感情の休息とは、自分にも欠けたところがあり、自分の能力に限界があることを学ぶことです。
夫に自分が必要としていることを伝えること、もっとノーと言うこと、そして自分や親しい友人に正直にありのままを伝えることを学んでいます。
この自己開示は私にとってだけでなく、周囲にも励ましになっています。


7 社会的な休息。

自分らしくいるためには、積極的な支えとなり、力を与えてくれる人たちが周りに必要です。
競争したり、強く見せたりする必要のない人たちです。
一緒にいると消耗する人、否定的な人、有害な人とは、接する時間を制限する必要があります。
人間関係で与える側になることが多い場合には、社会的な休息が必要です。
私たちが充足していなければ、与え続けることはできません。

周りの人々に疲れ果ててしまったら、いくら眠っても、傷つき疲れた心と魂は回復しません。
周りの人たちと交流を持つのが間違っているわけではありません。友人を消耗させてしまった経験は誰でもあるでしょう。
しかし、疲れの原因が人間関係だとわかれば、生涯にわたり励まし力を与えてくれる前向きな友人を積極的に探せます。


あなたはいかがですか?

7 種類の休息について知ることは、身体、精神、心、霊に不足している活動を意図的に計画し、回復させるための有効な枠組みを与えてくれます。

週の初めに、7 つの領域すべてで自分がどう感じているか、簡単に確認してみましょう。
創造的、感覚的、社会的に休息が必要だと気づいたかもしれません。
その必要を満たすための時間がいつとれるかを探します。
近所の公園や美術館で、親しい友と散歩に出かけたり、一日の初めに 10 分間静かな場所落ち着いて座り、聖書の一節を黙想したりしてください。

7 つの領域すべてにおいて、休息のニーズを満たすものは何か、立ち止まり理解する時間を取ってください。
そうすれば、いくつかの方法が適用できるでしょう。
イエス様からのすてきな招きを受け取りましょう。
あなたの体、精神、感覚、創造力、感情、心、霊をもって、イエス様が備えてくださるすべてを受け取ってください。

 

2024/04/03

Intentional Living :神の計画を意図的に生きる(1)



Katy Boykin


人生が自分のために起こっているのではなく、自分に対立するように、うまくいかないと感じたことはありますか?
自己満足が忍び込むと、無力感を感じたり、圧倒されたり、人生のさまざまな面で立ち往生したりする可能性があることを私はよく知っています。
では、人生がうまくいかないと感じたとき、どうやってバランスを見つけるのでしょうか?
答えは、神が計画された方法で意図的に生きることを実践することです。

意図的に生きる方法を教えてくれる専門家はたくさんいますが、ほとんどは霊性を無視した世界観に基づいています。
しかし、私は、神の文脈から離れては、私たちの存在は意味をなさないと主張したいと思います。

コロサイ1:16は次のように述べています。
「なぜなら、天と地にあるすべてのものは、見えるものも見えないものも、
王座であれ主権であれ、支配であれ権威であれ、御子に会って造られたからです。万物は御子によって造られ、御子のために造られました。」

したがって、それを念頭に置いて、意図的にライブを行う方法について聖書が何と述べているかを見てみましょう。


Intentional Livingとは?

Intentional Living とは、意図的に生きること、または目的や計画を持って意図的に生きることを意味します。
それは、自分が信じていることに立ち、その信念を尊重する人生を歩むことです。
自動操縦で惰性で進むのではなく、自分の人生のリーダーシップをとることです。
それには、自分は被害者であり、人生は自分の状況の寄せ集めであるという考えを手放すことが必要です。
私のお気に入りの定義は、「Intentional Living (意図的に生きる) とは、自分自身と世界に最大限の貢献をするために、自分の人生を宇宙の創造主(神)と共同で行うことである」です。

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2022/06/30

「余白」をつくる

健康的なバウンダリー(境界線)を引くには


Chrissy  Callahan





「ノー」と言うのは、どうしてこれほど難しいのでしょう。
私は困っている人を見ると助けたくて、ついやり過ぎてしまいがちです。
でもいつも「イエス」とばかり言うと、動機は素晴らしくても逆の結果を生んでしまいます。

女性として、私たちは時間やエネルギーの使い方にバウンダリー(境界線)を引くのに葛藤を覚えます。
いつも人々から頼りにされているなら、何も考えず「イエス」と答えているかもしれません。
時には自分が「ノー」と言ってもよいということさえ、意識していないかもしれません。

しかし幸いなことに、私たちは健康的な「余白」を作ることを学べるのです。
始め方は以下の通りです:


・断るべきことを断ることで、私たちはすべきことをよりよく行うことができる。

すべてをこなしたいと思う(時にはそうしないといけないというプレッシャーを感じる)反面、現実にはすべてに「イエス」というと燃え尽きる危険性があります。
そして、燃え尽きを経験すると、失敗したような思いになり、余計に敗北感を味わいます。
もともと現実的でないことに、なぜ自分をうち叩いて向かわせ、失敗してしまうのでしょうか。

もちろん、自分の責任を放棄しろと言っているわけではありません。
必要なことがありますし、神様はそれをする力を与えてくださいます。
しかし、しばしば私たちは自分が負わなくてよいことまで負ってしまうのです。

使徒6章の教訓が私は好きです。ここにひとつの実例があります。
ギリシア語を使うユダヤ人のやもめたちが、毎日の食事の配給でなおざりにされているという苦情が出ました。
十二弟子は看過できない問題だと気づきました。
けれども、彼らの返答に注目してください。

「私たちが神のことばを後回しにして、食卓のことに仕えるのは良くありません。そこで、兄弟たち。あなたがたの中から、御霊と知恵に満ちた、評判の良い人たちを七人選びなさい。その人たちにこの務めを任せることにして、私たちは祈りと、みことばの奉仕に専念します(使徒6:2b~4、強調筆者)」。

未亡人たちに食事を配給するのは必要な価値ある仕事でしたか。もちろん。
けれども、十二弟子がすべき仕事でしたか。いいえ。
それをしたら、弟子たちは神様が彼らにしてほしいと思われた仕事ができなくなったでしょう。
そして、福音を効果的に人々に届けることができなくなったでしょう。

必要かつよい事柄に「ノー」というのは難しいですね。
でも、弟子たちが「余白」をつくると決断したことによって、隠された宝に気づくことができたのです。


・「ノー」と言うなら、他の人が「イエス」と言う機会を与える。

十二弟子自身がやもめたちへの食事配給をしなかったことで、他の人がその仕事に「イエス」という機会が与えられました。
これにより、いくつか素晴らしいことが生じました。

1. 弟子たちは、押し寄せる全ての良いことをこなすことと、神が特に彼らにしてほしいと思われることをすることとの違いを知りました。

2.やもめたちへの食事配給のために選ばれた7人は、新しい奉仕への機会が与えられました。

私の好きな聖書箇所の一つは第一コリント12章です。
パウロがキリストのからだの各部分がどれほど大切かを語っています。
「もし、からだ全体が目であったとしたら、どこで聞くのでしょうか。もし、からだ全体が耳であったら、どこでにおいを嗅ぐのでしょうか。しかし実際、神はみこころにしたがって、からだの中にそれぞれの部分を備えてくださいました。(1コリント12:17~18)」

このように質問してみてはどうでしょう。
もしすべてが一人(あるいは限られた人だけ)で行われたら、からだの強みや多様性はどこにあるでしょうか。
もしすべてを私たち自身でやってしまったら、共同体として成長する機会はどこにあるでしょうか。

やもめたちに食事を届けるという責任は、弟子たちにとってもちろん真剣に取り組む課題でした。
ですから、誰か他人に託して終わり、とはしませんでした。
そして、その責任を不平をもらした人に託すこともしませんでした。
それどころか、力と神の知恵と誠実さをもってその必要に適切に対応するため、7人の信頼できる人たちにその役割を託したのでした。

選ばれた7人の一人ステパノは、後に信仰ゆえに尋問され、石打ちにされました。
この結果がどんな違いを生んだか想像してみてください。
弟子たちは全部を自らこなそうとして働きを限定し狭めてしまうこともできましたが、
そうではなく、自分に与えられた召しにとどまりました。やもめたちは信仰ゆえに死も恐れず、しっかり勇敢に立った人物によって必要が満たされたのでした。


・「ノー」と言うことを学ぶと、他者のバウンダリー(境界線)を尊重し励ますことができる。

あなたの周りに、同じように「余白」をつくろうとしている人がいますか。
共に歩むなら、その旅はさらに楽しく、互いに恵みと励ましを与え合うものとなります。

奇妙なことに、私たちは他者から「ノー」と言われると、それが良い理由からであっても拒絶されたように感じたり、フラストレーションを覚えたりします。
けれども、健康的なバウンダリーを実践することで、私たちは他の人たちが持つ健康的なバウンダリーを尊重し励ますことも学ぶのです。

共同体として強められよく成長するには、私たちがお互いを必要とするというのは美しい事実です。
自分自身を訓練することはできますが、時には状況により頼む必要もあります。
理想的なのは、共に成長していくことですが。
そうすれば互いにアカウンタビリティーが果たせますし、そして自分自身ですべてやってしまうよりも共同体がより深く根を張り成長することができるでしょう。

おそらく、あなたはこの新しい1年に起こるすばらしい計画を持っているでしょう。でもそれは絡まったスパゲッティーのようにごちゃごちゃしていると思えるかもしれません。
健康的なバウンダリーをつくり過ごすために必要なのは、その一歩を踏み出すことだけです。
完璧ではないかもしれませんが、それでよいのです。
徐々にふさわしいバウンダリーがつくれるようになります。

私たちの訓練は自分に対してだけにとどまりません。
共に学ぶように召されているのですから、その知恵を続く人にも伝えてください。
すでに自分の生活の中に「余白」をつくることを身に付けたありのままの女性たちこそ、私に同じようにすることを教えてくれた人でした。
彼女たちは完璧にそれをしていたわけではありませんでしたが、たえず成長しており、難しさについても喜んで正直であろうとしました。

何を選びとるか、より意識的に判断することを学ぶにつれて、キリストのからだ全体は、それぞれの部分が召されていることについてより集中できるようになります。
そして私たちがともによく生きられるようにさせてくれます。

今日、どんな「余白」をつくりますか?



2019/01/22

障がい児の親が平安を保つ5つの秘訣


Tammie Swaney タミー・スワニー


これから述べようとすることは、自己中心的で「母親らしくない」と思えるかもしれません。
それでも、肉体的には疲れ果て、感情面は心配、さらに精神的にまいってしまい、時には怒りがこみあげてくるという経験を通った私は、以下のことを心からあなたに分かち合いたいのです。

よい香りの入浴剤(Calgon moment)で気分転換しても一日やりきれない時、私は罪悪感と戦ってきました。
障がいを持つ子供を育てるのは、あられの中でロッククライミングをするのと同じくらい大変なことと言えます。
もちろん、どんな子どもでも困難な面はあります。
しかし両者の違いは、障がいを持つ子供が周囲の状況を理解できているのか、あるいはただふざけて親の言うことを聞かずに笑っているのかがわからない、ということです。

普通の子どもなら多くの節目を迎えます。
運転免許を取り、卒業ダンスパーティーに行きます。お泊り会、初めてのボーイフレンドあるいはガールフレンド、親子の会話、そしてちょっとした反抗。
「普通」とは日常のことを差します。
しかし、驚かれるかもしれませんが、障がい児を育てる普通とはずっと同じ状態が続くということです。その子の子ども時代が続き、そこであなた自身をいたわり身体・心・魂の安息を見出すことです。

 「永遠の5歳児」である私の息子ニコラス(ニック)は、本やドラマ、著名人(フィル博士やドブソン博士)、子ども番組(セサミストリート)では決して学べない、いくつかの子育てに関する事柄を教えてくれました。
彼は皆の心を引きつけ、地球上の誰よりも多くの愛情を受けています(親ばかですね)。
17歳のとてもやさしい子どもです。
けれども、気をつけなければなりません!興奮すると大暴れするので、数秒前までの我が家の平和な状態をめちゃくちゃにしてしまいします。
興奮する理由は誰にもわからず、すぐ対処するすべもないのです。

私にとって幸いなのは、夫のティムが積極的に子育てに関わってくれ、さらに神様が我が家を導いてくださっているので、耐えがたい日々を切り抜けられているということです。
障がい児を育てるという試練の中で気を確かに持ち続ける5つのステップを以下に示します(すべての親、すべての子どもに当てはまらないかもしれませんが、私たちにとって助けになっているものです)。


1. 神様と過ごす時を持つ。

神様のことばを読み、黙想し、力を得る時間を作ることが何よりも大切です。
神様は私たちがまさに必要な時に必要な方法を示してくださいます。
みことばは永遠の啓示であり、みことばを掘り下げる時に私たちは回復します。
「試練の日々」の中で私を支えてくれたいくつかの聖句を紹介します。

・「怒っても、罪を犯してはなりません。憤ったままで日が暮れるようであってはいけません。(エペソ 4:26)」
 叱った後でも一緒に座り、どれくらいニックを気にかけているかを示し、いつも消灯前には「愛しているわよ」と語りかけます。

・「私を強くしてくださる方によって、私はどんなことでもできるのです。(ピリピ 4:13)」
全てを失い、話す力もなくなった時、頼るべきは自分の力でなく神の力である、ということをこの聖句は思い出させてくれます。神様だけが私を持ち運んでくださるのです。

・「モーセの手が重くなると、彼らは石を取り、それをモーセの足もとに置いた。モーセはその上に腰掛け、アロンとフルは、一人はこちらから、一人はあちらから、モーセの手を支えた。それで彼の両手は日が沈むまで、しっかり上げられていた。(出 17:12)」
 これは最後の手段という聖句ではありませんが、必要な時には祈りの勇士である友人に電話し、支えてもらえるのだと思い出す重要な聖句です。誰でも疲れ果てた時にはそうした祈りの勇士に支えてもらう必要があります。


2. 夫婦で過ごす時を持つ。

これは難しいとわかっています。私たちは忙しいスケジュール、長時間の仕事と家事で疲れ切っているからです。
しかし、夫婦で過ごす時間は家庭を強くするのに必要な要素です。
夜の外出や、せめてコーヒーを飲む時間をとってください。
私の義兄は最近がんで倒れました。
姉が、一番つらいのは朝だと話してくれた時に心が痛みました。
朝は二人だけでコーヒーを飲みながら一日のことを語り合う時だったのです。
それは貴重な時間でした。
こうした貴重な時を見逃さないでください。
共に祈り、語り合い、手を取り、寄り添い、回想し、未来の計画を立てる時間を見つけて下さい。
そうすれば一致して力を合わせることができます。


3. 自分自身の時間を持つ。

私は霊的養いのリトリートに毎年参加します。
また、趣味も持っていて、女性どうしで楽しく過ごします。
姉妹でランチをしたり、iPodを聞きながら歩いたりします。
寒い夜にはニックが寝た後、好きな小説を読みながら紅茶を飲むのもお気に入りの静かな時です。
ほっとする時を作って下さい。


4. 予定を守る。

我が家にはニックの他に20歳の子もいます。
仕事、スポーツ、大学、余暇と、彼の多彩な活動スケジュールを把握するのは困難です。
しかし、私たち夫婦とニックに関しては、スケジュールをかなり固定化しています。
ニックにとっては規則的な1日が心地よく、調子が良くなると私は学びました。
友人から誘いを受けても翌日に差し障ると思われる時には、後ろめたいと思わずに断ることもあります。


5. 子どもから学ぶ。

障がいのある息子が示す愛の大きさは驚くほどです。
イエス・キリストの愛以外には経験したことがない大きさです。
それは無条件の愛です。
愛はニックから輝き出て、まさに伝染していきます。私が人々をどう愛せばよいのかを、たえず気づかせてくれます。
その愛にはごまかしや偏見がありません。
これこそイエス様が福音を通して教えられた愛です。
「『あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、知性を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。』これが、重要な第一の戒めです。『あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい』という第二の戒めもそれと同じように重要です(マタイ22:37-39)。」

もしあなたが障がいのあるわが子とこうした日々を過ごしているなら、イエス様の臨在のうちには平安があることを思い出してください。
一瞬一瞬を切り抜けるのに必要なもの全てを彼が備えてくださいます。 
あなたに障がい児を育てるという特別の仕事を与えて下さったのであり、その子はキリストの愛を完全に表すことができるのです。
この子どもを世界に分かち合う機会を与えて下さった神様に感謝します。


*この記事が書かれたのち、タミーの愛する息子ニックはしばしの闘病期間を経て地上の生涯を終え、天に帰りました。

2015/10/20

バランスのとれた生活とは(全文)


 
 今日、天の父があなたに求めておられることは何ですか?
 
 
 
Jill Briscoe
ジル・ブリスコー 
 



長男が33歳になった時、ああイエス様はこの年齢で死なれたのだ、と改めて実感しました。「33歳」とはあまりにも若いです。
そんな若さで人生を終えるというのは、普通はととのった生涯とは思えないのですが、いかがでしょうか。
けれども、地上での生涯の終わりに、イエスは「(天の父の使命を)完了した」と言われました。

33年のうち30年間は、イエスはナザレで「仕事」をしておられました。
それも、効率のよい人生の過ごし方とは思えませんね。
しかし、ナザレでの30年間は、神様が計画されていた期間であるがゆえに、非常に大切な年月だったと言えるのです。
30年間、御父がイエスに望まれる第一のことが、そこで過ごすことだったからです。

「やり遂げる」というのが、あれもこれも全ての分野、領域のことをこなすことでない、と知るとほっとします。
むしろ、神様が私たちにしてほしいと願われるのはどの分野のことで、どの仕事をきちんとやり遂げるのかを見出すことなのです。

一人ひとりに異なった仕事があり、神様は私たちがそれをできるよう、あらかじめ備え助けてくださるのです。
たとえ、それが人生のほとんどを「ナザレで過ごす」ようなことだったとしても・・・!


覚えておいてください。御父があなたに与えられたことに目をとめていさえすればよいのです。
他の人がすることを代わりにすべきではないのです。
さあ、あなたにとって御父からの仕事とはなんでしょうか。

長年、私はどう優先順位をつけたらよいか、さまざまな本を読んできました。
ある本には、「第一に神、第二に家庭、それから教会」と書いてありました。
また別の本には「第一に教会、第二に家庭、そして神」というものもありました。
私自身も、優先順位に関する記事を執筆してきました。
それぞれの説がどれも聖書的なので、どの立場もとってきました。

そして、この年齢になって出た結論は、神様への愛を、他のすべてへの愛よりも優先させる、ということです。
つまり、優先順位の原則とは、御父と御国のことを第一にすることです。
御国の仕事が最優先です。
「神の国とその義とをまず第一に求め」(マタイ6:33)なければならないのです。
すなわち、神が今日は第一にせよと言われたことを、今日は最優先にしなければなりません。

もっとも、今日は最優先であったことが、明日あさってには最優先ではないかもしれません。
でも今日一日のことだけを心配すればよいのです。
神様の優先順位が私たちの優先順位でもあるべきでえす。

だから、もしかすると御父は「今日あなたが最優先にするのは、子どもと家にとどまっていることです」と言われるかもしれません。それなら、そうします。

あるいは、「今日は他の人に子どもの世話を任せて、あなたはバイブルクラスを指導しに出かけなさい」、「出ていってあれとこれとをしなさい」と言われるかもしれません。
御父がそれを今日最優先にせよと言われるのなら、そうします。

でも、神があなたの隣にいる人に、まったく別のことをせよと言われていても、驚かないでください!

だいたい、神が私たちに同じことを願われると思いますか?
私たちはそれぞれとてもユニークに造られています。
また、人生の異なる段階を歩んでいます。
責任もそれぞれ違います。
だから誰かを見て「あの人はこれを第一にすべきなのに」と言うべきではないのです。
だって、他の人にとっての最優先はわからないのですから。
ただ、自分はどうかということを知っていればよいのです。
 
 
 
「イエス様が一番、そうすれば他のこともうまくいく」

もし神様があなたに、何を、いつしてほしいと願っておられるかを理解したなら、すべてのことが整理されてきます。
私の友人の一人は「イエス様を第一にしたら、次に何がくるかわかりますよ」とよく言います。
その通りです。

しかし、そうした満ち足りたライフスタイルの中でも、ストレスはやはりあります。
ほとんどのストレスは、あなたのしていることを批判されることからやってきます。

宣教師として14年、牧師夫人として21年の生活を振り返ると、周りのクリスチャンからの批判は、私にとって最も辛かった(現在でも辛い)です。
神様を第一にしてせっかく得られた良い結果にもかかわらず、そうした反対意見の中での生活はあなたを疲弊させるのです。

批判を受けながら過ごすのは容易ではありません。
それは教会内での反対意見であったり、家族内での反対であったりします。
イエス様もその両方を経験されました。


私は、子どもが18歳、16歳、14歳だった時のことを思い出します。
夏の間、18歳のデーブはアルバイト、16歳のジュディは友達のところに泊まっていました。
夫のステュアートと私は宣教旅行で南アフリカに行く予定でした。

一番下のペートは、その間実家のあるイングランドに行くのがよいと、私たち夫婦は考えました。
そこまで私が連れていって祖母と会い、それから南アフリカで夫と合流する予定でした。

私はいつも異なる5つの方向へ自分が引っ張られているように感じていました。
特にその夏は。
このように思ったのを覚えています。

「いったい、誰のために時間を使えばよいのだろうか。
子どもたちか、夫か、自分自身か。一番はどれだろう。
夫の留守中、教会で奉仕をするのがよいのか。
そうそう、私の母はどうだろう。
何千キロも離れているし、あまり体調もよくない。」

私は、神様が何を第一にするように言われているのかを知ろうとしました。
祈りを重ね、夫と共に宣教旅行に行くのがよいという結論に至りました。

そこで、イングランドに立ち寄り、母としばらく会い、そこにペートを残して南アフリカに行くことにしました。
母とペートと私とで、2,3日の素晴らしい時間を過ごしました。

ところが、南アフリカに出発する日の前夜、ペートが部屋に来てベッドに座り、泣きだしました。
そうして「お母さん、行かないでちょうだい」と言いました。

まあ、どうしましょう!


「ねえ、行かないで。お願い」と、息子は何度も頼みました。
「ママがいないなら、ここにいたくない。
だって思っていたような場所じゃないんだもの。
ここで待つのはいやだ。僕もママと一緒に連れて行って。」

「ペート、それはできないわ。だってあなたはビザ(査証)も持っていないんだもの。
それに、もし持っていたとしても、あなたを連れて行くことはできないの。
ここにとどまることもできないわ。
ママは行かなければならないの」と私は答えたのでした。

私はちょうど、出エジプト記を読んでいました。
昼は雲の柱が、夜は火の柱がイスラエルの民を導く、という箇所でした。
家族連れは、そんな中をどう感じながら暮らしていたのだろう、と考えたものでした。

おそらく、雲の動きにかなりうんざりしていたのではないか、と想像します。
なぜなら、家族全員がやっと寝袋を並べ、テントを張った時に、
雲の柱が再び動き出す、ということがあったと思うのです。

父親の「あれまあ、また移動だ!」という声が聞こえるようです。
母親は「せっかく子どもたちを寝かせたところなのに」と言ったかもしれません。
「さあ、子どもたちを起こして着替えさせるんだ」と父親が声をかけたでしょう。
雲や火の柱は、イスラエルの人々に「従順」を学ばせたに違いありません。

自分の聖書のその箇所の余白に、「子どもたちへの祝福は、親に従順であることからくる」と私は書き込んでいました。
それも、ちょうどペートが部屋に入ってくる直前に。

だから、この場合何が最優先であるか、私にはわかっていました。
南アフリカへ宣教に行くことです。
しかもその聖書箇所だけでなく、さまざまな状況からも確信がありました。
そうすることが正しいとわかっていました。

でも、それがいかに辛いことだったか、わかっていただけるでしょうか?
ペートがどのような状態で過ごすだろうかということが脳裏を横切りました。

ペートは乗りきれるだろうか。
親に見捨てられたと思うだろうか。
神様はひどい、と腹を立てるだろう

私は重い気持ちで5週間の宣教旅行に出発しました。

2週間後、ペートからの手紙が届きました。
封を開けてみると、このような文面でした。

~ママ、そして↑(上向きの指のイラスト)ありがとう。
僕は元気です。その後、僕がどう過ごしていたと思う?
泣いてママを見送ったけど、すぐに涙をふいて従兄弟とフットボールをしたよ。

シャーリーおばさんには、僕がしょんぼりしているのがわかったと思う。
「ペート、あなたが小さいころよく行ったカンファレンスセンターに連れて行ってあげましょうか」
と言ってくれたんだ。~


言い添えておくと、彼女は私たちの説教をほとんど聞いたことがありませんでした。
私たちが何をしているのかも、あまり知らなかったのです。
でも、彼女はその時、私たちが以前仕えていたキリスト教団体のところへ連れていってあげようか、と言ってくれたのでした。

それだけでなく、彼女は自分の子どもも一緒に連れていくことにしたのです。
ペートは出かけるうちに少しずつ元気を取り戻しました。
現地に着くと、リーダーが子どもたちに声をかけてくれました。
そして、3人の子どもたちは信仰について学び、受け入れたのです。
ペートもそこで起こったことを目の当たりにすることができました。

神様に従順であろうとして痛みを経験し、その後でこんな手紙を受け取るとは、
とても想像できませんでした。
みことばの約束がもう一度浮かんできました。
子どもたちの祝福は、両親に従い、主に礼拝をささげることである、と。


もちろん、いつも母親や父親が子どもを置いて行くのがよい、と言っているのではありません。
神様が「南アフリカには行かず、イングランドにとどまっていなさい」と言われる可能性もあるでしょう。
その場合には、別のところで葛藤を覚えることになるでしょう。
夫に電話して、私が担当するはずだった集会奉仕をすべてキャンセルしてもらうことになるでしょう。
私は「それでも、今は御父が子どものことを最優先しなさい、と導いておられるの」
と話したことでしょう。


周りの人をがっかりさせるというのも、勇気のいることです。
特に、愛している人々をがっかりさせるのは。
どうしてよいかわからない時には、神の助けを求めてください。
神様は、あなたに最善の道を示そうとしておられます。
そして、あなたがその道を選び従うなら、神様はあなたの従順を喜ばれます。



 
役割は変化する
 
いつも同じことをシステムとしてこなせばよいなら、どんなに楽でしょう。
それなら葛藤は生じません。
この本にはこう書いてあり、あの人はあのように言い、またメッセージではこのように語られている。
私たちは文化的・キリスト教的なならわしや、これまで学んできた人や物事のパターンに従って行動しています。
 
けれども、「主よ、私が母として、妻として、またあなたの弟子として、
すべての役割の中で、今日は何をすべきか、あなたは示してくださいます」
と祈るのはそれよりも難しいことです。
 
イエス様はどうなさったでしょうか。
 
30年間、ナザレで家族の必要を第一に満たされました。
それから3年間宣教されました。
永遠に続く神の家族の関係が、その期間は優先でした。
母親の世話を他の家族に任せなければいけなかったのが、イエス様にとって最も気がかりなことの一つだったでしょう。
 
それから、十字架にかかられ、やはり母親の世話を誰かに託さなければならなかったのです。
イエス様がどんな思いだったか、想像できますか?
長年の間自分がしてきたことを、十字架にかかりながら他人にお願いしたのです。
その十字架も、自分が降りようと思えば可能だった道でした。
 
十字架にかかるのを中止しようと思えば、いくらでも理由をつけることはできたでしょうし、
特に母親のことを考えれば、それももっともだと思えました。
ある意味で、イエス様は御国の家族のために、地上の家族を見捨てなければならなかったのです。
厳しい試練を自ら通られたのでした。
 
イエス様はヨハネに「そこにあなたの母がいます」、
マリヤに「そこにあなたの息子がいます」と言われました。
 
その時には、御国の家族の関係が最優先されたのです。
なぜなら、御父がそれを願っておられたからです。
イエス様は御父が第一にするよう言われたので、十字架の上にとどまられたのです。
 
似たようなことが、あなたの人生にも起こるかもしれません。
私たちはふさわしい時、正しい時を知り、従順を学んでいきたいものです。                                                
    

バランスのとれた生活とは ~その5~

Jill Briscoe
ジル・ブリスコー 
 
役割は変化する
 
いつも同じことをシステムとしてこなせばよいなら、どんなに楽でしょう。
それなら葛藤は生じません。
この本にはこう書いてあり、あの人はあのように言い、またメッセージではこのように語られている。
私たちは文化的・キリスト教的なならわしや、これまで学んできた人や物事のパターンに従って行動しています。
 
けれども、「主よ、私が母として、妻として、またあなたの弟子として、
すべての役割の中で、今日は何をすべきか、あなたは示してくださいます」
と祈るのはそれよりも難しいことです。
 
イエス様はどうなさったでしょうか。
 
30年間、ナザレで家族の必要を第一に満たされました。
それから3年間宣教されました。
永遠に続く神の家族の関係が、その期間は優先でした。
母親の世話を他の家族に任せなければいけなかったのが、イエス様にとって最も気がかりなことの一つだったでしょう。
 
それから、十字架にかかられ、やはり母親の世話を誰かに託さなければならなかったのです。
イエス様がどんな思いだったか、想像できますか?
長年の間自分がしてきたことを、十字架にかかりながら他人にお願いしたのです。
その十字架も、自分が降りようと思えば可能だった道でした。
 
十字架にかかるのを中止しようと思えば、いくらでも理由をつけることはできたでしょうし、
特に母親のことを考えれば、それももっともだと思えました。
ある意味で、イエス様は御国の家族のために、地上の家族を見捨てなければならなかったのです。
厳しい試練を自ら通られたのでした。
 
イエス様はヨハネに「そこにあなたの母がいます」、
マリヤに「そこにあなたの息子がいます」と言われました。
 
その時には、御国の家族の関係が最優先されたのです。
なぜなら、御父がそれを願っておられたからです。
イエス様は御父が第一にするよう言われたので、十字架の上にとどまられたのです。
 
似たようなことが、あなたの人生にも起こるかもしれません。
私たちはふさわしい時、正しい時を知り、従順を学んでいきたいものです。 
(完)      


   

バランスのとれた生活とは ~その4~

Jill Briscoe
ジル・ブリスコー
 
 
 
私は重い気持ちで5週間の宣教旅行に出発しました。

2週間後、ペートからの手紙が届きました。
封を開けてみると、このような文面でした。

~ママ、そして↑(上向きの指のイラスト)ありがとう。
僕は元気です。その後、僕がどう過ごしていたと思う?
泣いてママを見送ったけど、すぐに涙をふいて従兄弟とフットボールをしたよ。

シャーリーおばさんには、僕がしょんぼりしているのがわかったと思う。
「ペート、あなたが小さいころよく行ったカンファレンスセンターに連れて行ってあげましょうか」
と言ってくれたんだ。~


言い添えておくと、彼女は私たちの説教をほとんど聞いたことがありませんでした。
私たちが何をしているのかも、あまり知らなかったのです。
でも、彼女はその時、私たちが以前仕えていたキリスト教団体のところへ連れていってあげようか、と言ってくれたのでした。

それだけでなく、彼女は自分の子どもも一緒に連れていくことにしたのです。
ペートは出かけるうちに少しずつ元気を取り戻しました。
現地に着くと、リーダーが子どもたちに声をかけてくれました。
そして、3人の子どもたちは信仰について学び、受け入れたのです。
ペートもそこで起こったことを目の当たりにすることができました。

神様に従順であろうとして痛みを経験し、その後でこんな手紙を受け取るとは、
とても想像できませんでした。
みことばの約束がもう一度浮かんできました。
子どもたちの祝福は、両親に従い、主に礼拝をささげることである、と。


もちろん、いつも母親や父親が子どもを置いて行くのがよい、と言っているのではありません。
神様が「南アフリカには行かず、イングランドにとどまっていなさい」と言われる可能性もあるでしょう。
その場合には、別のところで葛藤を覚えることになるでしょう。
夫に電話して、私が担当するはずだった集会奉仕をすべてキャンセルしてもらうことになるでしょう。
私は「それでも、今は御父が子どものことを最優先しなさい、と導いておられるの」
と話したことでしょう。


周りの人をがっかりさせるというのも、勇気のいることです。
特に、愛している人々をがっかりさせるのは。
どうしてよいかわからない時には、神の助けを求めてください。
神様は、あなたに最善の道を示そうとしておられます。
そして、あなたがその道を選び従うなら、神様はあなたの従順を喜ばれます。

                                                        (続く)

バランスのとれた生活とは ~その3~

Jill Briscoe
ジル・ブリスコー

「ねえ、行かないで。お願い」と、息子は何度も頼みました。
「ママがいないなら、ここにいたくない。
だって思っていたような場所じゃないんだもの。
ここで待つのはいやだ。僕もママと一緒に連れて行って。」

「ペート、それはできないわ。だってあなたはビザ(査証)も持っていないんだもの。
それに、もし持っていたとしても、あなたを連れて行くことはできないの。
ここにとどまることもできないわ。
ママは行かなければならないの」と私は答えたのでした。

私はちょうど、出エジプト記を読んでいました。
昼は雲の柱が、夜は火の柱がイスラエルの民を導く、という箇所でした。
家族連れは、そんな中をどう感じながら暮らしていたのだろう、と考えたものでした。

おそらく、雲の動きにかなりうんざりしていたのではないか、と想像します。
なぜなら、家族全員がやっと寝袋を並べ、テントを張った時に、
雲の柱が再び動き出す、ということがあったと思うのです。

父親の「あれまあ、また移動だ!」という声が聞こえるようです。
母親は「せっかく子どもたちを寝かせたところなのに」と言ったかもしれません。
「さあ、子どもたちを起こして着替えさせるんだ」と父親が声をかけたでしょう。
雲や火の柱は、イスラエルの人々に「従順」を学ばせたに違いありません。

自分の聖書のその箇所の余白に、「子どもたちへの祝福は、親に従順であることからくる」と私は書き込んでいました。
それも、ちょうどペートが部屋に入ってくる直前に。

だから、この場合何が最優先であるか、私にはわかっていました。
南アフリカへ宣教に行くことです。
しかもその聖書箇所だけでなく、さまざまな状況からも確信がありました。
そうすることが正しいとわかっていました。

でも、それがいかに辛いことだったか、わかっていただけるでしょうか?
ペートがどのような状態で過ごすだろうかということが脳裏を横切りました。

ペートは乗りきれるだろうか。
親に見捨てられたと思うだろうか。
神様はひどい、と腹を立てるだろうか。

 (続く)

バランスのとれた生活とは ~その2~


Jill Briscoe
ジル・ブリスコー


「イエス様が一番、そうすれば他のこともうまくいく」

もし神様があなたに、何を、いつしてほしいと願っておられるかを理解したなら、すべてのことが整理されてきます。
私の友人の一人は「イエス様を第一にしたら、次に何がくるかわかりますよ」とよく言います。
その通りです。

しかし、そうした満ち足りたライフスタイルの中でも、ストレスはやはりあります。
ほとんどのストレスは、あなたのしていることを批判されることからやってきます。

宣教師として14年、牧師夫人として21年の生活を振り返ると、周りのクリスチャンからの批判は、私にとって最も辛かった(現在でも辛い)です。
神様を第一にしてせっかく得られた良い結果にもかかわらず、そうした反対意見の中での生活はあなたを疲弊させるのです。

批判を受けながら過ごすのは容易ではありません。
それは教会内での反対意見であったり、家族内での反対であったりします。
イエス様もその両方を経験されました。


私は、子どもが18歳、16歳、14歳だった時のことを思い出します。
夏の間、18歳のデーブはアルバイト、16歳のジュディは友達のところに泊まっていました。
夫のステュアートと私は宣教旅行で南アフリカに行く予定でした。

一番下のペートは、その間実家のあるイングランドに行くのがよいと、私たち夫婦は考えました。
そこまで私が連れていって祖母と会い、それから南アフリカで夫と合流する予定でした。

私はいつも異なる5つの方向へ自分が引っ張られているように感じていました。
特にその夏は。
このように思ったのを覚えています。

「いったい、誰のために時間を使えばよいのだろうか。
子どもたちか、夫か、自分自身か。一番はどれだろう。
夫の留守中、教会で奉仕をするのがよいのか。
そうそう、私の母はどうだろう。
何千キロも離れているし、あまり体調もよくない。」

私は、神様が何を第一にするように言われているのかを知ろうとしました。
祈りを重ね、夫と共に宣教旅行に行くのがよいという結論に至りました。

そこで、イングランドに立ち寄り、母としばらく会い、そこにペートを残して南アフリカに行くことにしました。
母とペートと私とで、2,3日の素晴らしい時間を過ごしました。

ところが、南アフリカに出発する日の前夜、ペートが部屋に来てベッドに座り、泣きだしました。
そうして「お母さん、行かないでちょうだい」と言いました。

まあ、どうしましょう!
 (続く)

バランスのとれた生活とは ~その1~


 今日、天の父があなたに求めておられることは何ですか?

Jill Briscoe
ジル・ブリスコー




長男が33歳になった時、ああイエス様はこの年齢で死なれたのだ、と改めて実感しました。「33歳」とはあまりにも若いです。
そんな若さで人生を終えるというのは、普通はととのった生涯とは思えないのですが、いかがでしょうか。
けれども、地上での生涯の終わりに、イエスは「(天の父の使命を)完了した」と言われました。

33年のうち30年間は、イエスはナザレで「仕事」をしておられました。
それも、効率のよい人生の過ごし方とは思えませんね。
しかし、ナザレでの30年間は、神様が計画されていた期間であるがゆえに、非常に大切な年月だったと言えるのです。
30年間、御父がイエスに望まれる第一のことが、そこで過ごすことだったからです。

「やり遂げる」というのが、あれもこれも全ての分野、領域のことをこなすことでない、と知るとほっとします。
むしろ、神様が私たちにしてほしいと願われるのはどの分野のことで、どの仕事をきちんとやり遂げるのかを見出すことなのです。

一人ひとりに異なった仕事があり、神様は私たちがそれをできるよう、あらかじめ備え助けてくださるのです。
たとえ、それが人生のほとんどを「ナザレで過ごす」ようなことだったとしても・・・!


覚えておいてください。御父があなたに与えられたことに目をとめていさえすればよいのです。
他の人がすることを代わりにすべきではないのです。
さあ、あなたにとって御父からの仕事とはなんでしょうか。

長年、私はどう優先順位をつけたらよいか、さまざまな本を読んできました。
ある本には、「第一に神、第二に家庭、それから教会」と書いてありました。
また別の本には「第一に教会、第二に家庭、そして神」というものもありました。
私自身も、優先順位に関する記事を執筆してきました。
それぞれの説がどれも聖書的なので、どの立場もとってきました。

そして、この年齢になって出た結論は、神様への愛を、他のすべてへの愛よりも優先させる、ということです。
つまり、優先順位の原則とは、御父と御国のことを第一にすることです。
御国の仕事が最優先です。
「神の国とその義とをまず第一に求め」(マタイ6:33)なければならないのです。
すなわち、神が今日は第一にせよと言われたことを、今日は最優先にしなければなりません。

もっとも、今日は最優先であったことが、明日あさってには最優先ではないかもしれません。
でも今日一日のことだけを心配すればよいのです。
神様の優先順位が私たちの優先順位でもあるべきでえす。

だから、もしかすると御父は「今日あなたが最優先にするのは、子どもと家にとどまっていることです」と言われるかもしれません。それなら、そうします。

あるいは、「今日は他の人に子どもの世話を任せて、あなたはバイブルクラスを指導しに出かけなさい」、「出ていってあれとこれとをしなさい」と言われるかもしれません。
御父がそれを今日最優先にせよと言われるのなら、そうします。

でも、神があなたの隣にいる人に、まったく別のことをせよと言われていても、驚かないでください!

だいたい、神が私たちに同じことを願われると思いますか?
私たちはそれぞれとてもユニークに造られています。
また、人生の異なる段階を歩んでいます。
責任もそれぞれ違います。
だから誰かを見て「あの人はこれを第一にすべきなのに」と言うべきではないのです。
だって、他の人にとっての最優先はわからないのですから。
ただ、自分はどうかということを知っていればよいのです。

 (続く)

2012/12/20

クリスマスの過ごし方~Jill Briscoeに聞く その3

(続き)

JBU:クリスマスの時期、商業主義に踊らされず、自分も家族もクリスマスの本当の意味を見失わないようにするにはどうしたらよいですか?

ジル:私は50歳になったとき、クリスマスプレゼントを新たに買うのをやめました。そして、クリスマスを簡素化し、本当の意味を見失わずにいようと決めたのです。
その代わりに、「世代を越える贈り物(heritage gifts)」を愛する家族や友人にすることにしました。

自分にとって大切なもので、他の人にとっても価値があるもの、たとえば宝飾品や家族の形見などをあげるようにし始めました。

ある年には、娘にダイニングセットをあげました。娘の家にまさにぴったりで、娘家族も喜んで使ってくれました。

あるいは、その人のためにメモをはさんだ聖書や、日記や、その家庭オリジナルの料理レシピなどをあげるもよいアイデアですね。

子どもや孫にも、同じ方法を勧めています。
こうした贈り物は、ただ必要もないのにするやりとりのための買い物をしないですみます。



JBU:多くの人にとって、クリスマスは1年の中でとても悲しい時期にもなりえます。クリスマスに生じうる心の痛みをどのように扱ったらよいですか?


ジル:神様が私たちの人生に痛みを許されたのなら、痛みをそのままにしておくべきだと思います。良い方である神様の御手からそれを受け取って、何かの目的のために神様がそうされていると知ることです。

もしそうしたならば、神様について今まで知らなかったことを知るようになり、他の人についても今まで知らなかったことを知るようになり、自分自身についても知らなかったことを知るでしょう。

辛い時期の間、私たちは「主よ、この状況を受け入れます。あなたが支配しておられると信じます。痛みを通してより成長し、他の人を思いやり、あなたに似るものとなれますように」と言うべきです。

そして自分に対しては、「この試練の前には得ていなかったもののうち、何を他の人々に与えることができるだろうか」と問うことができます。

神様は私たちが神から慰めを受けるので、他の人をも慰めることができるのだと言われました。神様は辛い出来事をただ私たちの心の成長だけではなく、より良い宣教の働きをするために用いてくださいます。


JBU:読者に、今年のクリスマスの季節を迎えるにあたって、何かすすめたいことはありますか?

ジル:12月の間、少なくとも日に10~15分、神様のことを思う時間をとるように約束されてはどうかと思います。
そうすることで、毎晩寝る前の一瞬の祈りでは得られない、決心や計画が与えられるでしょう。

マルタとマリヤのことを思い出してください。・・・もし私たちが祝福を受けられないほど忙しすぎるなら、私たちは最愛の人にとっての祝福にもなれないでしょう。

もし祈りと聖書の学びをしないなら、(ナルニアの)悪い女王が全てを奪ってしまうでしょう。
そうなるべきではありません。

私たちは心を単なる「冬のお祭り」ではなく、キリストご自身によくよく向けてまいりましょう。




JBU2012冬号より
Copyright 2012 Holly G. Miller. Translated from Just Between Us, 777 S. Barker Road, Brookfield, WI 53045
  

2012/12/19

クリスマスの過ごし方~Jill Briscoeに聞く その2

(続き)

JBU:クリスマスの時期は、長距離の移動をしなくてもとても疲れます。この時期のために、精神的そして霊的に、どんな準備をしていますか?


ジル:毎年、いくつかのクリスマス集会でメッセージをするように頼まれるので、感謝しています。こうした依頼のおかげで、早くからメッセージの準備と新しい視点でキリストの誕生を見るという心の準備ができるのです。

何年も前になりますが、C.S.ルイスの「ナルニア国物語」を引いてクリスマスのメッセージをしました。
ナルニアは氷と雪の国で、悪い女王がクリスマスを冬の季節から消してしまっていました。
でも、神様を象徴するライオンが声をあげた時、ようやく氷が解けました。

私が伝えたかったのは、クリスマスを単なる「冬のお祭り」として祝う人はとても多いのですが、それは真のクリスマスを祝っているのではないということです。

私の両親は素晴らしい人たちでしたが、やはり「冬のお祭り」としてしか祝っていませんでした。それは美しく、楽しく、歌が流れ、くるみを焼き、そのほか伝統的な冬の楽しみを楽しみました。私はそのお祝いが大好きで、母がいろいろなことをしてくれるのがとても楽しかったのです。

けれども、両親は家族を礼拝していたのでした。つまり、彼らにとっては、家族が神となっていたのです。そうした姿勢だと、世の価値観から自由であるというよりもそこに埋没してしまうので、家庭が与えられていることによる満足感は得られないのです。

メッセージをするよう招かれるのは、人々の関心を単なる「冬のお祭り」ではなくキリストに向ける機会だととらえています。




JBU:クリスマスには、私たちは「マルタとマリヤ」のようです。マルタのように、お祝いのためにすべき、こまごまとしたことに気をつかいます。けれども同時に、マリヤのようにクリスマスの本当の意味である、霊的なことにも心を集中したいと思います。
どうすれば、すべきこととのバランスをとりつつ、他の人にも仕えることができますか?


ジル:神様と共に過ごす時間をとるよう、自分に厳しく課すことや、
霊的なことに心を向けて働くこと、
またささいなことに煩わされないことによって可能だと思います。

本当に大切なことに関して計画を立て、子どもも共に参加してはどうでしょうか。
子どもたちにとって、自分の両親が炊き出しの奉仕をしたり、服役中の家族がいる人に贈り物を買ったりするのに加わるのはよいことです。
家族そろって、他の人のために料理をし、買い物をし、プレゼントを用意することができます。
各家庭でも、クリスマスの食事を用意して神様を知らない人を招くことができます。

クリスマスは家庭を愛に満ちた場所として、伝道ができるまたとない機会です。

ニューヨークの学生だったとき、カストロはアメリカ人の家庭に招かれたいと切に望んでいましたが、そのチャンスはありませんでした。
もし彼が招かれていたらどうなっていたか、考えてみてください。
アメリカ国内には、家に帰るお金がないため、学校の寮に残ってクリスマス休暇を過ごす学生が非常に多くいます。
そうです。あなたも若い人を招いてクリスマスを分かち合うことで、国をも変えうることがあるのです。




(続く)


JBU2012冬号より
Copyright 2012 Holly G. Miller. Translated from Just Between Us, 777 S. Barker Road, Brookfield, WI 53045
  

2012/09/20

召しに満足していますか?~その3

召しに満足していますか?~その3   Kelley Searcy

あなた自身の持ち味に感謝する。


神様はあなたを現在のミニストリーにかかわるように選ばれただけではなく、
そのミニストリーが果たせるような持ち味もあなたに与えてくださいました。

宣教の働きにおいて、「私はいわゆる『伝統的なタイプの牧師夫人』ではない」
と思うことがあります。
私は歌もうまくないし、ピアノも弾けません。料理も上手ではありません。
そして、過去何年もの間、ばりばり働くよりも家にいる方を選びました。

時間がかかりましたが、私は神様が召してくださった役割に満足し始めました。
さらに重要なことは、私が神様が召されたとおりの在り方でいる、ということを受け取れるようになったのです。


神の御国を建てること以上に人生でわくわくするようなことはありません。神様があなたを特別な存在に造り、今日あなたが置かれている宣教の場におかれたのだ、という事実を受け取ってください。
神様はどんな経験も無駄にはなさいません。・・・よいことも、悪いことも。

毎朝「神様、今日あなたの御国を建てるために、私をどのように用いてくださるのですか」と思いながら起きてみてください。


2012/09/13

召しに満足していますか?~その2

召しに満足していますか?~その2
Kelley Searcy


自分の召しを再確認する

時々、私たちは神の召しを受けても楽な人生を送れるかのように思ってしまうことがあります。
神様が召してくださったのだから、まるでパズルのピースが正しい場所にきちんとおさまっていくように、宣教の働きも進んでいくものだと思ってしまうのです。

実際には全く逆です。経験的に、神様の召しに沿った人生を歩めば歩むほど、霊的な妨害は強くなるものです。
信頼を裏切られたり、結婚生活に難しさを感じたり、失意に陥ったりするのです。

私は失意落胆し、もう宣教の働きをやめようかと思ったことが何度かあります。
そうした時、私たち夫婦が神様から、ここニューヨークで新しい主の働きを始めるようにという召しを受けた時のことを思い出します。
宣教のためにしてきたことが何らかの変化を生じている、という形跡を探し始めます。
そうした時に、神様がまさに私にいなさいとおっしゃっている場所に自分がいるのだ、ということを確認するのです。


(つづく)



JBU2012秋号より
Copyright 2012 Kelley Searcy. Translated from Just Between Us, 777 S. Barker Road, Brookfield, WI 53045

2012/09/11

召しに満足していますか?~その1






召しに満足していますか? ~その1

Kelley Searcy







 先日、親しい友人とショッピングに出かけました。マーシーズ(デパート)で靴を見ている時に、その友人は知り合いを見つけ、駆け寄って私のことを紹介してくれました。

「この人は牧師夫人のケリーさんよ」と。

普通なら、友人のことをいきなり「銀行員の奥さん」とか「お医者さんの奥さん」と紹介することはないと思いますが、どうして宣教の働きに召されている場合だけが特別なのでしょうか。

自分はこの立場でも構わないと思うだけでなく、光栄な召しだと心から受け取ることができるにはどうしたらよいでしょうか。
宣教の働きにおいて自身の役割に満足する助けとなる鍵をいくつかあげてみましょう。



自分は一人ぼっちではない、と知ること。

率直なところ、私は宣教の働きの上で非常に孤独だと感じることがあります。
神様がすべてを支配しておられるのが救いですが、女性の友人たちともっと親しくなれたらいいのにと心から思います。

私の尊敬するメンターはかつて友情には3種類あるのだということを教えてくれました。
すなわち、遊び友達、仲間、そして親密な友達です。


遊び友達とは、一緒に何か楽しいことができる友達です。
つまり、土曜の午後に一緒にペディキュアを楽しんだり、夜のパーティーに参加したりする友達です。
こうした友達と過ごすために、特別なプログラムは必要ありません。あくまでも、日々の生活を共に楽しめる間柄です。


仲間とは、互いに同じ環境、境遇にある友人のことです。
宣教の働きに関わっている人にとっては、他の牧師夫人、伝道師夫人でしょう。宣教における恵みと苦労、辛い面を分かち合い、同じ経験を通っている者として理解しあえるような間柄です。

すでに教団の中でそうした集まりがもたれているかもしれません。
もしそうした機会がないなら、どうぞあなたから始めてみてください。
互いの共通点が多くあり、新たな視点を得ることができるのに驚くでしょう。


親密な友達とは、見つけるのが最も難しい間柄です。
実際に、私自身も今なお葛藤しています。
私のメンターによれば、何でも話せる相手で、あなたの秘密を守るだけでなく、たとえあなたが病気になってもそれを決して漏らさないでいてくれる相手だということです。
宣教でリーダー的な立場にある者として、本当に信頼でき、ずっとその信頼に値し続ける人物を見つけるのはなかなか難しい面があります。


(つづく)


2012/06/19

介護と自分のケア


~Caring For Yourself からの抜粋~

介護は思いのほか困難なものです。
もし与えることのできるものが自分の中に残っていなければ、あっという間に疲れ果ててしまうでしょう。
介護生活の中で、自分自身を養う機会を持つ必要があります。それは自分をいたわるというだけでなく、神により近づいて自分の力でなく「生ける水」に頼る、ということを意味します。

介護という人生の大変な時期にある人に、以下にあげるいくつかの決意をお勧めします。



1 自分の人生を送る、という決断。

自分の必要や気持ちを大切にする必要があります。自分にも必要があると認めるのは、自己中心ではありません。
神様があなたのうちにその必要をおかれたのです。介護をしていると、他の人の必要が目の前にありますが、それはあなたの必要やあなたの人生を無視する理由にはなりません。


2 助けを求める、という決断。

介護をする人が家族にすら助けを求めることができない、ということがままあります。リストを作り、家族や他の人に助けを求めましょう。経済的な援助も含めて、です。あなたが燃え尽きてしまうのを誰も見たいとは思わないでしょう。



3 限界を定める、という決断。

もし燃え尽きてしまったら、親が本当に必要な時に助けることができなくなります。限界を定めて、親が必要とすること(してほしいということではなく)、どこまで自分が責任をもてるか、自分の他に誰ができるかを考えましょう。


4 自分のために予定を立てる、という決断。 

自分のために時間をとりたければ、時間管理をするのが最善です。一日ごと、週ごと、月ごとにやることリストを作り、それを優先しましょう。自分の健康や充実した生活のために必要なことを削らないでください。日々楽しめること、内面の回復になることをとりいれましょう。


5 自分の身体的必要に気を配る、という決断。

ストレスはまず身体に現れることがよくあります。
体重の増減、不眠、頭痛・腹痛・腰の痛み・高血圧などの身体症状が現れたら、ストレスにさらされており何らかの対処が必要だという兆候だといえるでしょう。
運動、マッサージ、ジャグジー、サウナ、温泉、シャワー、そして深呼吸など、筋肉の緊張を和らげることをしましょう。「ちょっとした休暇」をとるようにしましょう。
やるべき義務から目を離し、自然の景色を楽しんだり、お茶を飲み読書をしたり音楽を聴いたりしましょう。身体によい食事をしましょう。


6 もっとよく笑う、という決断。

聖書は「陽気な心は薬のように良いものだ」(箴言17:22、KJV)と言っています。
笑う機会を増やしましょう。漫画を買う、図書館でジョーク集を借りる、クリスチャンのコメディービデオを買う、レンタルビデオ、など。笑うと心身ともにリラックスします。


7 定期的に休む、という決断。

介護する人には休息が必要です。定期的に自分の代わりをしてくれる人を見つけましょう。
誰かに頼むことを学びましょう。定期的に休暇をとって外出するのは、たまに長期休暇をとったりどこか遠くへ出かけたりすることより重要です。


8 必要なサポートを見つける、という決断。

介護される両親と同じくらい、介護する人にも精神的なサポートが必要です。家族、友人、介護者のサポートグループを探しましょう。私たちは「互いの重荷を負い合う」(ガラ6:2)ように造られています。




JBU2012夏号より
Copyright 2012 Caring for Yourself. Translated from Just Between Us, 777 S. Barker Road, Brookfield, WI 53045



母親の母親になるとき~介護



Role Reversal 

Angela M. Shupe





「こんにちは。お母さんは多分お部屋にいらっしゃると思いますよ」
受付で声をかけられ、私は今や母にとっての「我が家」に続く、重く暗いドアを開けようとしていました。暖炉の炎が私を照らし、顔と手とを暖めてくれました。

ここが母の現在の「我が家」だとは信じがたいことです。
子どもの頃、我が家とは快適で安全とぬくもりのある場所でした。「我が家」と呼べるのは母が自然にあふれる愛を注いでくれたからでした。我が家がなくなるなんて、あり得るのでしょうか。現実にあったものがなくなってしまうなんて。母がいなければ、そこはもはや我が家ではありません。

私は母に会う心の準備をしながら、悲しくて涙がこぼれそうになるのをこらえました。自分の母を、まるで母親のように介護しなければならないという新たな現実は、すぐには受け入れられません。
二人の子どもの母親として、私にとって母親業は初めてのことではありません。
でも、それとは異なったものです。不自然で、葛藤が伴います。

私は暖炉のそばを離れ、母の部屋に向かいました。ここが子どもの頃訪れた記憶のある老人ホームと似ていないことにほっとしました。ここには暖かさがありました。


母が診断を受けて8年が経ちました。
介護生活に足を踏み入れてから、私たちの役割は逆転し始めました。
恐れていたとおり、神経科の医師は「残念ですが、アルツハイマーです」と言いました。
私は母の娘であった当時を覚えていますが、今となっては私を生み育ててくれたその人の世話をするようになったのでした。
かつて快活で頼りになった母は、もはや子どものように無邪気になってしまいました。

部屋の前に着き、私はそうっとドアを押しました。母はベッドの上に座っていて、差し込む日差しでできた影が伸びていました。

「お母さん、私よ、アンジーよ」私は静かに言いました。
「アンジー。」母は元気に足を伸ばそうとしましたが、年齢のためにゆっくりとしかできませんでした。(それでも、まだ私のことがわかっているのでほっとしました。)

「アンジー、来てくれてうれしいわ。寂しかったのよ。ずいぶん顔を見なかったじゃない。」
私たちは肩を抱き合いました。
「お母さん、私もよ。顔を見られてうれしいわ。」

私は母が思い出せないとわかっていたので、2日前に来たことにはふれずにそう言いました。
「座って話しましょう、お母さん。」
「そうね」

母が足を滑らせて転ばないように注意しながら、私たちはゆっくりとベッドの方に戻りました。
ベッドの上にひざ掛けを広げ、会話を始めました。

「体の調子はどう、お母さん」
「ええ、大丈夫よ」母は早口でいうと、私がどうしていたかを聞きたがりました。

「アンジー、あなたはどうしていたの。心配していたのよ。えーっと、あなたの・・・なんていう名前だっけ。どうして思い出せないのかしら。」がっかりした口調で母は言いました。

「ジェラードのことね。孫の。」
「そう、ジェラードだったわ。元気にしてる?」
「元気よ、そしてもう一人の孫のソフィアも元気よ。あっという間に大きくなるけれど」

母が孫のことを本当に覚えているのか疑問に思いながら、私は言いました。

「お父さんには会った?ニューヨークにいるのかしら」母が尋ねました。

「ニューヨークですって?」私は言葉を失いました。変なことを言うものだと思いました。
父はニューヨークに住んだことはなく、結婚以来ずっとミシガンで仕事も家庭生活も送ってきたからです。

「お父さんには会っていないけど、電話で話したら元気だと言っていたわよ。確か昨日ここに来たと思うのだけど」
「え、そうだったかしら?忘れちゃったみたい。彼に会いたいわ」

私の訪問も、母の記憶からはすぐに忘れ去られてしまうのだと思うと寂しくなり、私の心は沈みました。

「あなたはお父さんに会ったの?」母がまた尋ねました。
「ううん、会ってはいないけど、元気にしているのは知っているわ」私は再び答えました。

「ジェラードはどうしているの」
「とっても元気よ。ちょうど8歳になって、3年生よ。」
「まあ、3年生ですって!」母は心の底から驚いたようでした。

何度も何度も同じ質問の繰り返しでした。そのたび、私は優しく答えました。

私は自分の生活についてできるだけわかりやすく話しはじめました。「時々息子とどう接したらよいかわからなくなるのよ」
母からは笑顔の他にどんな知恵ももらえないと知りながら、私は話を終えました。


母は顔を上げ、私の目をじっと見つめました。「アンジー、あなたは素晴らしい母親よ。彼は変わっていくのだから、じっと見守っていたらよいの。成長には少し時間が必要だけど、心配しなくても大丈夫よ。」はっきりと自信のある口調で母は言いました。


私ははっとしました。
子どもの頃励ましの言葉をかけてくれたのと同じ女性が、私の前にいました。そして母親としてのまなざしで私に話してくれていました。


・・・私の心の目には、老いた母の顔は消え、玄関の入り口に座ったずっと若い女性が見えました。しわがなく、オリーブ色のなめらかな肌と茶色の目をしていることが、彼女がフィリピン系とイタリア系の血をひく女性であることを示していました。ペイズリーのロングスカートとクリーム色のブラウスを着て、一連のパールのネックレスをしていました。

「アンジー、何があったか話してごらん」10歳のやせた少女だった私に彼女は言いました。
その直前、家の中で私はきつい口調で話していました。彼女は私の言葉の背後に何かがあると察し、真実を聞き出そうとしました。
その日は学校で特にいやなことがありました。私に向かって発せられた言葉は相手に有利となり、不公平な結果に私の幼い心は傷ついたのでした。

彼女は静かに私の話を聴き、涙をぬぐってくれ、私とよく似た境遇で、戦争のため家も国も失った女の子の話を始めました。

それは、戦争で占領された地に、私と同じような問題に直面した少女がいた、というものでした。クラスメートが何気なく言った言葉が、戦争の混乱の中でさえも少女の心を傷つけたのでした。

彼女の話は初耳でした。これまで聞いたことがありませんでした。でも言いたいことは明らかでした。大変な困難の中にあっても、脱出できる。やり遂げられるのだ、ということでした。

彼女が話を始める前から私は反省していました。そして泣きながら謝りました。私のひどい言葉にもかかわらず、彼女は私を無条件で愛してくれていました。

「アンジー、たとえあなたがひどいことをしても、決してあなたを嫌いになることはないわ。だって、私はあなたのお母さんなんだし、いつもあなたを愛しているのだから。」
彼女は話を終え、私を抱き寄せてくれました。・・・



現実の母の目を見て、私は何も言えなくなりました。ずっと老いた女性である母の言葉を聞いて、私は長年の介護生活で初めて深い話ができたことに感動しました。そして改めて、母が私をありのままを見ていてくれるということに嬉しさを覚えました。何も言いませんでしたが、代わりに母に向かってほほえみました。

「お母さん、散歩しましょう」私は母の上着のボタンを留め、彼女を慎重に立たせました。私たちは並んで廊下からサンルームに歩いて行きました。窓の外には大きな楓の木があり、色づいていました。
「お母さん見て、とってもきれいな葉の色ね。」
母は私の手を握り、私を支えにしていました。母の愛は真実だとわかって私は心強い思いでした。きっとできるわ、と私は思いました。母の母親代わりになってあげられる。母を愛しているのですから。

「お父さんも一緒だったらよかったのに。お父さんに会った?」
母はまた尋ねました。私たちは日差しの中、散歩を続けました。


JBU2012夏号より
Copyright 2012 Angela Shupe. Translated 
from Just Between Us, 777 S. Barker Road, Brookfield, WI 53045

2011/09/01

楽しみを見出す

Learning to Have Fun - Learning to take the guilt out of having fun
シェリー・ウドルフ

 早速ですが、私の友人の迷いを想像してみてください。
 彼女の息子は外で遊んでいて、下の赤ちゃんは眠っています。さあ、静かな時間を楽しむべきではないでしょうか?息子と遊んでやらなければと思いつつも、今のうちに読書をするなり用事を片づけてしまうなりした方がよいのではないか、と思ったのです。

 でも、彼女は外に出て息子と思い切り遊ぶことにしました。後になって、当時を思い出しては息子たちは大笑いし、母親が一緒に遊んでくれたことをとても喜んでいたそうです。どの息子も思う存分遊んだことが思い出になっているというのは、彼女にとって嬉しいことでした。


 バセット犬の小犬がじゃれるのを見たことがあるなら、神様がユーモアのセンスをお持ちだとわかるでしょう。神様は、同じようにユーモアを持って子どものように遊ぶことが必要な存在として、私たちをおつくりになりました。

 悲しいことに、私たちはみな疲れ果てるまで働き続けてしまいます。「だって、遊ぶことだけを考えるのは罪悪感があるもの」と言う声が聞こえてきそうです。でも、もう少し生活の中で楽しみやユーモアを見出すことで、私たちは日々をさわやかに、そしてエネルギッシュに過ごすことができるのです。

 私の知人のほとんどは、もっと楽しい時を過ごしたいと思っているのに、楽しい計画を立てること自体がto-doリストを一つ増やすことになります。でも、それだけ努力する価値はあります。

 自宅や教会で女性のための「ゲーム・ナイト」を計画すると、いつもとても楽しみにしているという声を聞きます。参加する女性たちが一緒にゲームを楽しみます。そして楽しい夜をありがとう、と、何週間たっても感謝してくれるのです。どうしてそのような企画がもっと広がらないのかしら、といつも思います。

 たぶん、実際以上にとても手間がかかると思ってしまうからでしょう。あるいは、もしかするとパーティーが失敗し、少しも楽しめなかったらどうしようか、という不安があるのかもしれません。

 私もそうした思いはありますが、同時に周囲の人々が気分転換し、大笑いして楽しむ時が必要だとも感じています。ですから家族や友達のために企画を続けています。

いくつか好評だったアイデアを以下にご紹介します。

<友人向け>

 女性のゲームナイトに加え、私たち夫婦はよくカップル・ゲームナイトを開きます。そこにはさまざまな年齢や環境の人たちを招くようにしています。そして、必ず何人か外交的な人あるいは励ます賜物を持つ人を含めます。

 私には91歳の友人がいますが、彼女は常に周りに気を配ります。彼女は気さくで話しやすく、誰かといることそのものを楽しむ人なので、参加者皆が歓迎されていると感じ、楽しむことができます。

 ゲームナイトのようなパーティーをする目的は、近所の人や教会の人がリラックスし、楽しみ、お互いをよく知り合うことです。各家庭からスナックを持ってきてもらうことにしているので、食べ物の準備はきわめて簡単です。BalderdashやTaboo(盤ゲーム)、Gesturesゲームなどが好評です。もしカードゲームが好きならNertsがおすすめです。というのも5分で勝負がつき、何人でも参加し楽しめるからです。

 想像力を駆使してください。家族をデザートやクロケットに招いたり、庭でたき火のそばに座ってマシュマロを焼きクッキーと共に食べたり。娯楽とは、要は人々が楽しくリラックスできることをすることです。
 少人数でなら、3,4人の女性で散歩や展覧会に行くとか、公園で1時間おしゃべりするというのも楽しい休息になります。ほとんどの人は、誰かが自分のことを思って「わざわざ」何かに招いてくれた時、すでにわくわくした気持ちになります。

 先日一人の友人を映画に誘ったら、彼女は電話口で大喜びしてくれました。新しい経験を分かち合ったり、移り変わる日々の中でお互いがリラックスしてありのままでいられる時、友情は新鮮で深くなります。あなた自身のしたいことをちょっと思い浮かべ、そこに誰かを誘ってみてはどうでしょうか。

<家族向け>

 子ども達が幼かった時は、定期的に家族で遊ぶ時間を作っていました。公園に行ったり、一緒にゲームをしたりしました。ふわふわのボールをたくさん購入し、リビングルームで思い切り投げ合って遊んだこともあります。もし室内で遊ぶと家が壊れる、というなら、その家は子育てするには不適当ですね。

 現在息子たちは10代になりましたが、「必ず参加する家族の時間」を作っています。どんなに文句を言っても通用しません。一度試してみてください。
 どんな人も、家族でたった1時間遊ぶこともできないほど忙しくあるべきではありません。私たちはフリスビーゴルフに行ったり、山道を歩いたり、自転車でアイスクリームを食べに行ったりします。家族の少なくとも半分以上が楽しめるような活動を考えて実行してみてください。

<自分自身のために>
 
 あなたは本当は何をしたいですか。生活に何を付け加えたいですか。もしプライベートで楽しむ時間を持つのが難しいのなら、まず15分間でできることから始めてみましょう。
 楽しむためだけに何かをするのは、悪いことではありません。あなたの一番の友であるイエス様も、あなたが楽しむのを喜んでくださるでしょう。そして他の友達も皆、喜んでくれるでしょう。

 定期的に少しの時間をとって創造的なことをしたり、図書館に行って雑誌を読んだり、花壇の植え替えをしたりすれば、新たな力がわいてくるのを感じるでしょう。

 「(子どもは)よく学びよく遊べ」という古いことわざがあるでしょう。大人も同じです。わくわくする楽しみの時間を持つことは、日々勤勉に働くために大切なのです。お金や時間をかける必要はありません。自分自身に「楽しむ」というご褒美をあげましょう。
 


 ほとんどの人は楽しく遊んでよいと誰かが許可をくれたらと思っており、またどのように楽しめばよいか教えてほしいとも思っています。
 多くの人が、とりたてて理由がなくてもちょっとリラックスする自由がある、と感じていないのは悲しいことです。

 神様は私たちが重荷を下ろして楽しく生活することを願っておられると思います。日常生活の中で楽しむ時を持つのは少しの努力と選択がいるかもしれなせん。でもそうする価値はあります。

 教会でも、ちょっとした冗談と楽しい時が多くの人のためになるでしょう。友人や近所の人が私が自宅でくつろぎ笑顔でいるのを見たら、たとえ家が完璧に掃除されていなくても、きれいに飾られていなくても、ずっと居心地がよいと私は確信しています。

 企画やゲームが初めてのものや不得意なものである時、たとえ勝てなくても、あるいはきちんとやり方どおりにできなくても、とにかく「遊ぶ」のは楽しいことだと私たちは知るのです。

 神様はとても多くのよいものを私たちにくださいました。それを楽しむべきではないでしょうか?たとえ90歳になっても、人生に楽しみは尽きないと私は信じています。年齢を重ねても「楽しみがたくさんあってうれしいわ」と言いたいと思いませんか?

2011/03/09

整理の行き届いた暮らし Uncluttered Life

  ~ごちゃごちゃの日々から解放されるには

クリスティーヌ・フーヴァー
 我が家のキッチンには、小さな机があります。息子たちの通学かばんからは図工の作品、証明書、図書館で借りた本、遠足のプリント・・・等々が出てきて、机の上に積まれます。
 夕方、夫が帰ってくると、仕事関係の書類がその上に加わります。けれども、実は、机に積まれているもののほとんどは私のものです。雑誌から切り抜いたレシピ、請求書、図書館から借りたままの本、・・・そして紙の切れ端に書いたTo-doリストやメモはその中で行方不明になっています。ちょうど、私の生活のすべてがその机の上に置かれているようです。私はどちらかといえば整理好きな方ですが、その机を片づけるのはどうも苦手です。


 ある時、その机は私の人生の縮図なのだと気付きました。大切なメモやTo-doリストが目立つようにきちんと整理しようとするのですが、なかなか片付かないのです。


整理された暮らし

 私たち女性は忙しいスケジュールで過ごしています。時間がいくらあっても足りず、周囲からの要求はきりがありません。毎日走りまわってあれこれと用事をこなすのはたやすいのですが、一体自分がどこを走っているのか、そもそもなぜ走っているのかを忘れてしまいます。キッチンの机のように、私たちの暮らしも散らかって手がつけられなくなり、燃え尽きたり宣教に疲れ果てたりしてしまいます。神様が与えた優先順位を知り、それを維持するためには、いつも「整理された」暮らしが必要です。


「整理できない人々」から学ぶこと

 「整理できない人々」の様子を聞くと、我が家の部屋の片隅や吹き溜まりをぜひとも掃除したいという思いになります。物理的にも感情的にも、がらくたでいっぱいの家族は、優先順位を見極めることができません。自分たちにとって何が重要かを判断できなくなっているのです。彼らは専門家に依頼して家を片付けてもらいますが、その手順から私たちも「主の働きにおいて『整理できない人』」にならないために学ぶことができます。


1.何を持つべきか

 スケジュールがいっぱいになり過ぎると、自分が何者であり、神様が特に何に召してくださったのかを見失ってしまいがちです。焦点を絞らずより多くのことにかかわれば、自分がより重要な人物となり、より大きな影響力を持ち、主のために大きな働きができると思い込んでしまうのです。けれども、それでは忙しすぎて神様の御声を聴けず、何をしてもうまくいかない「栄光ある『整理できない人』」になってしまいます。

 もし、私たちがいくつかの限られた分野に情熱を傾ける女性だったら?もしそれらに集中して、霊的な賜物を成長させ、主のために素晴らしく用いたら?神様は私たちをもっと的を得た効果的な用い方がおできになるでしょうし、同時に私たちも全ての人の全ての必要に応えなければ、という責任感から解放されるでしょう。自分の召しと情熱を自覚していたら、それに伴って予定表も、To-doリストも、誰と過ごすかも、何を考えるべきかも定まってきます。

 もしあなたが何を続けるべきかわからないのなら、以下の問いに答えてみてください。
・そもそも、神様があなたを宣教の働きに召されたのはなぜですか。
・神様はあなたをどんな分野の働きに召しておられますか。
・あなたは何をするのが好きですか。
・あなたの賜物は何ですか。あなたの予定表や仕事のリストは、それを反映したものになっていますか。

2.何を処分すべきか

 クローゼットを整理すると、使っていないけれど、処分したりあげたりしたくないという物が大抵いくつか出てきます。思い出があったり、あるいは将来使うかもしれないと思ったりするのですが、実際に使うことは滅多にありません。そして次に整理する頃には、たいていごみになっているのです。

 奉仕していて神様が私たちをどう用いたいのかを見分けるのは、整理にたとえれば難しい部類には入りません。難しいのは、思い入れのある働きや仕事からどう手を引くか、なのです。「私がしなければ、だれがこれをするの?」「これは私の賜物ではないけれど、この賜物があればなあと思っていたからやり続けるの」と私たちは考えます。

 こうした考えは暮らしを整理する上でやっかいです。つまり、神様が与えた働きに満足していないから、自分のしたいと思うことに固執しているか、あるいは神様が働きを支えてくださると信頼していないから、このように考えてしまうのです。


 夫と私は現在開拓3年目です。前任の教会では、私は今とはずいぶん違った働きをしていました。以前は大人数の女性を教えたりリードしたりしていました。でも今は個人的な弟子訓練、夕食の交わり、個人カウンセリング、日曜朝の会話、教会学校など、個別の関わりが増えました。以前のように華やかな働きではないので、神様がこのような働きに私を入れられたことに反発し、私のプライドは傷つきました。

 別の時には、全てが私にかかっている気がして責任を負いすぎていました。全ての新来者に対して一人一人声をかけなければならない、全ての働きがうまくいっているか確認するために全てにかかわらなければならない、などです。でも神様はⅠコリント3:6の種まく人の原則を思い出させてくださいました。「 私が植えて、アポロが水を注ぎました。しかし、成長させたのは神です。」

 私たちは全てに召されているわけではありません。全てのこと、全ての人に対して召されているのではないのです。また、誰かの働きや賜物を真似るようにも召されていません。自分自身への期待から解放され、神様が召したところで用いてくださると信じられるなら、ちょうど「すっきりしたクローゼット」のような自由を味わうでしょう。


3.何を譲るべきか

 ようやく整理を終えた人が、再び散らからないようにするにはどうしたらよいでしょうか。やみくもに買い物やコレクションをする代わりに、必要なものとただ欲しいもの、値打ちのある物とない物、よい物と最善の物の違いを学ぶことです。

 神様の優先順位に基づいて与えられた機会を吟味し、今しない方がよいことにはノーと言うことで、私たちも宣教の働きを整理された状態に保つことができます。他人が代わることのできない家庭や宣教の働きがいくつかある一方で、賜物がないまま続けているだけだったり、誰かに任せたりできることも多くあるのです。

 「霊的でない」と感じられるかもしれませんが、宣教において他の人に任せることは重要なことです。使6:1~4にあるように、人々の必要が多くなり、主から与えられた祈りとみことばの働きが後回しになりかねない時、初代教会の使徒たちも他の人に多くの働きを任せました。私たちも、どの働きが不可欠で、どの働きは賜物のある他の人に任せられるかを見分けて、使徒たちに倣わなければなりません。

 開拓伝道の働きでは、神様が与えたこと以外にもいろいろしたいという大きな誘惑がやってきます。開拓だけでなく、どんな宣教の働きであっても、すべき働き以外のことはいろいろあるはずです。ほぼ毎日のように、私は神様が与えてくださった優先順位を思い出す必要があります。それは私にとっては忠実な弟子、愛情に満ちた妻、目標を持った母、家庭の良き管理者、教会に仕えるしもべ、の順です。これらに従順であれば、神様は私の家庭、人間関係、教会、地域において実際に働いてくださるのです。




Christine Hoover(クリスティーヌ・フーヴァー):
開拓伝道の傍ら、フリーランスのライターでもある。彼女と夫の間には3人の男の子がいる。ヴァージニア州シャーロットヴィル在住。ブログ hooverhousehold.blogspot.com 主宰。
 
Copyright 2011 Christine Hoover. Translated from Just Between Us, 777 S. Barker Road, Brookfield, WI 53045 

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