2017/02/22

「それを良しとされた」~苦しみの中でも人生を楽しむ (3)




カラ・ティペッツ 
Kara Tippetts




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  • 弱さの中にある強さ
「 あなたが水の中を過ぎるときも、わたしはあなたとともにおり、
 川を渡るときも、あなたは押し流されない。・・・
 恐れるな。わたしがあなたとともにいるからだ。」
(イザヤ43:2・5、新改訳)

神様が共におられることが、なぜ私たちにとって受け入れがたい概念なのでしょうか。
自分が強いので、神様と距離をおきたいのかもしれません。
その強さがなくなり、取り去られ、あるいは揺らいだ時、私たちは神様に共にいてくださいと願います。
しかしそれまでは、神様とは安全な距離を保ちたいと考えます。
なぜなら、立ち入られたくないし、じゃまをされたくないし、日常生活であれこれ指示されたくないからです。
試練がやってきた時、私たちはイエス様にすぐそばにいてほしいと思います。
しかし試練が去ると、「ありがとうございました、イエス様。もうここからはやっていけます」と言うのです。

試練が神の主権のうちにあるのは、私たちが強い時には神に全き信頼をするのが難しいからです。神様の優しさです。
試練はしばしば強い人のところに起こり、苦い怒りをもって迎えられます。
怒りを引き起こすのは試練そのものよりも、強さをなくしたことについてです。
正直に言いますが、私は最も辛い治療の時、この苦しさがなくなるようにとではなく、
私に力が戻ってくるようにと叫び求めました。
もっと正直にいうと、今でもそれが私の祈りです。
試練の日を少なく、ではなく、強い日々をもっと、と。

私たちは強さを好みます。そのために生きています。
だからそれをなくすと、神様がよい方であることに疑いを抱きます。
しかし、自分自身の歩みを見る時に、強さをなくしたのは恵み、イエス様のそばに近づくための大きな恵みです。
今はまた、よくなること、少しずつでも前進を願って別の治療に入っています。
取り戻した力をどのように用いましょうか。
そしてまた苦しみがやって来た時、私の心は受け入れる準備ができているでしょうか。

「イエス様、この新しい試練の時にあなたに頼ることができて感謝します。
 この中にあって、誠実であらせてください。
 あなたが良い方であることを思い、苦しみをあなたと共に通らせてください」
と祈ることができれば幸いです。


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「それを良しとされた」~苦しみの中でも人生を楽しむ (2)







カラ・ティペッツ 
Kara Tippetts




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  • 恵みのドレス

先週の一日は、私の余命を示す記事を読んで、何も手につきませんでした。
記事そのものは愛の心で送られてきましたが、私の狭い心は統計データが示す、私の余命の長さだけしか読み取れませんでした。
それまでは、夫ジェイソンと私は悲嘆し泣きもしましたが、平安に満たされていました。
ところがその夜、私は眠れず、心が沈み、子ども一人ひとりの年齢に私の余命を足してみて、平安を失ってしまったのです。

でも、次の日、それはそれは大きな恵みが訪れました。
起きた時は気分がよくありませんでした。
それで近所の人に、息子のレイクをその日世話してもらえないかと頼みました。
しばらくして一人の友人が、夕食を持っていってあげようかと電話をくれました。
私は、それならうちに来て準備してほしい、そして娘のジェインに本を見せてやってほしいのだが可能だろうか、と尋ねました。
彼女はOKと言って来てくれることになりました。
次いで、散歩で同じ道を歩いている女性に電話をしました。
彼女は午後1時に来て私を散歩に連れ出してくれました。
痛みのただ中にある私の心を彼女は楽しませてくれ、私の人生への麗しい希望を与えてくれました。
そのひと時を通して、私は平安が戻ってくるのを感じました。

帰宅し疲れ切っていたので、昼寝をしてもよいかと夕食を作りに来てくれた親切な友人に尋ねました。
彼女は私を階上まで連れて行き、ベッドに寝かせてくれました。
しばらく休んで目覚めると、私に髪があるうちに最後の家族写真を撮るため、写真家のジェン・リンツが来ていました。
私は目をこすりながら階下に行き、何を着て撮影しようかしらと言いました。
すると、料理をしていた友人が、
「あなたは私の服が素敵と言っていたわね」
と言いました。
彼女は自分の車から着替えをかかえて戻ってきました。
そして文字通り自分の服を脱いで私にプレゼントしてくれたのです。

そうです。
私にはこんな素晴らしい友人たちがいるのです。子どもの世話をしてくれ、掃除をし、夕食を作り、家族写真を撮り、散歩中に励ましを与え、自分の着ている服を差し出してくれる友人たちが。

私はその服を「恵みのドレス」と呼んでいます。
友人がプレゼントしてくれてから、まさしく3日間ずっとそれを着ています。
辛い気持ちの時はそれを着ます。
きっと抗がん治療の初日にも着るでしょう。

昨日は髪を全部切りました。
たとえ髪が抜けても、子どもたちがあまり驚かないですむように。
だからその「恵みのドレス」を着ました。
カットの後、その服のまま眠ることにしました。
髪を切ることはそれほど辛いことではありませんでした。
これまで何度もショートヘアにしたことがありますから。
それよりも、切らなければならない理由が辛かったのです。
短く切ったら、次のステップはすべて抜け落ちることです。
着心地のよいグレーの綿のドレスのように、恵みがその日必要なのです。
きっと恵みが与えられると、私は信じています。

私はとても愛されていると感じます。
私たち一家は守られ、祈られています。
奇蹟のような平安がまさしく現実に表されています。
私はただがんだけに向き合っているわけではないと知っています。
知っています。
(続く)


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「それを良しとされた」~苦しみの中でも人生を楽しむ (1)






カラ・ティペッツ 
Kara Tippetts




4人の子の若い母親であり、妻であるカラは2013年に乳がんと宣告されました。
それ以来、彼女は肉体的・精神的な痛みと闘いながらも、人生の希望を持ち続けることを学ぶ過程を歩き始めました。

彼女は「日々誠実に歩む(Mundane Faithfulness)」というブログを始めました。それは、葛藤の中にある人たちに、苦しみの中での真理を伝えたいと願ってのことでした。
ブログと彼女の3冊の著書は、辛い時を信仰の力によりいかに過ごすかという知恵を記したものです。それらは多くの人に感動を与えました。

カラは2015年3月に生涯を終えました。
以下はカラの最後の著書「それを良しとされた(And It Was Beautiful、未邦訳)」からのいくつかの抜粋です。同書には、日々神様だけが与えることのできる力によって、よく生きよく死ぬことが書かれています。

カラはこう述べています。
「私はただよく生きようとしているだけです。
私はがんを憎みません。・・・ええ、時々はいやだなあと思います。
がんが私の先生のようだと思える前にはいやでした。
神様は良い方で、私の生涯の日数や髪の毛の数まで数えることのできる全能のお方です。試練を許すだけでなく、共に試練を通ってくださる方です。」

カラの文章を通して、日々の何気ない瞬間であれ暗い日々であれその真中にいつもイエス様がおられること、人生が驚くほど美しいものであること、そして神様は常に良い方であることに励ましを受けることでしょう。



  • やりたいことリストのない人生


私は、この地上の人生のうちにやりたいこと、見たいこと、達成したいことはそれほど多くないと自信を持って言えます。
長い間、自分の農場を持ちたいと夢見ていました。
自然の土地と四季のリズムが作り出す普通の日々が想像できました。
けれども、それ以上にやりたいことリストを作って達成度をチェックすることは望みませんでした。
私は中古車に満足し、少ないワードローブに満足し、素敵な持ち物や休みがないことにも満足しています。
誤解しないでください。
もちろん私は素晴らしいコンサートが好きですが、同時に台所で有機食材を並べたパーティーも大好きです。
ごちそうは好きですが、同時に裏庭で焼いたホットドッグも大好きです。
山登りは好きですが、同時に友人たちと近所を散歩するのも大好きです。

先週、この人生の旅路が長く違った道になるかもしれないと聞いたとき、私は夫の方を向いて泣きました。
彼に、一日、一日とこの地上への執着がなくなってきたと話しています。
車で道を走っていても、落ち込んだり、心よりもお金が大事だと思わせることに出会います。
看板広告は何を買い、何を考え、誰に投票するべきかを訴えてきます。
しかし、地上で私を結びつけているつながりは人間関係です。
病気によって、このつながりがさらに実体を持った大切なものになりました。
私の心を支えているのは人々なのです。

試練を通し、私たちが神について信じていることがこの世の考え方とぶつかることが明らかになります。
ある人は私の病気のことを聞き、神が良い方であるということに疑問を感じ始めたと言いますが、それを聞くと少し悲しくなります。
私は苦しみを通して信仰が幼子のようにより素直になったと感じています。
試練を通して、神がより大きくなったり素晴らしく思えたりするとは限りません。
けれども、先が見えない歩みの中で神様への思いがよりシンプルになります。

先週、これからどうなるかわからない中で、私は息子レイクを抱っこしていました。
すると、私は彼の最初の失恋の時にそばにいてやることができないのだ、という思いに打ちのめされました。
その瞬間、恐れが心を支配し、もう少しで倒れてしまいそうでした。
上の娘を見て、この子たちの思春期を誰が支えてやれるのだろうと考えると、窒息してしまいそうでした。

なぜ私が?どうしてこんなことに?
子どもたちが私を必要とするとき、私は共にいてやれないのだろうか?

真理はこうです。
私たちのだれも、自分の生涯の長さがわからないのです。
だから、日々の糧が与えられるよう祈り、与えられて感謝をささげるのです。
今日、私には部屋を走って抱きついてくれる幼い息子がいます。
「5回キスして」というと10回もキスしてくれる幼い娘がいます。
外出して友達に会っても、私と手をつないでいてくれる10代初めの娘がいます。
その日にあったことを事細かに喜んで話してくれる二番目の娘がいます。
私の好みの味のコーヒーを入れてくれる夫がいます。

やりたいことリスト?いいえ、私には必要ありません。
私はとても豊かです。
人とのつながりこそが必要なことなのです。
そして、今日一日のすばらしい贈り物に目を止めるのが、私のリストにある唯一のことです。 
(続く)


Intentional Living:神の計画を意図的に生きる(5)

5 ふりかえり、 再評価し、 選ぶ。 主とともに歩みながら、目標を設定し、毎日のよい習慣を実践してください。 途中で立ち止まり、熟考し、再評価し、選択することです。 Intentional living は、大陸横断紀行によく似ています。 走行中に車を停め、燃料を補給する必要があ...