2010/12/30

燃え尽きからの回復 Beating Burnout

燃え尽き(バーナウト)に陥らないために:働きすぎず、休息をとることを学ぶ
 Athlee Bowman

左の耳に犬のクーン、クーンという鳴き声が聞こえ、私は夢の世界から目覚めました。片目を開けたものの、もう一度目を閉じ、私はうーんとうなりました。もう夜は明けていましたが、起きる気になれませんでした。ただ、犬が茶色い目で訴え、外に出たがって鳴いているらしいということを除いては。

毎日がこのように始まりました。身体が重くてたまりませんでした。でもしなければならないことがあります。私は洋服をつかみ、よろよろと階下に下りていき、犬を外に出してやり、浴室まで足を引きずって行きました。
私は燃え尽きていました。私の心の内側は、恐ろしい妖怪にやられてしまったようでした。幸せが感じられず、不安が恐れへ、悲しみが落胆へとなり、とんでもない時に怒りがわきあがり、常にひどい疲れを覚えていました。

何が起こっているのかわかりませんでしたが、とにかく自分が働き過ぎだということはわかっていました。けれども日本で働く宣教師としては、働きすぎは珍しいことではありませんでした。分刻みのスケジュールで動く、この社会に適応しなければなりませんでした。第一、私がしなければ他に誰がするのでしょうか?家事をこなし、子ども達の勉強を見てやり、教会で奏楽をし、英語クラスで教え、特別集会を計画し・・・。すべきことは無限にありました。そしてそれらは全て、私がしなければならないことだったのです。

ある蒸し暑い日曜の午後、それは起こりました。クローゼットのように狭いキッチンで、献身的な姉妹と私とは持ち寄りパーティーの料理を準備していました。目を開けたままシンクにもたれて休んでいると、5歳の息子が私を後ろから押しました。彼は手伝おうとしたのですが、実際にはシンクのはるか下で泡を飛ばしているだけでした。「あっちに行きなさい!!」彼をキッチンから追い出しながら、私は叫んでいました。家に帰る時も感情が高ぶってどうしようもありませんでした。

私は恐れを感じました。もはや些細なことでさえ、コントロールできなくなっていました。何もかもやめて、まる1年くらい眠り続けたい気持ちでした。

やがて神様は恵みをもってこの状態に介入してくださいました。私が崖っぷちにぶらさがっているような状態であることを、神様は知っておられました。そして主のタイミングは完全でした。私たちの属する団体が心理学者の「ダン博士」を招き、彼は春の集まりで燃え尽きについて話してくれたのです。私たちには仕事の限界を設定することと、休息の時を持つことが必要だと、彼は語ってくれました。多くの参加者が「休暇については?」「一人で働いている場合はどうしたらいいのか?」と質問をし、自分たちが抱え続けなければいけない仕事の数々を数え上げました。

ダン博士は腕を組み、質問する人たちの目をじっと見て、忍耐と情熱をもって静かに聞き続けてくれました。ところが彼の答えは短いものでした。「あなたがたには選ぶ権利があります。ストレスは燃え尽きにつながり、燃え尽きると鬱になっていきます。それでは、次の質問の方。」

それを聞いて私は「選ぶ権利ですって?私には本当にそんなものがあるのかしら」と疑問に思いました。その日、私は神様に助けを求めました。

神様の答えであるもののそれに反対する思いで混乱し続けました。「誰かがその仕事をしなければならないのに。自分が休んでもいいの?それでも、神様の仕事をしていると言えるのかしら?」
夫は私のジレンマを理解してくれました。そして「君はノーと言えるようにならなければ」と何度も言ってくれました。
「でも、他の人たちはどう思うかしら。」自分の思いを探っていくうちに、人々を喜ばせなければという思いが私の問題なのだと気づきました。

神様からの答えを求めていると、4つの主要な問題が浮かびました。


1.神の御心をゆがめて受け取ること。

私は神様の御心に焦点をあて、それ以外に「ノー」という必要がありました。もちろん私はキリストの仕える姿勢(ピリ2:5-7)にならいたかったのですが、自分の姿勢との違いを見落としていました。イエス様は全てについて謙遜に父なる神様の御心に従われたのです。私はすべての人々の必要に答えようとしていたのですが、イエス様はあわれみを示される時、人の要求に左右されませんでした(ヨハ6:14-15)。
神様の御心に従うためには、今している奉仕よりも神様ご自身をいつも見つめていなければなりません。つまり、人々を喜ばせるのではなく、神様を喜ばせる者になることです。ローマ12:2は「この世の行いや慣わしを真似るのでなく、神によって新しい人に変えていただきなさい(NLT訳)」と述べています。


2.  他の人からの大きな期待。

私は自分の心の底を探る必要がありました。そして、他人からの大きな期待と、それによって生じた私の隠れた怒りとを捨てました。うつにつながる燃え尽きの主な原因は、抑圧された怒りだと学びました。ミナース&メイヤー共著「『うつ』をやめれば、楽になる(原題Happiness is a Choice)」によれば、「したくない思いを持ちながら行動することが、うつの大部分をもたらす」ということです。

「でも、私は違います。私は怒っていません・・・ああ、でも・・・もしかしたら怒っているかもしれません」痛みと怒りが頭の中でぶつかり葛藤しました。「他の人たちは私にいろいろと頼みながら、自分たちは何もしていないでいることに怒っています。」私の怒りは、私自身の高い期待によるものでした。どんな人でも期待は持っていますが、多くの人たちはそれに気づかずに宣教の働きに入ります。私も例外ではありませんでした。周りの人たちがスーパーマンのようなクリスチャンになってほしいと期待し、それが裏切られては人々を責める思いになっていたのです。私は未解決の抑圧された怒りをリストアップし、神様に他の人々を許せるよう助けてくださいと願いました。不可能に思えましたが、祈りと思いをコントロールすることによって、私の怒りは徐々に消えていきました。


3.人間関係におけるバウンダリー(境界線)があいまいなこと。

「境界線(バウンダリーズ)」という本で、ヘンリ・クラウドとジョン・タウンゼントは「明確なバウンダリーを設定することが、健全でバランスのとれたライフスタイルには不可欠です。バウンダリーとは私たちが何について責任を持つのかを決定する個人の所有権の境界線です」と述べています。

私には他の人との間にあいまいなバウンダリー(境界線)しかありませんでした。ですから、生活のどこかである境界線を引くことが必要でした。「心を尽くして、あなたの神である主を愛せよ・・・あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ(マタイ22:37-38)」という2つの黄金律を思い出すことが、私のバウンダリー設定の基準となりました。
私は神様の思いを第一にして神様を愛します。そして人々を愛しますが、それは人の期待に応えるのでなく、その人にとっての最善を考えて愛します。バウンダリーを設定することにより、自分自身を愛し、肉体的・精神的にまいってしまうことを防ぐのです。

4.  人生における喪失を悲しむ時を持つ。

私には悲しむ時間が必要でした。母とは死別し、娘は私が燃え尽きるのと同じ年に進学のため家を離れました。私は悲しみを紛らわすために以前よりも忙しくしました。窮地に陥った時、私はその悲しみを別の方法で乗り越えなければならないとわかりました。働けば、家族との死別や離別で開いた穴が埋まると思っていました。けれどもそうではなかったのです。嘆き悲しみ、神様の腕の中で憩う時を持つことが心の喪失を癒してくれるものだったのです。


ダン博士のストレス講座と私の平安探しが始まってから6ヶ月がたちました。太陽が再び昇りました。私の精神的な暗闇は遠くに消え、燃え尽きは過ぎ去りました。「希望」という名の喜びが思いの中に再び戻ってきました。その朝夫は私の変化に気づき、私を抱いて「お帰り」とだけ言ってくれました。
燃え尽きからの回復はたやすいものではありませんでした。時々それは暗いトンネルの中のぬかるんだ道のようでした。けれども、神様はいつも私のそばにいて、私を教え、私を引き上げ、そして微笑みながら道を照らし、希望を与えてくださったのです。

・Athlee Bowman:夫のMark師と共に、札幌で宣教師として仕える。開拓の働き、執筆、教師、そしてカフェCoEnの働きをする。二人の間には3人の成人した子供がいる。


 英語オリジナル記事:http://www.justbetweenus.org/pages/page.asp?page_id=124165



Copyright 2010 Athlee Bowman. Translated from Just Between Us, 777 S. Barker Road, Brookfield, WI 53045








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