2011/12/14

感謝までの道のり

~感謝についての3つの誤解とそこからの解放      Nancy Slack



空は冬らしい青色で、空気は塩っぽい匂いがしました。私たちは週末を海岸地方で過ごすために車で来ていましたが、 外の風景にもろくに気づかないという状態でした。

夫はアルカンサスに引っ越したいと思っていましたが、私はテキサスにとどまりたいと思っていました。引っ越しするべきかどうかについて、私たちは再度口論したところでした。

私は車のドアをバタンと閉め、海岸に向かって歩きました。
「神様、あなたは私たちを助けようとはなさらないのですか?」
私はそう言いながら護岸をよじ登り、ピクニックテーブルのあるところで立ち止まりました。この場所には見覚えがありました。

3か月前、私はこのテーブルの場所に座っていました。その時も、ある人との関係がうまくいっていなかったので、私は同じように祈っていました。その時には「もう絶望的だ。神様は助けて下さらないだろう」と思いました。

けれども、神様は助けて下さいました。小さな奇蹟がいくつも起こり、聖霊の介入があったことで、その人間関係は神様の力によって回復したのでした。私はテーブルのわきに腰を下ろし、両手で頭をかかえました。
「神様、ごめんなさい。あなたがこんなによくしてくださったのに、私はあなたに感謝さえささげませんでした。」

そして、感謝が足りないことで、私は人生により多くの問題を引き起こしていたのではないかと思いました。私は「何についても心配してはいけません。心配する代わりに、すべてのことについて祈りなさい。神にあなたの必要を話しなさい。神が答えてくださったことに感謝するのを忘れてはいけません(ピリピ4:6、TLB訳)」というみことばを思い出しました。

神に感謝するですって?そんな時間はありませんでした。その代わりに、私は新たに生じた問題について祈り始めました。間違いなく、私はとても心配症な人間でした。神様が中心ではなく、恐れが人生の中心でした。でも神様は、私が自分の必要を見つめるのではなく、神ご自身に焦点を合わせてほしいと願っておられました。感謝することがその秘訣でした。

けれども、感謝にあふれた人間になるのは予想以上に難しいことでした。まず感謝について誤解していたことを改めなければなりませんでした。


誤解1  感謝は重要ではない。 

自宅に帰ってから、私は自分が問題をどうとらえているかを考えました。

  1. 絶えず問題に焦点を合わせて祈っている。
  2. 神様がすぐにその問題を解決して下さらないと、腹を立てる。
  3. 神様が解決してくださった時には、その奇蹟を当然起こったことのようにとらえる。祈りと現実の生活との関わりを一切無視している。
  4. ただちに次の問題に目を向けてしまう。取りつかれたようにそれについて祈る。

牧師が神様に健康や雨や愛について感謝をささげて祈っていたのを、私は思い出しました。「そんなことで時間を無駄にしないで、もっと大事なことを祈ればいいのに。」と思いました。

大事なこと・・・。おそらく、それが私の問題の核心でした。私は感謝をささげることが重要だとは思っていなかったのです。祈りをまるでクリスマスの「欲しい物リスト」のようにとらえ、感謝を開封済みのプレゼントについているカード程度にしか考えていませんでした。

それは私がいつも必要ばかり感じて翻弄されていたからでした。私がしたいのは次のプレゼントを開封することだけで、すでにもらったものにありがとうということではなかったのです。

感謝することで、神様がこれまで助けてくださったことを思い出し、これから先も神様に信頼することができます。その日その日には祈りの答えを見ることはできないかもしれませんが、振り返った時にはっきりと、神様が私の人生に介入してくださった何千ものことを見ることができます。

これまで、感謝とは神様のためにするものだと思っていましたが、実は自分自身のためだったのです。信仰によって心配を感謝に変えるのです。つまり、問題に焦点を合わせないで、神ご自身に焦点を合わせるのです。


誤解2  感謝とは、問題が存在しないかのようにふるまうことだ。

転居するかどうか夫婦でもめていたのですが、とうとう決着がつきました。
アルカンサスに引っ越したのです。新たな視点で眺めると、神様が様々な方法で私たちを助けてくださったことがわかりました。前の家はスムーズに売れました。私の新しい仕事もやりがいのある楽しいものでした。同居人たちも引っ越してくれました。

それら全てに感謝すべきだとわかってはいましたが、梱包されたままの山積みの段ボールを見ると喉がしめつけられ、腹立たしい思いになりました。仕事は好きでしたが、やるべきことのリストを見ると涙がこぼれました。感謝する気持ちにはなれず、かえって圧倒されてしまう思いでした。

ある日車で通勤中、ピリピ4:6が心に浮かびました。今回は聖句の新しい部分に心がとまりました。パウロは「神にあなたの必要を話しなさい」と言ったのです。何も必要がないふりをしなさい、とは言いませんでした。神様は私が全ての問題に降参し、ゆだねることを望んでおられました。

私は、引っ越しに伴う問題はどれもたいしたことがない、と思い込もうとしていました。しかし、それは真実ではありませんでした。
神様は私に悲しみや怒り、混乱といった感情を無視してほしいとは思われませんでした。そうではなく、問題を神様にゆだね、それを神様が扱うようにされたかったのです。神様が私の全ての問題にかかわってくださることに感謝しました。


誤解3  感謝できるのは神が人生を楽にしてくれるか、喜ばせてくれた時だけだ。

私は、願いと感謝をどちらも祈りにしよう、と新しく決意をしました。毎朝、神様に心配ごとを全て注ぎだしました。そして、答えられた祈りを記録しました。すると、常に私の内面にあった心配が減ってきました。

ある日曜日、牧師が困難な状況でも感謝することについて語ってくれました。「外からの困難は良いことになりえます。神様は状況を用いて私たちを変革し成長させます。そしてキリストと一層深い関係を持つようにさせてくださいます」と。

それから数週間、私はそのことについて考えました。私は問題を通して自分の肉の力に頼ろうという思いが砕かれたけれど、その時感謝をささげたかしら?ほとんど感謝しませんでした。
神様が自分を助けてくれたとはっきりわかる時だけ、感謝していました。つまり、神様が人生を楽にしてくれるか、喜ばせてくれた時にだけ感謝していました。私は感謝の新しい形を学ばねばなりませんでした。すなわち、どんな境遇でもキリストに信頼させてくれるならば感謝する、ということでした。

問題がくると私は喜べず、感謝できないと思いました。腹立ちと恐れでいっぱいになりました。しかし、神様が私に「問題を楽しめ」と言っておられるのではないということがようやくわかりました。私はただ自分の意志をコントロールして感謝する、ということができたのです。

でもその瞬間、私の霊的な身体の骨が(もしあるなら)つぎ直されたのではないかと思います。この種の感謝というのは信仰による行いです。神様がどんなことでも、たとえそれがつらいことであっても、私たちが神により近づくためにそれを用いることができる力のある方なのだ、と信頼することでした。

転居について思い返すと、神様が人生の荒波を通して多くのよいことをしてくださったとわかります。
仕事で起こった問題は、私が自分自身に頼るということを強制的にやめさせてくれました。
テキサスの友人たちを思うと寂しくなりますが、孤独のおかげで、この地ですばらしい祈りのグループを得ました。それは夫と共に祈ることでした。共に祈ると、今まで経験したことのない霊的な親密さが生まれました。

最も大きな変化は私の祈りの生活でした。感謝できないのは私の霊的な病気でした。祈ってもゆだねるのではなく、むしろ焦りが強まっていました。
感謝しないことで私の不信仰な部分が広がり、将来への不安が生じ、神様に信頼することを妨げていました。神様は私に感謝を教えることでこの霊的な病気を癒してくださったのだと信じています。

感謝によって私たちは神様の愛と配慮に気づき、神様の備えの中で憩うことができます。感謝することで神様の本来のご性質をよく知り、従うことができるので、私たちは現実をもっとよく見ることができるのです。

「主に感謝せよ。主はまことにいつくしみ深い。その恵みはとこしえまで(詩篇107:1)。」

2011/09/01

楽しみを見出す

Learning to Have Fun - Learning to take the guilt out of having fun
シェリー・ウドルフ

 早速ですが、私の友人の迷いを想像してみてください。
 彼女の息子は外で遊んでいて、下の赤ちゃんは眠っています。さあ、静かな時間を楽しむべきではないでしょうか?息子と遊んでやらなければと思いつつも、今のうちに読書をするなり用事を片づけてしまうなりした方がよいのではないか、と思ったのです。

 でも、彼女は外に出て息子と思い切り遊ぶことにしました。後になって、当時を思い出しては息子たちは大笑いし、母親が一緒に遊んでくれたことをとても喜んでいたそうです。どの息子も思う存分遊んだことが思い出になっているというのは、彼女にとって嬉しいことでした。


 バセット犬の小犬がじゃれるのを見たことがあるなら、神様がユーモアのセンスをお持ちだとわかるでしょう。神様は、同じようにユーモアを持って子どものように遊ぶことが必要な存在として、私たちをおつくりになりました。

 悲しいことに、私たちはみな疲れ果てるまで働き続けてしまいます。「だって、遊ぶことだけを考えるのは罪悪感があるもの」と言う声が聞こえてきそうです。でも、もう少し生活の中で楽しみやユーモアを見出すことで、私たちは日々をさわやかに、そしてエネルギッシュに過ごすことができるのです。

 私の知人のほとんどは、もっと楽しい時を過ごしたいと思っているのに、楽しい計画を立てること自体がto-doリストを一つ増やすことになります。でも、それだけ努力する価値はあります。

 自宅や教会で女性のための「ゲーム・ナイト」を計画すると、いつもとても楽しみにしているという声を聞きます。参加する女性たちが一緒にゲームを楽しみます。そして楽しい夜をありがとう、と、何週間たっても感謝してくれるのです。どうしてそのような企画がもっと広がらないのかしら、といつも思います。

 たぶん、実際以上にとても手間がかかると思ってしまうからでしょう。あるいは、もしかするとパーティーが失敗し、少しも楽しめなかったらどうしようか、という不安があるのかもしれません。

 私もそうした思いはありますが、同時に周囲の人々が気分転換し、大笑いして楽しむ時が必要だとも感じています。ですから家族や友達のために企画を続けています。

いくつか好評だったアイデアを以下にご紹介します。

<友人向け>

 女性のゲームナイトに加え、私たち夫婦はよくカップル・ゲームナイトを開きます。そこにはさまざまな年齢や環境の人たちを招くようにしています。そして、必ず何人か外交的な人あるいは励ます賜物を持つ人を含めます。

 私には91歳の友人がいますが、彼女は常に周りに気を配ります。彼女は気さくで話しやすく、誰かといることそのものを楽しむ人なので、参加者皆が歓迎されていると感じ、楽しむことができます。

 ゲームナイトのようなパーティーをする目的は、近所の人や教会の人がリラックスし、楽しみ、お互いをよく知り合うことです。各家庭からスナックを持ってきてもらうことにしているので、食べ物の準備はきわめて簡単です。BalderdashやTaboo(盤ゲーム)、Gesturesゲームなどが好評です。もしカードゲームが好きならNertsがおすすめです。というのも5分で勝負がつき、何人でも参加し楽しめるからです。

 想像力を駆使してください。家族をデザートやクロケットに招いたり、庭でたき火のそばに座ってマシュマロを焼きクッキーと共に食べたり。娯楽とは、要は人々が楽しくリラックスできることをすることです。
 少人数でなら、3,4人の女性で散歩や展覧会に行くとか、公園で1時間おしゃべりするというのも楽しい休息になります。ほとんどの人は、誰かが自分のことを思って「わざわざ」何かに招いてくれた時、すでにわくわくした気持ちになります。

 先日一人の友人を映画に誘ったら、彼女は電話口で大喜びしてくれました。新しい経験を分かち合ったり、移り変わる日々の中でお互いがリラックスしてありのままでいられる時、友情は新鮮で深くなります。あなた自身のしたいことをちょっと思い浮かべ、そこに誰かを誘ってみてはどうでしょうか。

<家族向け>

 子ども達が幼かった時は、定期的に家族で遊ぶ時間を作っていました。公園に行ったり、一緒にゲームをしたりしました。ふわふわのボールをたくさん購入し、リビングルームで思い切り投げ合って遊んだこともあります。もし室内で遊ぶと家が壊れる、というなら、その家は子育てするには不適当ですね。

 現在息子たちは10代になりましたが、「必ず参加する家族の時間」を作っています。どんなに文句を言っても通用しません。一度試してみてください。
 どんな人も、家族でたった1時間遊ぶこともできないほど忙しくあるべきではありません。私たちはフリスビーゴルフに行ったり、山道を歩いたり、自転車でアイスクリームを食べに行ったりします。家族の少なくとも半分以上が楽しめるような活動を考えて実行してみてください。

<自分自身のために>
 
 あなたは本当は何をしたいですか。生活に何を付け加えたいですか。もしプライベートで楽しむ時間を持つのが難しいのなら、まず15分間でできることから始めてみましょう。
 楽しむためだけに何かをするのは、悪いことではありません。あなたの一番の友であるイエス様も、あなたが楽しむのを喜んでくださるでしょう。そして他の友達も皆、喜んでくれるでしょう。

 定期的に少しの時間をとって創造的なことをしたり、図書館に行って雑誌を読んだり、花壇の植え替えをしたりすれば、新たな力がわいてくるのを感じるでしょう。

 「(子どもは)よく学びよく遊べ」という古いことわざがあるでしょう。大人も同じです。わくわくする楽しみの時間を持つことは、日々勤勉に働くために大切なのです。お金や時間をかける必要はありません。自分自身に「楽しむ」というご褒美をあげましょう。
 


 ほとんどの人は楽しく遊んでよいと誰かが許可をくれたらと思っており、またどのように楽しめばよいか教えてほしいとも思っています。
 多くの人が、とりたてて理由がなくてもちょっとリラックスする自由がある、と感じていないのは悲しいことです。

 神様は私たちが重荷を下ろして楽しく生活することを願っておられると思います。日常生活の中で楽しむ時を持つのは少しの努力と選択がいるかもしれなせん。でもそうする価値はあります。

 教会でも、ちょっとした冗談と楽しい時が多くの人のためになるでしょう。友人や近所の人が私が自宅でくつろぎ笑顔でいるのを見たら、たとえ家が完璧に掃除されていなくても、きれいに飾られていなくても、ずっと居心地がよいと私は確信しています。

 企画やゲームが初めてのものや不得意なものである時、たとえ勝てなくても、あるいはきちんとやり方どおりにできなくても、とにかく「遊ぶ」のは楽しいことだと私たちは知るのです。

 神様はとても多くのよいものを私たちにくださいました。それを楽しむべきではないでしょうか?たとえ90歳になっても、人生に楽しみは尽きないと私は信じています。年齢を重ねても「楽しみがたくさんあってうれしいわ」と言いたいと思いませんか?

2011/05/10

身体のいやしよりも大切なもの Something Greater Than Healing

ジョニー・エリクソン・タダが苦しみと神様の主権の不思議について語る













 ジョニー・エリクソン・タダは「現代のヨブ」と呼ぶにふさわしい人物かもしれません。彼女は17歳の時、ダイビングの事故で両手両足の自由を失いました。この10年間は絶えず体に痛みを覚え、そして60歳になった今(2010年)、乳がんの宣告を受けました。




 6月に手術を受けて後、彼女は新刊「いやしの場:苦しみ、痛みと神様の主権の不思議(A Place of Healing: Wrestling with the Mysteries of Suffering, Pain, and God’s Sovereignty)」について前向きに確信を持って語りました。そこには苦しみにあうことと神の存在をどうとらえればよいか、彼女の考えが書かれています。


――乳がんの宣告を受けてから、苦しみや癒しについて、あなたの考えに何か変化はありましたか?

ジョニー: 感謝なことに、全く変化はありません。聖書を開けて、いやしに関する聖句を探すことがあるでしょう。私は四肢まひになった時にそうしました。また10年前に体がたえず痛むようになった時にも再びそうしました。乳がんと診断された時にも全く同じ聖句を開きました。神の言葉は何一つ変わっていませんでした。


 いやしに関する聖句はたくさんありますが、私はずっと第一ペテロ2:21が心にとまっています。



「あなたがたが召されたのは、実にそのためです。キリストも、あなたがたのために苦しみを受け、その足跡に従うようにと、あなたがたに模範を残されました」。



 ある意味、私はこの乳がんを通してでさえ、キリストがより近く感じられるようになったのです。主のご性質について1年前、あるいは半年前にはわからなかったことがありました。だから、私は今もなお成長と変革の途上にあるのだなあと思います。第一ペテロ2:21の聖句は、神様の目的を知りたいと思いつつ試練を通っているすべてのクリスチャンへの確かな約束です。


――主のご性質についてどのようなことが新しくわかったのか、詳しく話してくださいますか?

ジョニー: イエス様はヨハネ14章で「わたしを信じる者は、わたしの行なうわざを行ない、またそれよりもさらに大きなわざを行ないます」と言われました。私たちはまるでイエス様が「さあ、私のした奇蹟をみてごらん!いつかあなたたちもこれ以上の奇蹟を行うようになるよ」とおっしゃったのかな、と考えがちです。

 けれども、イエス様は必ずしも奇蹟について話されたわけではありません。イエス様は福音を宣べ伝え、神の国を拡大されたのです。この世がまさに神のものだと宣言されたのです。

 ヨハネ14章の約束を下さったとき、イエスは「あなたがすべきことを教えてあげよう。父なる神と私は福音が宣べ伝えられるように願っている。だからあなたがそのわざをするために必要なものは何でも与えると約束しよう。あなたは、私がしたよりもさらに大きな働きができるだろう」と言ってくださったのです。

 イエス様は3年間宣教をされましたが、地上での生涯を終えられる時には、信仰の弱い10人ほどの弟子しかいませんでした。復活後昇天され、聖霊を送ってくださいました。すると、驚いたことにあのペテロが一回説教をしただけで、何千人もの人が信じたのです。それこそが、神様が私たちに望んでおられる「さらに大きなわざ」なのです。


 同じことを私はこのひと月の間に体験しました。レントゲン技師、看護師、医師の秘書、医療スタッフなど、放射線治療やMRI検査で非常に多くの人達との出会いがありましたが、そのすべての人たちがキリストを求めて渇いておられたのです。

 どんな人にもキリストが必要だということは前からわかっていましたが、今回診断を受けてみてそのことを特に感じます。人々は「乳がんになったのに、それを許した神様にどうしてそんなに信頼していられるのですか」と 尋ねるので、とても驚いています。そして、私にはそれに対して答える機会が与えられているのです。
 大きなわざとは奇蹟のことではなくて、福音が拡大することであり、神の国が与えられたことであり、何がキリストのものであるかを宣言することなのです。




――それは「なぜ神がよい方なら、この世に苦しみがあるのだろうか」という古典的な問いに対する答えのヒントとなりますね。新しく出された本では神様の支配についてどのように表現されたのですか?
ジョニー: 私も疑問を持ちましたし、人々も同じ問いを持ちます。


 でも、その時私たちはこの世界が患難のうちにしばられているという事実を受け入れていないのだと思います。 この世が堕落しているからこそひどい苦しみがあるのであり、この世はひどい悪の支配のうちにあってうめいているのだということを覚える必要があります。



 もし正しい神が罪を取り除かれるなら、それはすなわち罪人を滅ぼすことを意味します。でも神は忍耐強く恵みに満ちた方であられるので、苦しみをあえてそのままにしておいてくださるのです。もっと多くの人がキリストとの交わりに入るまでは、神様は苦しみを取り除いてしまわれないのです。

 私にとってはこれが納得できる答えですし、他の方もこう考えれば納得がいくのではないかと思います。


 「この世の苦しみは人類の罪ゆえである。もし神が苦しみを取り除こうとされるなら、人類の罪を取り除かなければならず、それはすなわち罪人を滅ぼし尽くすということである。けれども神様はあまりにもあわれみ深い方なので、それをしないでおられる」と。


――もし苦しみの原因が人間以外にあるなら異なりますか?たとえば、自分でなりたくて乳がんになったわけではありませんね。ある人が故意に害を加えるのとは扱いが違うのでしょうか。


ジョニー: いいえ、乳がんに関しても、自分で予防することはできました。私がもし5年前にマンモグラムを撮っていれば発見できたでしょう。自分以外のだれの責任でもありません。レストランでの受動喫煙のせいにすることもできません。マンモグラムを撮るべきだったのに、撮らなかったのです。


 自分がそれを怠ったことについては後悔しています。(もし何か言うべきなら「マンモグラムを撮りましょう」と言いたいです。)

 試練が自分自身の怠惰から生じても、悪い人から直接受けたことによるものでも、あるいは自分の無知や誤った決断によって生じても、不注意や過失によっても、また自然災害によるものであっても、これらは神様の絶対的な支配の下で起こったことです。


 新約聖書をよく読むと、神様の主権はこれらすべてに及んでいることがわかります。神様はたとえご自身が望んでおられないことであっても、それが起こるのをあえて許しておられるのです。


 神様は私の脊髄損傷というケガやガンを望んではおられませんが、絶対的なご支配の下でそれを許されたのです。「許された」「認められた」「運命づけられた」とどんな言葉で表現してもかまいませんが、皆同じことです。最終的には神様の支配のもとにあるというところに行き着くのです。ですから、それほど違いがあるとは思いません。

 試練は辛く悲しいものです。辛さや悲しみと切り離すことはできません。

 もちろん、神様は苦しみを与えないでおくこともおできになったでしょう。泥棒が侵入し盗むことも防げますし、悪人が銃を発射しないようにもできますし、私をガンにならせないでおくこともできたでしょう。また、私の心に「マンモグラムに行きなさい」と命じることもできたでしょう。
 

 でももし神様がこれらのことが起こるのをお許しになったとしても、それは神様が人を無視しているとかどうでもよいと思われているとかいうことにはなりません。永遠に至るまでのこの地上では、神様の意思と目的、そして支配のあり方はもう少し理解を越えものた、不思議なものなのかもしれません。


――乳がんの宣告を受けたとき、あなたの反応はこれまでのさまざまな苦しみの経験とは異なっていましたか?

ジョニー: 感情的には落ち込みませんでした。腫瘍がある、それならば治療しようじゃないか、と思いました。首の骨を折りましたが、これはどういうことか、よし、まじめに向き合って歩んでいこう、と思いました。


 私は否定的な感情によって絶望してしまいたくない性格なんです。絶望はとても深い沼地に落ち込むようなものです。それよりは、私は全力で人生に向き合い、起こることをそのまま受け入れ、そこから学んでさらに前進したいのです。


――苦しみのある生活の中で、どのようにいやしを祈ったらよいのでしょうか?

ジョニー: 「長老のところに行き、油を塗ってもらい、罪を告白する」という聖書のことばに従うことが大切だと思います。もし特別な祈り会に参加する必要を感じたら、ぜひそうしてください。牧師に油を塗って手を置いてもらってください。それから、その人の人生を歩み続けなければなりません。

 私が最初のケガをしたときもそうでした。罪を告白して油を塗ってもらいました。手足のいやしのためにみことばをいただこうと、ただじっとしていますか?そう願いながらも人生を歩み続けなければなりません。もし導かれるなら癒しを祈り求められたらよいと思いますが、癒しを願いつつも日々生きていかなければなりません。


――もし生きていくことに視点を合わせるとしても、クリスチャンとして将来の試練や死に備えるべきではないのでしょうか。

ジョニー: 快適さを追求する文化の中では、死にどう備えたらよいのかだれもわかりません。

 けれども死への備えは日々すべきものです。一日一日、私たちは何千もの死を経ているのです。病気を宣告されたり心停止から蘇生したりするだけが死の陰の谷を歩んでいるというわけではないのです。


 自己中心的な欲望に「ノー」という時はいつも、私たちは死の陰の谷を歩んでいるのです。神様の恵みに「イエス」と言う時、私たちは死ぬとはどういうことかを学んでいるのです。

 この前の週末、私は友人と賛美歌を歌っていました。私の好きな歌の一つに「偉大なる主よ、私を導きたまえ(Guide Me, O Thou Great Jehovah)」がありますが、用いていた賛美歌集の中の歌詞が変わっていました。死についての歌詞が変更されていたのです。


「死や地獄の滅びから、私をカナンの地へ導きたまえ(Death of death and hell’s destruction, land me safe on Canaan’s side.)」というとても深い真理を表現した歌詞が


「私を助けてください、かなたまで(Help me through until the other side.)」

という曖昧な表現に代わっていました。「死」や「地獄の滅び」という言葉が省かれていたのです。


 どうしてそんな変更をしたのかしら、と思いました。私たちは日々どのように死ぬかを学ぶ必要があるのに。
 苦しみによって私たちは死ぬことを学びます。苦しみは私たちに死への準備をさせてくれるのです。毎晩眠ることも、やがてこの地上で永遠に目を閉じ、永遠の世界で目を覚ます日に備えてのリハーサルです。



――あなたが苦しみを理解する上で特に助けになるイエス様の教えは何ですか?

ジョニー: マタイ18章の中で、イエス様が

「もし、あなたの手か足の一つがあなたをつまずかせるなら、それを切って捨てなさい。・・・また、もし、あなたの一方の目が、あなたをつまずかせるなら、それをえぐり出して捨てなさい」


と言われた部分です。


 イエス様は喜んで手の不自由な人を癒し、歩けなかった人の足を歩けるようにし、目の見えなかった人を見えるようにされた方ですが、ここではもし罪を犯させるのならあなたの手を切って捨てなさい、目をえぐり出しなさい、と言われました。イエス様は、肉体的なことも大切ですが、魂の健康はより重要だ、という優先順位を強調されました。

 癒しについて尋ねられますが、私は肉体的な癒しよりも自分の心の癒しにより関心があります。

 どうぞ、私が神のことばや祈りに対して怠惰にならないように、また無用なプライドを捨て去ることができるように、自己中心から解放されるように祈ってください。それらはより重要なことです。なぜなら、イエス様が心の問題がより重要だと考えられたのですから。










    JBU2010冬号より クリスチャニティ・トゥディ誌(2010年)からの抜粋記事
 



Copyright 2011 Sarah Pulliam Bailey. Translated from Just Between Us, 777 S. Barker Road, Brookfield, WI 53045 

2011/03/09

整理の行き届いた暮らし Uncluttered Life

  ~ごちゃごちゃの日々から解放されるには

クリスティーヌ・フーヴァー
 我が家のキッチンには、小さな机があります。息子たちの通学かばんからは図工の作品、証明書、図書館で借りた本、遠足のプリント・・・等々が出てきて、机の上に積まれます。
 夕方、夫が帰ってくると、仕事関係の書類がその上に加わります。けれども、実は、机に積まれているもののほとんどは私のものです。雑誌から切り抜いたレシピ、請求書、図書館から借りたままの本、・・・そして紙の切れ端に書いたTo-doリストやメモはその中で行方不明になっています。ちょうど、私の生活のすべてがその机の上に置かれているようです。私はどちらかといえば整理好きな方ですが、その机を片づけるのはどうも苦手です。


 ある時、その机は私の人生の縮図なのだと気付きました。大切なメモやTo-doリストが目立つようにきちんと整理しようとするのですが、なかなか片付かないのです。


整理された暮らし

 私たち女性は忙しいスケジュールで過ごしています。時間がいくらあっても足りず、周囲からの要求はきりがありません。毎日走りまわってあれこれと用事をこなすのはたやすいのですが、一体自分がどこを走っているのか、そもそもなぜ走っているのかを忘れてしまいます。キッチンの机のように、私たちの暮らしも散らかって手がつけられなくなり、燃え尽きたり宣教に疲れ果てたりしてしまいます。神様が与えた優先順位を知り、それを維持するためには、いつも「整理された」暮らしが必要です。


「整理できない人々」から学ぶこと

 「整理できない人々」の様子を聞くと、我が家の部屋の片隅や吹き溜まりをぜひとも掃除したいという思いになります。物理的にも感情的にも、がらくたでいっぱいの家族は、優先順位を見極めることができません。自分たちにとって何が重要かを判断できなくなっているのです。彼らは専門家に依頼して家を片付けてもらいますが、その手順から私たちも「主の働きにおいて『整理できない人』」にならないために学ぶことができます。


1.何を持つべきか

 スケジュールがいっぱいになり過ぎると、自分が何者であり、神様が特に何に召してくださったのかを見失ってしまいがちです。焦点を絞らずより多くのことにかかわれば、自分がより重要な人物となり、より大きな影響力を持ち、主のために大きな働きができると思い込んでしまうのです。けれども、それでは忙しすぎて神様の御声を聴けず、何をしてもうまくいかない「栄光ある『整理できない人』」になってしまいます。

 もし、私たちがいくつかの限られた分野に情熱を傾ける女性だったら?もしそれらに集中して、霊的な賜物を成長させ、主のために素晴らしく用いたら?神様は私たちをもっと的を得た効果的な用い方がおできになるでしょうし、同時に私たちも全ての人の全ての必要に応えなければ、という責任感から解放されるでしょう。自分の召しと情熱を自覚していたら、それに伴って予定表も、To-doリストも、誰と過ごすかも、何を考えるべきかも定まってきます。

 もしあなたが何を続けるべきかわからないのなら、以下の問いに答えてみてください。
・そもそも、神様があなたを宣教の働きに召されたのはなぜですか。
・神様はあなたをどんな分野の働きに召しておられますか。
・あなたは何をするのが好きですか。
・あなたの賜物は何ですか。あなたの予定表や仕事のリストは、それを反映したものになっていますか。

2.何を処分すべきか

 クローゼットを整理すると、使っていないけれど、処分したりあげたりしたくないという物が大抵いくつか出てきます。思い出があったり、あるいは将来使うかもしれないと思ったりするのですが、実際に使うことは滅多にありません。そして次に整理する頃には、たいていごみになっているのです。

 奉仕していて神様が私たちをどう用いたいのかを見分けるのは、整理にたとえれば難しい部類には入りません。難しいのは、思い入れのある働きや仕事からどう手を引くか、なのです。「私がしなければ、だれがこれをするの?」「これは私の賜物ではないけれど、この賜物があればなあと思っていたからやり続けるの」と私たちは考えます。

 こうした考えは暮らしを整理する上でやっかいです。つまり、神様が与えた働きに満足していないから、自分のしたいと思うことに固執しているか、あるいは神様が働きを支えてくださると信頼していないから、このように考えてしまうのです。


 夫と私は現在開拓3年目です。前任の教会では、私は今とはずいぶん違った働きをしていました。以前は大人数の女性を教えたりリードしたりしていました。でも今は個人的な弟子訓練、夕食の交わり、個人カウンセリング、日曜朝の会話、教会学校など、個別の関わりが増えました。以前のように華やかな働きではないので、神様がこのような働きに私を入れられたことに反発し、私のプライドは傷つきました。

 別の時には、全てが私にかかっている気がして責任を負いすぎていました。全ての新来者に対して一人一人声をかけなければならない、全ての働きがうまくいっているか確認するために全てにかかわらなければならない、などです。でも神様はⅠコリント3:6の種まく人の原則を思い出させてくださいました。「 私が植えて、アポロが水を注ぎました。しかし、成長させたのは神です。」

 私たちは全てに召されているわけではありません。全てのこと、全ての人に対して召されているのではないのです。また、誰かの働きや賜物を真似るようにも召されていません。自分自身への期待から解放され、神様が召したところで用いてくださると信じられるなら、ちょうど「すっきりしたクローゼット」のような自由を味わうでしょう。


3.何を譲るべきか

 ようやく整理を終えた人が、再び散らからないようにするにはどうしたらよいでしょうか。やみくもに買い物やコレクションをする代わりに、必要なものとただ欲しいもの、値打ちのある物とない物、よい物と最善の物の違いを学ぶことです。

 神様の優先順位に基づいて与えられた機会を吟味し、今しない方がよいことにはノーと言うことで、私たちも宣教の働きを整理された状態に保つことができます。他人が代わることのできない家庭や宣教の働きがいくつかある一方で、賜物がないまま続けているだけだったり、誰かに任せたりできることも多くあるのです。

 「霊的でない」と感じられるかもしれませんが、宣教において他の人に任せることは重要なことです。使6:1~4にあるように、人々の必要が多くなり、主から与えられた祈りとみことばの働きが後回しになりかねない時、初代教会の使徒たちも他の人に多くの働きを任せました。私たちも、どの働きが不可欠で、どの働きは賜物のある他の人に任せられるかを見分けて、使徒たちに倣わなければなりません。

 開拓伝道の働きでは、神様が与えたこと以外にもいろいろしたいという大きな誘惑がやってきます。開拓だけでなく、どんな宣教の働きであっても、すべき働き以外のことはいろいろあるはずです。ほぼ毎日のように、私は神様が与えてくださった優先順位を思い出す必要があります。それは私にとっては忠実な弟子、愛情に満ちた妻、目標を持った母、家庭の良き管理者、教会に仕えるしもべ、の順です。これらに従順であれば、神様は私の家庭、人間関係、教会、地域において実際に働いてくださるのです。




Christine Hoover(クリスティーヌ・フーヴァー):
開拓伝道の傍ら、フリーランスのライターでもある。彼女と夫の間には3人の男の子がいる。ヴァージニア州シャーロットヴィル在住。ブログ hooverhousehold.blogspot.com 主宰。
 
Copyright 2011 Christine Hoover. Translated from Just Between Us, 777 S. Barker Road, Brookfield, WI 53045