2011/05/10

身体のいやしよりも大切なもの Something Greater Than Healing

ジョニー・エリクソン・タダが苦しみと神様の主権の不思議について語る













 ジョニー・エリクソン・タダは「現代のヨブ」と呼ぶにふさわしい人物かもしれません。彼女は17歳の時、ダイビングの事故で両手両足の自由を失いました。この10年間は絶えず体に痛みを覚え、そして60歳になった今(2010年)、乳がんの宣告を受けました。




 6月に手術を受けて後、彼女は新刊「いやしの場:苦しみ、痛みと神様の主権の不思議(A Place of Healing: Wrestling with the Mysteries of Suffering, Pain, and God’s Sovereignty)」について前向きに確信を持って語りました。そこには苦しみにあうことと神の存在をどうとらえればよいか、彼女の考えが書かれています。



――乳がんの宣告を受けてから、苦しみや癒しについて、あなたの考えに何か変化はありましたか?


ジョニー: 感謝なことに、全く変化はありません。聖書を開けて、いやしに関する聖句を探すことがあるでしょう。私は四肢まひになった時にそうしました。また10年前に体がたえず痛むようになった時にも再びそうしました。乳がんと診断された時にも全く同じ聖句を開きました。神の言葉は何一つ変わっていませんでした。


 いやしに関する聖句はたくさんありますが、私はずっと第一ペテロ2:21が心にとまっています。



「あなたがたが召されたのは、実にそのためです。キリストも、あなたがたのために苦しみを受け、その足跡に従うようにと、あなたがたに模範を残されました」。



 ある意味、私はこの乳がんを通してでさえ、キリストがより近く感じられるようになったのです。主のご性質について1年前、あるいは半年前にはわからなかったことがありました。だから、私は今もなお成長と変革の途上にあるのだなあと思います。第一ペテロ2:21の聖句は、神様の目的を知りたいと思いつつ試練を通っているすべてのクリスチャンへの確かな約束です。


――主のご性質についてどのようなことが新しくわかったのか、詳しく話してくださいますか?

ジョニー: イエス様はヨハネ14章で「わたしを信じる者は、わたしの行なうわざを行ない、またそれよりもさらに大きなわざを行ないます」と言われました。私たちはまるでイエス様が「さあ、私のした奇蹟をみてごらん!いつかあなたたちもこれ以上の奇蹟を行うようになるよ」とおっしゃったのかな、と考えがちです。

 けれども、イエス様は必ずしも奇蹟について話されたわけではありません。イエス様は福音を宣べ伝え、神の国を拡大されたのです。この世がまさに神のものだと宣言されたのです。

 ヨハネ14章の約束を下さったとき、イエスは「あなたがすべきことを教えてあげよう。父なる神と私は福音が宣べ伝えられるように願っている。だからあなたがそのわざをするために必要なものは何でも与えると約束しよう。あなたは、私がしたよりもさらに大きな働きができるだろう」と言ってくださったのです。

 イエス様は3年間宣教をされましたが、地上での生涯を終えられる時には、信仰の弱い10人ほどの弟子しかいませんでした。復活後昇天され、聖霊を送ってくださいました。すると、驚いたことにあのペテロが一回説教をしただけで、何千人もの人が信じたのです。それこそが、神様が私たちに望んでおられる「さらに大きなわざ」なのです。


 同じことを私はこのひと月の間に体験しました。レントゲン技師、看護師、医師の秘書、医療スタッフなど、放射線治療やMRI検査で非常に多くの人達との出会いがありましたが、そのすべての人たちがキリストを求めて渇いておられたのです。

 どんな人にもキリストが必要だということは前からわかっていましたが、今回診断を受けてみてそのことを特に感じます。人々は「乳がんになったのに、それを許した神様にどうしてそんなに信頼していられるのですか」と 尋ねるので、とても驚いています。そして、私にはそれに対して答える機会が与えられているのです。
 大きなわざとは奇蹟のことではなくて、福音が拡大することであり、神の国が与えられたことであり、何がキリストのものであるかを宣言することなのです。




――それは「なぜ神がよい方なら、この世に苦しみがあるのだろうか」という古典的な問いに対する答えのヒントとなりますね。新しく出された本では神様の支配についてどのように表現されたのですか?

ジョニー: 私も疑問を持ちましたし、人々も同じ問いを持ちます。


 でも、その時私たちはこの世界が患難のうちにしばられているという事実を受け入れていないのだと思います。 この世が堕落しているからこそひどい苦しみがあるのであり、この世はひどい悪の支配のうちにあってうめいているのだということを覚える必要があります。



 もし正しい神が罪を取り除かれるなら、それはすなわち罪人を滅ぼすことを意味します。でも神は忍耐強く恵みに満ちた方であられるので、苦しみをあえてそのままにしておいてくださるのです。もっと多くの人がキリストとの交わりに入るまでは、神様は苦しみを取り除いてしまわれないのです。

 私にとってはこれが納得できる答えですし、他の方もこう考えれば納得がいくのではないかと思います。


 「この世の苦しみは人類の罪ゆえである。もし神が苦しみを取り除こうとされるなら、人類の罪を取り除かなければならず、それはすなわち罪人を滅ぼし尽くすということである。けれども神様はあまりにもあわれみ深い方なので、それをしないでおられる」と。


――もし苦しみの原因が人間以外にあるなら異なりますか?たとえば、自分でなりたくて乳がんになったわけではありませんね。ある人が故意に害を加えるのとは扱いが違うのでしょうか。


ジョニー: いいえ、乳がんに関しても、自分で予防することはできました。私がもし5年前にマンモグラムを撮っていれば発見できたでしょう。自分以外のだれの責任でもありません。レストランでの受動喫煙のせいにすることもできません。マンモグラムを撮るべきだったのに、撮らなかったのです。


 自分がそれを怠ったことについては後悔しています。(もし何か言うべきなら「マンモグラムを撮りましょう」と言いたいです。)

 試練が自分自身の怠惰から生じても、悪い人から直接受けたことによるものでも、あるいは自分の無知や誤った決断によって生じても、不注意や過失によっても、また自然災害によるものであっても、これらは神様の絶対的な支配の下で起こったことです。


 新約聖書をよく読むと、神様の主権はこれらすべてに及んでいることがわかります。神様はたとえご自身が望んでおられないことであっても、それが起こるのをあえて許しておられるのです。


 神様は私の脊髄損傷というケガやガンを望んではおられませんが、絶対的なご支配の下でそれを許されたのです。「許された」「認められた」「運命づけられた」とどんな言葉で表現してもかまいませんが、皆同じことです。最終的には神様の支配のもとにあるというところに行き着くのです。ですから、それほど違いがあるとは思いません。

 試練は辛く悲しいものです。辛さや悲しみと切り離すことはできません。

 もちろん、神様は苦しみを与えないでおくこともおできになったでしょう。泥棒が侵入し盗むことも防げますし、悪人が銃を発射しないようにもできますし、私をガンにならせないでおくこともできたでしょう。また、私の心に「マンモグラムに行きなさい」と命じることもできたでしょう。
 

 でももし神様がこれらのことが起こるのをお許しになったとしても、それは神様が人を無視しているとかどうでもよいと思われているとかいうことにはなりません。永遠に至るまでのこの地上では、神様の意思と目的、そして支配のあり方はもう少し理解を越えものた、不思議なものなのかもしれません。


――乳がんの宣告を受けたとき、あなたの反応はこれまでのさまざまな苦しみの経験とは異なっていましたか?

ジョニー: 感情的には落ち込みませんでした。腫瘍がある、それならば治療しようじゃないか、と思いました。首の骨を折りましたが、これはどういうことか、よし、まじめに向き合って歩んでいこう、と思いました。


 私は否定的な感情によって絶望してしまいたくない性格なんです。絶望はとても深い沼地に落ち込むようなものです。それよりは、私は全力で人生に向き合い、起こることをそのまま受け入れ、そこから学んでさらに前進したいのです。


――苦しみのある生活の中で、どのようにいやしを祈ったらよいのでしょうか?

ジョニー: 「長老のところに行き、油を塗ってもらい、罪を告白する」という聖書のことばに従うことが大切だと思います。もし特別な祈り会に参加する必要を感じたら、ぜひそうしてください。牧師に油を塗って手を置いてもらってください。それから、その人の人生を歩み続けなければなりません。

 私が最初のケガをしたときもそうでした。罪を告白して油を塗ってもらいました。手足のいやしのためにみことばをいただこうと、ただじっとしていますか?そう願いながらも人生を歩み続けなければなりません。もし導かれるなら癒しを祈り求められたらよいと思いますが、癒しを願いつつも日々生きていかなければなりません。


――もし生きていくことに視点を合わせるとしても、クリスチャンとして将来の試練や死に備えるべきではないのでしょうか。

ジョニー: 快適さを追求する文化の中では、死にどう備えたらよいのかだれもわかりません。

 けれども死への備えは日々すべきものです。一日一日、私たちは何千もの死を経ているのです。病気を宣告されたり心停止から蘇生したりするだけが死の陰の谷を歩んでいるというわけではないのです。


 自己中心的な欲望に「ノー」という時はいつも、私たちは死の陰の谷を歩んでいるのです。神様の恵みに「イエス」と言う時、私たちは死ぬとはどういうことかを学んでいるのです。

 この前の週末、私は友人と賛美歌を歌っていました。私の好きな歌の一つに「偉大なる主よ、私を導きたまえ(Guide Me, O Thou Great Jehovah)」がありますが、用いていた賛美歌集の中の歌詞が変わっていました。死についての歌詞が変更されていたのです。


「死や地獄の滅びから、私をカナンの地へ導きたまえ(Death of death and hell’s destruction, land me safe on Canaan’s side.)」というとても深い真理を表現した歌詞が


「私を助けてください、かなたまで(Help me through until the other side.)」

という曖昧な表現に代わっていました。「死」や「地獄の滅び」という言葉が省かれていたのです。


 どうしてそんな変更をしたのかしら、と思いました。私たちは日々どのように死ぬかを学ぶ必要があるのに。
 苦しみによって私たちは死ぬことを学びます。苦しみは私たちに死への準備をさせてくれるのです。毎晩眠ることも、やがてこの地上で永遠に目を閉じ、永遠の世界で目を覚ます日に備えてのリハーサルです。



――あなたが苦しみを理解する上で特に助けになるイエス様の教えは何ですか?

ジョニー: マタイ18章の中で、イエス様が

「もし、あなたの手か足の一つがあなたをつまずかせるなら、それを切って捨てなさい。・・・また、もし、あなたの一方の目が、あなたをつまずかせるなら、それをえぐり出して捨てなさい」


と言われた部分です。


 イエス様は喜んで手の不自由な人を癒し、歩けなかった人の足を歩けるようにし、目の見えなかった人を見えるようにされた方ですが、ここではもし罪を犯させるのならあなたの手を切って捨てなさい、目をえぐり出しなさい、と言われました。イエス様は、肉体的なことも大切ですが、魂の健康はより重要だ、という優先順位を強調されました。

 癒しについて尋ねられますが、私は肉体的な癒しよりも自分の心の癒しにより関心があります。

 どうぞ、私が神のことばや祈りに対して怠惰にならないように、また無用なプライドを捨て去ることができるように、自己中心から解放されるように祈ってください。それらはより重要なことです。なぜなら、イエス様が心の問題がより重要だと考えられたのですから。










    JBU2010冬号より クリスチャニティ・トゥディ誌(2010年)からの抜粋記事 




Copyright 2011 Sarah Pulliam Bailey. Translated from Just Between Us, 777 S. Barker Road, Brookfield, WI 53045 

0 件のコメント:

コメントを投稿