感謝までの道のり

~感謝についての3つの誤解とそこからの解放      Nancy Slack



空は冬らしい青色で、空気は塩っぽい匂いがしました。私たちは週末を海岸地方で過ごすために車で来ていましたが、 外の風景にもろくに気づかないという状態でした。

夫はアルカンサスに引っ越したいと思っていましたが、私はテキサスにとどまりたいと思っていました。引っ越しするべきかどうかについて、私たちは再度口論したところでした。

私は車のドアをバタンと閉め、海岸に向かって歩きました。
「神様、あなたは私たちを助けようとはなさらないのですか?」
私はそう言いながら護岸をよじ登り、ピクニックテーブルのあるところで立ち止まりました。この場所には見覚えがありました。

3か月前、私はこのテーブルの場所に座っていました。その時も、ある人との関係がうまくいっていなかったので、私は同じように祈っていました。その時には「もう絶望的だ。神様は助けて下さらないだろう」と思いました。

けれども、神様は助けて下さいました。小さな奇蹟がいくつも起こり、聖霊の介入があったことで、その人間関係は神様の力によって回復したのでした。私はテーブルのわきに腰を下ろし、両手で頭をかかえました。
「神様、ごめんなさい。あなたがこんなによくしてくださったのに、私はあなたに感謝さえささげませんでした。」

そして、感謝が足りないことで、私は人生により多くの問題を引き起こしていたのではないかと思いました。私は「何についても心配してはいけません。心配する代わりに、すべてのことについて祈りなさい。神にあなたの必要を話しなさい。神が答えてくださったことに感謝するのを忘れてはいけません(ピリピ4:6、TLB訳)」というみことばを思い出しました。

神に感謝するですって?そんな時間はありませんでした。その代わりに、私は新たに生じた問題について祈り始めました。間違いなく、私はとても心配症な人間でした。神様が中心ではなく、恐れが人生の中心でした。でも神様は、私が自分の必要を見つめるのではなく、神ご自身に焦点を合わせてほしいと願っておられました。感謝することがその秘訣でした。

けれども、感謝にあふれた人間になるのは予想以上に難しいことでした。まず感謝について誤解していたことを改めなければなりませんでした。


誤解1  感謝は重要ではない。 

自宅に帰ってから、私は自分が問題をどうとらえているかを考えました。

  1. 絶えず問題に焦点を合わせて祈っている。
  2. 神様がすぐにその問題を解決して下さらないと、腹を立てる。
  3. 神様が解決してくださった時には、その奇蹟を当然起こったことのようにとらえる。祈りと現実の生活との関わりを一切無視している。
  4. ただちに次の問題に目を向けてしまう。取りつかれたようにそれについて祈る。

牧師が神様に健康や雨や愛について感謝をささげて祈っていたのを、私は思い出しました。「そんなことで時間を無駄にしないで、もっと大事なことを祈ればいいのに。」と思いました。

大事なこと・・・。おそらく、それが私の問題の核心でした。私は感謝をささげることが重要だとは思っていなかったのです。祈りをまるでクリスマスの「欲しい物リスト」のようにとらえ、感謝を開封済みのプレゼントについているカード程度にしか考えていませんでした。

それは私がいつも必要ばかり感じて翻弄されていたからでした。私がしたいのは次のプレゼントを開封することだけで、すでにもらったものにありがとうということではなかったのです。

感謝することで、神様がこれまで助けてくださったことを思い出し、これから先も神様に信頼することができます。その日その日には祈りの答えを見ることはできないかもしれませんが、振り返った時にはっきりと、神様が私の人生に介入してくださった何千ものことを見ることができます。

これまで、感謝とは神様のためにするものだと思っていましたが、実は自分自身のためだったのです。信仰によって心配を感謝に変えるのです。つまり、問題に焦点を合わせないで、神ご自身に焦点を合わせるのです。


誤解2  感謝とは、問題が存在しないかのようにふるまうことだ。

転居するかどうか夫婦でもめていたのですが、とうとう決着がつきました。
アルカンサスに引っ越したのです。新たな視点で眺めると、神様が様々な方法で私たちを助けてくださったことがわかりました。前の家はスムーズに売れました。私の新しい仕事もやりがいのある楽しいものでした。同居人たちも引っ越してくれました。

それら全てに感謝すべきだとわかってはいましたが、梱包されたままの山積みの段ボールを見ると喉がしめつけられ、腹立たしい思いになりました。仕事は好きでしたが、やるべきことのリストを見ると涙がこぼれました。感謝する気持ちにはなれず、かえって圧倒されてしまう思いでした。

ある日車で通勤中、ピリピ4:6が心に浮かびました。今回は聖句の新しい部分に心がとまりました。パウロは「神にあなたの必要を話しなさい」と言ったのです。何も必要がないふりをしなさい、とは言いませんでした。神様は私が全ての問題に降参し、ゆだねることを望んでおられました。

私は、引っ越しに伴う問題はどれもたいしたことがない、と思い込もうとしていました。しかし、それは真実ではありませんでした。
神様は私に悲しみや怒り、混乱といった感情を無視してほしいとは思われませんでした。そうではなく、問題を神様にゆだね、それを神様が扱うようにされたかったのです。神様が私の全ての問題にかかわってくださることに感謝しました。


誤解3  感謝できるのは神が人生を楽にしてくれるか、喜ばせてくれた時だけだ。

私は、願いと感謝をどちらも祈りにしよう、と新しく決意をしました。毎朝、神様に心配ごとを全て注ぎだしました。そして、答えられた祈りを記録しました。すると、常に私の内面にあった心配が減ってきました。

ある日曜日、牧師が困難な状況でも感謝することについて語ってくれました。「外からの困難は良いことになりえます。神様は状況を用いて私たちを変革し成長させます。そしてキリストと一層深い関係を持つようにさせてくださいます」と。

それから数週間、私はそのことについて考えました。私は問題を通して自分の肉の力に頼ろうという思いが砕かれたけれど、その時感謝をささげたかしら?ほとんど感謝しませんでした。
神様が自分を助けてくれたとはっきりわかる時だけ、感謝していました。つまり、神様が人生を楽にしてくれるか、喜ばせてくれた時にだけ感謝していました。私は感謝の新しい形を学ばねばなりませんでした。すなわち、どんな境遇でもキリストに信頼させてくれるならば感謝する、ということでした。

問題がくると私は喜べず、感謝できないと思いました。腹立ちと恐れでいっぱいになりました。しかし、神様が私に「問題を楽しめ」と言っておられるのではないということがようやくわかりました。私はただ自分の意志をコントロールして感謝する、ということができたのです。

でもその瞬間、私の霊的な身体の骨が(もしあるなら)つぎ直されたのではないかと思います。この種の感謝というのは信仰による行いです。神様がどんなことでも、たとえそれがつらいことであっても、私たちが神により近づくためにそれを用いることができる力のある方なのだ、と信頼することでした。

転居について思い返すと、神様が人生の荒波を通して多くのよいことをしてくださったとわかります。
仕事で起こった問題は、私が自分自身に頼るということを強制的にやめさせてくれました。
テキサスの友人たちを思うと寂しくなりますが、孤独のおかげで、この地ですばらしい祈りのグループを得ました。それは夫と共に祈ることでした。共に祈ると、今まで経験したことのない霊的な親密さが生まれました。

最も大きな変化は私の祈りの生活でした。感謝できないのは私の霊的な病気でした。祈ってもゆだねるのではなく、むしろ焦りが強まっていました。
感謝しないことで私の不信仰な部分が広がり、将来への不安が生じ、神様に信頼することを妨げていました。神様は私に感謝を教えることでこの霊的な病気を癒してくださったのだと信じています。

感謝によって私たちは神様の愛と配慮に気づき、神様の備えの中で憩うことができます。感謝することで神様の本来のご性質をよく知り、従うことができるので、私たちは現実をもっとよく見ることができるのです。

「主に感謝せよ。主はまことにいつくしみ深い。その恵みはとこしえまで(詩篇107:1)。」


筆者夫妻はアルカンサス北部在住。

JBU2011冬号より
Copyright 2011 Nancy Slack. Translated from Just Between Us, 777 S. Barker Road, Brookfield, WI 53045 

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