2013/08/21

荒野を通る経験①

                              ~砂漠でしか学べないこととは~

 
 
Liz Rhodebeck
 
 
 
 
 
 


 砂漠で休暇を楽しむのが理想的だ、という人はおそらくいないでしょう。
もっとも砂漠といっても、人工的に作られたラスベガスのような場所に遊びに行くとか、仕事があるというなら、行く人がいるでしょうが・・・。
一般的にはゆっくりとリラックスできるグランドキャニオンや森林とは違い、風景やキャンプを楽しむために砂漠に行く人はいません。
しかしながら、聖書的な視点から言うと、砂漠で過ごすことには意味があるのです。

いくつかの例をあげましょう。バプテスマのヨハネは成人期をユダヤの荒野でメッセージを語って過ごしました(マタ3:1-6、ルカ1:80、3:1-6、マコ1:1-6)。
イエスはバプテスマを受けてから、ひと月以上荒野におられました(マコ1:12-13、ルカ4:1-2、マタ4:1-2)。
使徒パウロは改心後、アラビヤの砂漠で3年間を過ごしました(ガラ1:17-18)。
神の民は世代が入れ替わるまで、荒野をさまよいました(出エジプト記)。

なぜ砂漠なのでしょう?
その目的はなんだったのでしょうか。


砂漠とは、他者と切り離されて孤独になり、神と顔と顔を合わせて向き合う場所です。
聖書学者の中には、パウロは荒野で神ご自身から福音理解を与えられた、と考える人もいます。
他の弟子が教えたというよりは、使徒の務めに必要な資質は主と向き合うことで備わった、というのです。

イエスは公生涯に入る前に、砂漠で試みを受けました。これは準備の時であり、ここで父なる神のみこころをよりはっきりと確信するに至ったのでしょう。天使が来て仕えたとはいっても、イエスはサタンの誘惑に人間としても立ち向かわねばなりませんでした。


では今日、私たちが砂漠に行くのにはどんな意味があるのでしょうか。
砂漠に行くことは、日々のデボーションや毎週の集会に行く以上の意味を持ちます。
1日1章を読む、とか、セミナーに参加する以上のことなのです。
それは神の前に、私たちの人生がどうであるかを詳しく点検する時です。
邪魔や雑用、クリスチャンはこうあるべきという思い込みから離れる時なのです。
それは緑に囲まれた静かですてきな場所に行く以上のことなのです。


それでは、砂漠でしか学べないこととは何でしょうか?(続く)






JBU2013 夏号より    Copyright 2013 Liz Rhodebeck. . Translated from Just Between Us, 777 S. Barker Road, Brookfield, WI 53045

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