2010/09/16

困難の中でも信頼する

Trusting through Trouble

神様は、悪い状況からもよいものを与えてくださる方です。
あなたはどこまで主に信頼していますか?

ジル・ブリスコー

 人生の嵐にあって困難な状況に陥ったとき、方向転換をしなければならないことがあります。暗くつらい期間を、どんな気持ちで受け入れたらよいのでしょうか。歯をくいしばり嵐が去るのをじっと待つこともできます。でも、悪い状況からでも神様が何か良いものを与えてくださる、と信頼することもできるのです。
 エリザベス・エリオットはこれを「行動の助走となる信頼」とよびました。彼女は「あきらめ」と「受容」の違いをわかりやすく説明しています。確かに両者には違いがあります。それどころか、彼女はそれ以上のものだということを知っていたに違いありません!

困難の中でも前向きに行動する
 エリザベスは4人の妻たちと無線受信機のそばで待っていました。プロペラ機で原住民の居住地に着陸した夫たちからの連絡を待っていたのです。この若い夫婦たちは、エクアドルのアウカ族に福音を伝えるためにやってきました。夫たちからの連絡が何もないので捜索隊が入りましたが、やがて恐ろしい事実が明らかになりました。若い宣教師の夫たちは川の中で発見されました。彼らは原住民の毒やりによって殺されていたのです。

 この恐ろしい事件はエリザベスの計画の中にはありませんでした!彼女の周りの世界すべてが崩れ落ちました。

 彼女は選択をせまられました。幼い娘を連れ、この地を去って故郷に帰ることもできるし、あるいは「主よ、あなたはこの状況をどのように用いられるのですか」と主に尋ねることもできました。
 エリザベスは悪いことの中にも神がよきことをしてくださる、と信頼することを選びました。そして行動を起こしました。自分の幼い娘を連れ、ラケルと共に、彼女はジャングルに入りました。そして夫ジムやラケルの兄弟ネイトを殺した部族を見つけました。彼女たちは歓迎され、原住民の領地の中に住んでもよいと許しを得ました。やがて聖書が翻訳され、福音が伝えられると、部族の多くの人々がキリストを信じました。後に、ネイトの娘キャシーは自分の父が殺されたのと同じ川で洗礼を受けました。まさに、神様は特別な状況をお用いになったのです。

 神様に信頼すると私たちの心には希望が与えられます。どんなにひどい状況でも、そこに何か計画がある、と。この信頼は、神がこの世を支配しておられ、究極のご計画をもって「永遠」という視点で見ておられるという、ゆるぎない霊的な確信なのです。私たち自身は神様にどのように信頼できるでしょうか。状況ををよくしてほしい、災難を取り去ってほしい、愛する者が死んでしまったのでよみがえらせてほしい、不実な夫を家に帰らせてほしい・・・。神様はそうされることもありますが、時にはそうされないこともあります。けれども、神様のみわざにはちゃんとご計画があるのです。

神を新たに知る
 まず、私たちは神に信頼することで、神様について新たに知ることができます。
 ヨハネ11章にはラザロとマルタ・マリヤ姉妹の話が出てきます。彼らはイエス様の親しい友人でした。ある日ラザロは病気になりました。イエス様は遠い地で忙しく教えておられました。ラザロの容態が悪くなったので、マリヤとマルタはイエス様のところに使いを送ることにしました。ラザロのことを聞いたとき、弟子たちはきっとイエス様がすぐにラザロのところに行かれるだろうと思いました。だって、イエス様がどれほどラザロを愛しておられるか知っていましたから。二人の姉妹も、イエス様はきっとすぐ来てくださるだろうと期待していました。しかし、イエス様は不可解な行動をとられました。おられた場所に、さらに数日間滞在されたのです。ラザロが死ぬかもしれないのに、なぜそうされたのか、誰にもわかりませんでした。
 
 イエス様は「この病気は死で終わるだけのものではなく、神の栄光のためのものです。神の子がそれによって栄光を受けるためです(ヨハネ11:4)」と言われました。この時、単にラザロが病気になったというだけでなく、さらに大きな神の計画が背後にあったのです。ラザロがとうとう死んでしまうと、皆どういうことだろうかと思いました・・・イエス様を除いては。イエス様はご自身が何をしているかを常にご存知でした。ですから、ご自身の親友や弟子たちがどういうことを学ぼうとしているかをちゃんと知っておられました。まさしく、彼らは神様について新たなことを学びました!

 イエス様がようやくベタニヤに到着したのは、ラザロが死んで4日後でした。姉妹たちは「なぜすぐ来てくださらなかったのですか」と言いました。マルタとマリヤは「主よ。もしここにいてくださったなら、私の兄弟は死ななかったでしょうに(ヨハネ11:21、32)」と抗議したのでした。間違いなく、この抗議は正しいものでした。しかしイエス様は、ご自身が単に偉大ないやし主であるというだけでなく、ご自身が「よみがえりでありいのちである」ということを彼女たちに教えたかったのです。ですから、証人たちの前で死んで4日もたっていた彼をよみがえらせたのです。すばらしい神様の栄光が現れたのでした!

 この経験を通して、イエス様と親しかった人たちは重要なことを学びました。同じように、私たちの差し迫った必要に応えてくださらなくて神様が理解できないように思えることがあっても、それは私たちに重要なことを学ばせてくださるためだといえるのです。この出来事の後、ラザロはヨブと同じように「神が私を殺しても、私は神を待ち望」む(ヨブ13:15)と言ったことでしょう。
 つまり、神様が私たちに知ってほしいと思われるのは、神様がよりはっきりと見えることの方がはるかにまさっている、ということなのです。ヨブは、「私はあなたのうわさを耳で聞いていました。しかし、今、この目であなたを見ました(ヨブ42:5)」と言いました。私は、痛みを通ると神様の「サイズ」に私自身の焦点を合わせ直すようになります。神様の偉大さ、力、全能・・・そして、今まで以上に御心に沿って重荷をゆだね、何が起こっても神様はすべてご存知だ、と信頼するようになります。
 痛みというテーマでは、ジョニー・エリクソン・タダを除いては語れません。17歳のとき、彼女は湖に飛び込んで首の骨を折り、首から下が麻痺してしまいました。でも、後にジョニーは「私は体が麻痺したことで神様に近づけたし、自分の足で100年歩けるとしても引き換えにしたくない、霊的な癒しを受けました」と語っています。
 
 何年も前ですが、ジョニーはミルウォーキーでの講演依頼を受けました。私はホールまで彼女に付き添うという特権にあずかりました。ホテルで多くのビジネスマンと共にエレベーターを待ちました。ジョニーは賢明な女性でした。
 エレベーターの中の人は皆沈黙していたので、私はジョニーにどんなテーマで語るつもりかと尋ねました。「恵みについてです。その歌も歌おうと思っています」とジョニーが言うと、何人かが彼女を見ました。そして、ジョニーは実際に歌い始めたのです!周りの人たちの反応をビデオに撮っておきたかったくらいでした。エレベーターの中で、多くの人が涙を流しました。ジョニーは人々に神様がどれほど恵み深いかを歌を通して伝えました。
 神様に対する彼女の信頼は、健康な足で歩ける人たちの心を打ったのです。ジョニーは神様が足よりももっとすばらしいものを自分の心にくださったと言いたかったのでした。神様はジョニーを決して一人にせず、見捨てることもしない天のお父様なのです。

 我が家の子供がまだ小さかった頃、当時6歳だったデービッドが腕をけがしました。かかりつけの医師に連絡して行くと、医師はレントゲンの予約をとると言いました。デービッドは金曜日にけがをしたのですが、医師は病院の検査は月曜日でも大丈夫だと言ったのです。夫はデービッドに、月曜日はレントゲン検査に行くから、学校を休んで家にいていいよ、と話しました。

 週末が終わり、予約の時間が近づいたので、夫のステュアートはデービッドにそろそろ行く時間だよ、と言いました。デービッドは車に乗るのがとてもいやそうでした。道中、夫がちらっと見ると、デービットは青白い顔をしてふるえていました。できる限り落ち着いた声で、「デービッド、何も怖いことはないんだよ。ただレントゲンをとるだけだよ。お父さんがずっとそばについていてあげるからね」と夫は言いました。息子は「何も怖くない、なんて言わないで。ぼく、どうやって死刑をするか知ってるんだから。」と答えました。(訳注:X-ray(レントゲン)とexecution(死刑執行))

 夫と私はショックを受けました。子供がそんな想像をしながら3日間待ち続けていたとは!彼がそんなことを思い浮かべたというのは驚きでした。だから「神が私を殺しても、私は神を待ち望む」と言いながら車に乗ったのでした。段取りをしたのは彼の父親でした。それはともかく、父親は一瞬たりとも彼のそばを離れない、と約束していたのでした。それはまるで、私たちが天のお父様に信頼を置くのと同じでした。

自分自身を新たに知る
 困難の中で神様に信頼すると、神の新たな面を知ると同時に、自分自身についても新たな面を知ります。信頼することを学ぶ(それは信頼せざるを得ないことがあってはじめて可能ですが)なら、自分自身もどれだけ成長し成熟していかなければならないかを知ります。自分の信仰のレベルを悟るのです。
 私が子供の頃に第二次世界大戦がありました。父は家族を連れてイングランドの湖水地方に引っ越しました。特に、恐ろしい空からの攻撃を受けたので、なるべく爆撃地から遠いところに避難することにしました。父は小さくても頑丈なクルーザーを購入し、新しい地で適当な住まいが見つかるまでクルーザーを住まいとして家族の安全を確保してくれました。私たちは早起きをして、向こう岸で素早く水浴びをし、朝食をとって学校へ通いました。

 冬になり、湖に薄くはった氷を割った時のことは忘れられません。どれほど水が冷たいか頭でわかっていても、どんなに覚悟を決めていたとしても、実際に水に飛び込むと何の役にもたちませんでした。同じように、起こりうる試練について自分では万全の備えをしたと思っていても、現実の経験には役に立たないのです。それはちょうど氷のはった水に飛び込むようなものです。自分では十分な犠牲を払って備えをし、ちゃんと対処できるに違いないと思っています。けれどもいざ水に入ると、びっくりして叫んでしまいます。そんな自分自身の姿に驚くでしょうが、そこで新たな自分の一面を発見するのです。

 痛みは本当に辛いものです。身体からは実際に血が出ます。辛い出来事はトラウマとなります。最善の心積もりをすることはできますが、理解を越えたところに置かれると、自分自身の真の姿を発見し、そして信頼できるお方はどなたであるかを発見するのです。



英語オリジナル記事:http://www.justbetweenus.org/pages/page.asp?page_id=73336



Copyright 2010 Jill Briscoe. Translated from Just Between Us, 777 S. Barker Road, Brookfield, WI 53045

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