2010/09/14

嫉妬に打ちかつ

Overcoming the Green-Eyed Monster


 Marlyn DeFoggi
                                

 私は若い頃、宣教に伴って問題が起こるということを知りませんでした。私の伯母は海外宣教集会で講師を務めていましたが、いつも帰ってきてはすばらしかったと話していました。

 ところがある日、私は伯母と父が話しているのを立ち聞きしてしまいました。伯母が宣教師のための集会に到着したところ、参加者たちが暗い表情をしており、魂が渇いているのを感じたということでした。でも伯母が話し出すと、キリストの臨在が部屋を包みました。参加者たちは涙を流し、互いに赦しあったということでした。一致への思いが戻ってきて、集会は霊的にとても祝福されたということでした。伯母の話は私を驚かせ、また混乱させました。クリスチャンなのに、どうしていざこざが起こるのかしら。


 現在の私は、もっと客観的に宣教の働きを見ることができるようになりました。異なる視点を持つ人々が一緒に働くのだから、意見の相違はやむをえないことだともわかっています。でも時にはそれが争いになり、人間関係における罪を生じさせてしまうこともあるのです。

 では、そうした状況が起こったとき、どうすればよいのでしょうか。キリストに共に仕える者の間に、嫉妬と意見の不一致から愛のない言葉や行いが生じたとき、どのように解決を見出すことができるでしょう。また、心の中に比較する思いや妬みが大きくなってくるとき、どうしたらよいのでしょうか。

 パウロはこのような難しさをよく理解していました。ルカ、テモテ、テトス達は彼のそばで忠実に仕えていましたが、関係が壊れてしまった人もいました。デマスは彼を捨て(Ⅱテモ4:9)、銅細工人のアレキサンダーはパウロの言葉に激しく逆らいました(Ⅱテモ4:14-15)。教会あての手紙の中で、パウロは何度もクリスチャンたちが争わず、互いに愛し合うよう、「同じ愛の心を持ち、心を合わせ、志を一つにしてください」(ピリ2:2)と勧めています。

 最近私は、自分ではなく他の人だけが認められる経験をしました。その時突然、私の心には妬みがわきあがりました。とてもつらかったです。その感情があまりにも強かったので、部屋を出て静かなところで自分の心を探ってから、再びもどらなければなりませんでした。この思いはどこから来るのだろうか、と考えました。なぜ、こんなに傷つき、拒絶されたように感じるのかしら。その痛みをたどっていくと、主は心の中にある妬みの根を示してくださいました。


不安を明らかにすること
 妬みは自分自身に満足できないことが原因で、多くの場合他人への嫉妬となって現れます。私は癒しへのプロセスをたどり始めました。それは、妬みの根となっている不安を明らかにし、自分自身が神の前に価値あるものであることを確認し、主が私の人生に特別な召しを与えてくださっているということを思うことでした。簡単なプロセスではありませんでしたが、時間をかけじっくり考える価値はありました。

 「リーダーの賜物を与えられて(Gifted to Lead, Zondervan, 2008)」という本の中で、著者のナンシー・ビーチ(Nancy Beach)は多くの女性が葛藤する嫉妬についてこう述べています。

 「私たちは、自分の弱い分野で最も嫉妬を感じやすいのです。女性リーダーたちがもし自分のアイデンティティーや召しに確信が持てないならば、自分を守るために他の人を引き下げることがありうるでしょう。」

 あなたは誰に嫉妬を感じますか。自分よりも学歴が高かったり、社会的な成功をおさめたりしている人に対してかもしれません。広い家に住み、子供は模範的で、やさしい夫を持つ人に対してかもしれません。あるいは、経済的に豊かな人に対してかもしれません。心を探り、罪深い思いを告白することができますか。豊かな実を結ぶために、霊的・感情的な変革を求めてつらいプロセスに向き合う用意ができていますか?


 Dan Allender と Tremper Longmanは、共著「魂の叫び(The Cry of the Soul)」の中で自分の感情を観察する必要性について述べています。

 「自分の感情を無視することは、現実に背を向けるようなものです。逆に自分の感情に向き合うことは、現実に向き合うことです。私たちは現実の中で神様に出会います。感情とは魂の言葉ですが、その言葉である否認、ゆがんだ認知、逃避といった言葉を私たちはしばしば聞き逃しています。自分の内面を守るために、邪魔なものには目を向けないのです。意識するのが怖く、恥ずかしいことだと考えるのです。そして、神の前に正直にありのままで出ていけば変化が始まる、ということを忘れています。」


 ある人は、フラストレーションや激しい怒りを抑え込んでいます。聖霊が恵みにより覆ってくださるようにとは祈りますが、内面の不安を探っていただく必要を見過ごしているのです。

 変化の鍵は、「主を知ることを切に求める」ことです。主の臨在の前に立つなら、心の中の罪深い思いが、神様との距離をもたらしていると気づくでしょう。神との親密な歩み以上に大切なものはありません。イザヤのように、私たちは自分の罪深さを認める必要があります。罪が自分のうちにあることを認め、それを光のもとに持ってくるのです。「ああ、私はもうだめだ」(イザ6:5)と叫ばなければならないのです。自分をさらけ出し、悔い改め、神の前にひれふすなら、それが変革と新たな歩みの始まりになるのです。


神の前に自分の価値を再確認する
 神の愛を改めて体験すると、他者より優れていなければ、認められなければ、ほめられなければ、といった思いから自由になります。私たちのアイデンティティーは、私たちの行為・功績にはよらず、父なる神様との愛の関係に根ざすものとなるのです。他の人からよく思われるような能力を見せなければ、という思いがなくなります。

 放蕩息子の話で、兄には弟を軽んじ父には不満を持つ、という対人関係の問題があるとわかります(ルカ15章)。父は弟の帰宅を祝う宴会に兄にも出てほしいと言いますが、兄は頑なに拒みます。父は兄が理解していない深い真理を述べます。「おまえはいつも私といっしょにいる。私のものは、全部おまえのものだ」と。同じように、父なる神の心に太い字であなたの名前が書かれていること、神が無条件にあなたを愛していること、「奉仕する」より「共にいる」関係を望んでおられることを知ったなら、感情的・霊的な変革を体験するでしょう。

 神が太った子牛一頭だけでなく、丘にあるもの全てを所有しておられるとわかれば、愛に執着するのをやめ、他の人を思いやるようになります。父は私たちが霊的な宴会に参加し、両手を広げて恵みに満ちた人生を受け取るのを望んでおられるのです。

神から与えられたユニークな召しを知る
 弱さに働く父なる神の愛を再発見したら、私たちは自分に与えられたユニークな力を大切にできます。そして私たちのうちに、あるいは私たちを通して働かれる神の特別な働きを感謝しつつ歩むようになります。謙遜に仕えるだけでなく、「あなたがたのうちに良い働きを始められた方は、それを完成させてくださる(ピリ1:6)」という確信を持って仕えるのです。人に認められなければ、というプレッシャーから解放されるのです。代わりに、明確なビジョンを持ち、ユニークな召しに向かって力強く歩むのです。

 嫉妬に打ち勝つ最もすばらしい方法のひとつは、宣教に携わる女性たちの成功をともに喜び、神の国の拡大に向けて協力することです。ナンシー・ビーチは「女性のリーダーとして、教会の中で協力しないでいることは困難です。主にある姉妹を信頼し尊敬すれば、理解し、協力し、支え、共に挑戦し、励ましあうことができるのです」と述べています。

 人間関係の罪は神の働きと神の民を破壊します。私たちは問題の根を知り、聖霊に導かれて、感情面でも健全にならねばなりません。神の力によって、私たちは実りある働きをし、他の人がキリストを見るための道を整えるのです。
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Copyright 2009 Marlyn DeFoggi. Translated from Just Between Us, 777 S. Barker Road, Brookfield, WI 53045.

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