2010/09/14

失敗は終わりではない

the God of second chances
I Ate the Cookie!



~「クッキー」を食べてしまっても~                    
ジル・ブリスコー
              
                  
告白します。・・・私はクッキーを自分だけで食べてしまいました。自分の値うちが下がったように感じました



自分の価値が下がったと感じたことはありませんか?あるいは自分の度量が狭いと感じたり、恥じ入ったりしませんか?「私はクリスチャンなのに、どうしてあんなことを、あんな失敗を、あんな言葉を、あんな考え方を、してしまったのかしら」ということはありませんか?

もちろん、自分が言ったことや思ったこと、あるいは自分が言わなかったことや思わなかったことだけではなく、他の人の言葉や思いによって自分の価値が下がってしまうこともあるでしょう。人があなたのことを引き下げたなら、たとえそれが真実でないとわかってはいても、やはり落ち込むでしょう。傷つくでしょう。

辞書によると、「値うちが下がる、けなす(diminishing)」とは「減じる、あるいはより低い価値しか認めないこと」とあります。大きくする、成長する、価値が増すという言葉の反対です。

人々はあなたの値うちを引き下げることができます。日々の暮らしの中でも引き下げられることがあります。否定的なメッセージを聞いていると自分で自分をけなしてしまいます。悪魔こそ、人を引き下げる名人です。人をけなすためには方法を選びません。どんな人でも、どんなことでも利用するのです。

ある人の価値がこの世で得たもの、成し遂げたことによって評価されることがあります。住んでいる家の大きさや、食べているものや装い、時には地下室の設備がどの程度か、などで判断されてしまうのです。

数ヶ月前のこと、教会に向かう車内で、私はハドソン川に不時着した飛行機のニュースを聞いていました。パイロットの的確な判断で、全員が無事でした。現実の出来事での、パイロットのすばらしい操縦技術が伝えられる合間に、ガザの停戦のニュースが流れていました。しばらくの間、戦闘がやむということでした。しかし、続いてアフリカで起こった残虐行為と、アフガニスタン駐留中の米軍が危険にさらされているニュースが伝えられました。誰かが自分の命をねらっている時には、自分の価値が非常に引き下げられたと感じられるに違いありません。

ラジオからは音楽が流れてきました。「地下室の設備が貧弱だと、あなたの価値が下がるように感じませんか?」という歌声が流れてきました。本当に大切なことに比べたらこれは明らかに重要でないと思えますが、ある人にとっては自宅の、あるいは隣人の地下室が貧弱だと、まさしく自分の価値が引き下げられたように思えるのです。ささいなことで自分が低く見られると感じるのは愚かなことかもしれませんが、もしあなたが何らかのものによって左右されたり、物質的な成功があなたの自己価値に反映されたりするなら、それが何であれ決してささいなことではありません。

悪魔は地下室などどうでもよいのです。世界で起こる戦争や大事件などどうでもよいのです。悪魔はただ、あなたが自尊心を失い、神様があなたを見ておられるように自分自身を見られないようにすることに関心があります。悪魔にそうさせてはいけません。聖書は悪魔を「兄弟たちの告発者(黙12:10)」と呼んでいます。

悪魔は私達を引き下げるために存在するのです!彼こそ、まさしく「引き下げる者」です。悪魔は殺人者です。神様が私たちに与えた固有の価値や尊厳を殺すのです。また自分自身を見る目や神様とその尊さを見る目をも失わせます。神様が私達に怒っておられ、私達に失望しておられると考えたり、神様が私達のことをかけがえのない、罪赦された子供であると考えるほどに自分のことを価値がないと思ったりするなら、私達も神様ご自身を引き下げているのです。神様は私達は価値あるものだよ、と肯定しておられるのに、サタンは何とか引き下げようとしているのです。

キリストは「あなたのために私は来て、探し、救い、復活したのだ。あなたはそれほど価値があるのだよ」とおっしゃいます。「私が内に住むくらい、価値があるのだよ。私はあなたの人生を共に生きたいのだ。ここにいたいのだよ。あなたは私の全てなのだ。かけがえのない、価値ある存在なのだ。私が赦し、共に住み、賜物を与え、私の計画と目的に従って用いるほどに、あなたには価値がある。」と言ってくださいます(詩篇139篇を毎日、一週間続けて読んでみてください。きっとよくわかります)。

けれども、実際に失敗をしてしまったり他者の非難や批判を受けるようなことをしてしまったりする時、頭では理解していても、そのことを信じない限りはあまり意味がないでしょう。自分を軽蔑した人や、そうさせてしまった自分や、その他目に入るものを何でも責めてしまうのです。


どうしてあんなことをしたり言ったりしてしまったのだろう、と自分でも信じられないことがあります。そして私たちは自尊心を失ってしまいます。自分には価値がないと思います。何かに挑戦し成長して、御名が広くあがめられるようにしよう、そして私達もよい意味で自信を持とう、という気持ちを失ってしまうのです。あるいは、「どうせ私はこんなものだから仕方ない」と自分で納得してしまうのです。

神様は私達が神の目に覚えられ愛されていることを知ってほしい、祝福したいと思っておられます。実際、神様は私達をご自身の喜びとしておられます。もちろん、私達のさまざまな罪は喜ばれませんが、たとえ何もできなくても、そんな私達そのものを喜びとしてくださいます。神様は「完全に失敗したわけではないよ」とおっしゃいます。神様からの、静かな、細い励ましの声を信じるべきです。

パウロは批判された時、「私にとっては、あなたがたによる判定、あるいは、およそ人間による判決を受けることは、非常に小さなことです。事実、私は自分で自分をさばくことさえしません(1コリ4:3)」と述べました。私達を評価されるのは神様であり、神様は心の動機や願いをご存知なのです。


テロのあった9月11日、私は飛行機に乗っていました。シベリアから帰宅する途中でした。しかし、飛行機はアメリカには着かず、ニューファンドランド(カナダ東端)に着陸し、そこに6日間も止まったままでした。着陸の際、何時間も機内で待たされました。長時間何も食べていなかったので、乗客はみな空腹でした。地上に移動しても、食事は何時間も先になるだろうと言われました。滑走路で待機している間、私は「神様、信じがたいこの状況で私を用いてください、恐れとトラウマを持つ人々の助けにならせてください」と祈っていました。

時差のため、時折乗客たちのいびきが聴こえてきました。その時突然、私は自分がヒースロー空港でクッキーを買ったことを思い出しました。すぐに気高い考えが浮かびました。このクッキーを隣の医師に分けようか、それとも通路をはさんだ席で泣いている高齢の女性と分けようか、あるいは前のかわいい子供たちとにしようか。おそらく、かなりの犠牲を払ってでも気前よく実行したなら、キリストについて語るチャンスが得られたと思います。ところが、全く違う声が聖霊の促しを遮るようにささやきました。「皆が眠るまで待って、こっそりクッキーを食べればいいじゃないか。」心の中で戦いが始まりました。選択は私次第でした。自分のこととは言え、信じられませんでした。世界的な慈善活動に携わり、講演をし、犠牲的な愛とイエスの生き方にならうようにと本を書いている者であるにもかかわらず、私は自分一人でクッキーを食べようと、一生懸命に思案していたのです!


心の中で非常に葛藤しました。そして・・・私はクッキーを食べてしまいました。ええ、全部を!最後の一枚を飲みこむと同時に、罪悪感がやってきました。続いて恥ずかしさも。まさしく、自分の値うちが下がった感じでした。数分前と比べると、確実に自分がちっぽけな者になったように感じられました。全部食べてしまったことは、自分でも信じられませんでした。でももう元にもどすことはできません。食べ終えてしまったのですから。

あなたは「クッキーを食べてしまった」ような経験がありますか?とても落ちこみますね。9月11日に、私は神様とそのクッキーについて真剣に語り合いました。私がごめんなさい、と言うと、神様は「もういいよ、さあもう一度やり直そう。私の子供たちにとって、失敗は終わりではないのだから。」と言ってくださいました。そんな惨めなことがあった後、ニューファンドランドのガンダーにある救世軍の建物の中で、神様は私に少しはましなことができるようにとさらに6日間を与えてくださいました。「まあ、よかった」と思うでしょう。その通り!だから私はイエス様が大好きなのです。だって私達がやり直せるよう、別の時を与えてくださるのですから。時には6日間も!


クッキーの例は、私達はいつも正しいことをする代わりに間違ったことをしてしまうことを象徴しています。他の人から言葉や態度で見下げられた時、私達は「クッキーを食べてしまう」のです。また、私達が娘、息子、祖父母、父母、友、リーダー、グループの一員として常に失敗しうることをも表しています。私達はだれでも、失敗を繰り返します。なぜなら、この堕落した世界に生きる罪人なのですから。けれども、周囲から失敗者と決めつけられるのをそのまま受け入れてはいけません。審判できるのはただ一人、主ご自身のみなのです。そして、主は私達のために死んでくださった方です。神様が審判者であり、神様だけが私達の心をご存知なのです。「私にとっては、あなたがたによる判定、あるいは、およそ人間による判決を受けることは、非常に小さなことです(1コリ4:3)」他の人がそれとなく私達を非難し軽蔑するとき(たとえ私達が確かに誤っている時があったにせよ)、神様に聞くなら、神様は私達の心に愛と肯定の言葉を静かに語ってくださいます。

たとえあなたが「クッキーを食べてしまった」としても、あるいはあなたを責める人がだれかいたとしても、あなたが自分自身を責めたとしても、愛する主にとどまり続けてください。私達は自分の「クッキーを食べてしまう」かもしれませんが、やがてそれを用いて何かをすることができるのだということを覚えてください。私達は働きをなしとげて、「よくやった、忠実な(「成功した」ではなく)しもべよ」という声を聞くのです。自分のことを、神様が思っておられるイメージ以下に引き下げてはなりません。御国に入る日には、そんなことは二度としないでしょう。その日が待ち遠しいですね。ハレルヤ!



*今日自分のことをどのように感じていますか。どんな種類の「クッキー」を食べてしまったとしても、神様があなたをどれほど価値あるものとして見てくださっているかを心にとめてください。この世で食べてしまったどんな「クッキー」にも、神様は回復を与えてくださいます。もし今度自分には価値がないように感じたら、「兄弟たちの告発者」であるサタンにすでに勝利された方にゆだねてください。

ジル・ブリスコー(Jill Briscoe)は Just Between Usの編集責任者。また、World Relief や Christianity Todayの理事もつとめる。世界各国で講演活動・説教を行う。夫のステュアートとの間には3人の成人した子供と13人の孫がいる。


Copyright 2009 jill Briscoe. Translated from Just Between Us, 777 S. Barker Road, Brookfield, WI 53045

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