Kate Motaung

働きの経験豊かな人ばかりなのに、私はほんのアマチュアでした。参加していたのは牧師夫人か女性の働き人でした。・・・
私は宣教に携わる女性のための週末リトリートに来ていました。でも、本当のところは、自分が来たかったのかどうかもわかりませんでした。
各セッションの後、それぞれがテーマに関して小グループでの分かち合いをしました。話し合う中で、私は自分だけが悩んでいるのではない、と知って驚きました。
「教会で私が何をしているのか、と尋ねられるのがこわいんです。」
「皆が私を批判しているみたいに感じます。だって、私はこの働きには力が不十分なのですから。」
驚いたことに、リトリートの間、こうした言葉があちこちで聞かれました。
私自身もよく似た思いを抱いていましたが、そんなことを考えているのは自分だけだろう、と思っていました。
私は思いました。
「どうして、私たちの多くは自分が不十分だと感じるのだろうか?
どうして、私たちの多くがこの働きをする能力がないと感じるのだろうか?
どうして、私たちの多くは自分の働きについて、他の人から評価されるのを恐れるのだろうか?」
セッションの中で、みことばを通して、この不適格だという思いへの適用が直接的に語られ、心に深くとどまりました。リトリートに参加して、私はいくつかの原則に心を打たれました。
フルタイムの働き人かどうかにかかわらず、私たちに必要な能力は自分ではなく、神ご自身から与えられること、そして、それは私たちの問題ではなく、神ご自身に関することだ、ということを改めて確認し、励まされたのです。
必要な能力は神からくる
宣教の働きにおいて陥りがちな思いは、私たちが何か資格や認証を得れば働きが進んでいくのでは、と思うところにあります。
ここから生じる危険は、私たちが自分のしたことについての成功や失敗を気にし始めてしまう、ということです。
宣教の働きに必要な力は神おひとりから与えられるものだ、という事実を受け入れるなら、私たちは働きの成功は自分にかかっている、という思いから解放されるのです。
神おひとりだけが私たちをふさわしく整えてくださいます。自分の自信ではなく神を信頼することを学ぶなら、神だけが栄光をお受けになります。そして、他の人が自分のしていることをどう思っているか心配しなくてすむようになるのです。
私たちの問題ではない
かかわっている働きの成功は、私たちの功績ではなく神がなされることだ、ととらえると随分楽になります。
私たちの多くが、人数で働きの成果を図ってしまいます。
でも、第一コリント1:22-24を見ると、パウロは、証しをしても人々が無関心なのは彼が不十分だからではなく、サタンが人々の目をくらましているのだ、と述べています。
私たちには人々を連れてくることもできなければ、人々の心を変えることもできません。
ただ聖霊だけができるのです。
第二コリント4:7は、「 私たちは、この宝を、土の器の中に入れているのです。それは、この測り知れない力が神のものであって、私たちから出たものでないことが明らかにされるためです」と言っています。
土の器それ自体には価値がありません。価値があるのは福音そのものであり、私たちや私たちの犠牲は関係ないのです。
神様はいつでも好きな人に働きを任せることができるにもかかわらず、驚くべきことにご自身のご計画を成し遂げるために、私たちを選んでくださったのです。
主をおそれる
パウロは人に対してではなく、全能なる主に対して弁明する責任があると知っていました。
私たちには、友人や教会の役員会や教団の理事会の前に立って弁明する日は来ないでしょう。そうではなく、いつの日かキリストご自身の前に立つ日が来るのです。
宣教の働きに携わる私たち女性は、他人からいつも批判的な目で見られていると感じがちです。
神様は私たちが「十分」やっていると言われたいというプレッシャーを感じていることを理解しておられます。
しかし、十分かどうかは私たちの問題ではなく、働きの能力があるかどうかも私たちの問題ではありません。
それは、神様がご自身の栄光のために私たちを通してどう働かれるかに関することなのです。