
Liz Rhodebeck
砂漠は、厳しさの中で忍耐する場所だ。
北極気候の中で耐え抜くのと同じように、砂漠で耐え抜くには身体を絶えず保護していなければなりません。
日焼け、熱風、脱水は、凍傷や裸と同じくらい危険です。
装備を一瞬でも怠ると、身体は衰弱してしまいます。
しかし、砂漠気候に備えてきちんと準備し、薄い色の衣服を身につけ、帽子をかぶり、目を保護し、十分な水分を摂取するようにすれば、砂漠でも生きていくことができます。
地上での人生も霊的な危険に満ちています。
この世界で生きるとは、モラルの腐敗や多くの誘惑という気候の中で生きていくようなものです。
けれども、その中で神のみこころにかなった人として生きていくことは可能です。
適切なものを「身につけ」、祈りとみことばという栄養をとり、私たちを導いてくださる神様に信頼をおきつつ、正しいモラルに沿って一歩ずつ忍耐強く歩むという日々の努力によって、それは可能なのです。
砂漠は、生き抜くために一日のリズムに従うことが要求される場所だ。
ある写真家が砂漠の自然を撮影したいと思いました。
岩の下にいたヘビを引っぱってきて、撮影のために日なたの木につるしました。
撮影のために機材を準備したわずか10分ほどの間に、そのヘビは死んでしまいました。
その写真家は、午後の太陽の照りつけるところでヘビが生息できず、文字通り熱で「調理」され死んでしまうことを考えなかったのでした。
ヘビは涼しい日陰の岩陰に生息する性質があったのですが、愚かな写真家はヘビのいのちを守る環境を奪ってしまったのです。
砂漠には気温の上昇・下降の一日のリズムがあります。野生の生物はそれに適応して暮らしています。
もっとも暑い時間帯には、ほとんどすべての生物が何かの陰に隠れて休みます。
肌寒い夜になると、砂漠の動物たちは活動を始め、隠れ場から出てきて食物を探します。
もし午後の暑い日ざしの中で食物を探すなら、それは自殺行為といえるのです。
砂漠を旅する賢い旅行者も、同じようにします。
午後の暑いときには休息し、気候の穏やかな時間帯に移動をします。
砂漠の一日の気候サイクルを無視すれば、自分自身を危険にさらすことになります。
こうして制限のある環境下で過ごすことを学ぶのです。
同じように、神様も私たちがある環境の中で過ごすようにという範囲を与えておられます。
神様のみこころを無視するなら、快適さはなくなり困難の中に入ってしまうことになります。
砂漠のリズムに従うように、みこころのリズムに従うことで、私たちは平安に生きていくのです。
神様が私たちと交わりを求め、モラルのあり方を定めてくださったのは、私たちから何かをとりあげようとするためではなく、私たちが霊的な砂漠を安全に歩み、神様のそばを歩むためなのです。
砂漠への旅に出る。
私たちの多くは、実際の砂漠への旅はできないでしょうし、また砂漠で学べることを実際に体験して学ぶ必要もありません。
けれども、霊的あるいは心の中で砂漠への旅をすることはできます。
砂漠に行くようにただ一人になって離れ、神様と顔と顔を合わせることを求めるのは可能です。
それは自分自身の内面を静め、静かな砂漠で神様の声を聞く時間なのです。
どのようにしてそこへ行きますか?
何か決まったやり方を示すことはできません。
それは単なる願いだけではなく、ある種の「準備ができている」状態が必要です。
ちょうど成長したいと願う人が「オーケー、今日成長するから」と言うところを考えてください。
成長には時間が必要ですから、そんなに簡単にはいかないでしょう。
砂漠に行くには、時があり、そして願いがあってのことです。
適切な時ならば、聖霊様が内面における砂漠に導いてくださるのです。
霊的な生活において快適さを求める以上の純粋な願いがあり、暑さに耐えるだけの忍耐があるなら、行くことができるでしょう。
砂漠で一定の期間を過ごしたならば、ヨハネやパウロが見出したような一つの目的を見出すでしょう。神様をより深く知り、自分自身をもより深く知ることができるのです。
砂漠に行って、そこで学んでください。