2019/01/22

人生最高の時はこれからだ



神は、若くなくても喜んで働く人を必要とされる。

Patricia Raybon




私はもう25歳ではなく、45歳でもなく、65歳でもありません。
でも神様は気にはなさいません。
月曜日には私の電話が鳴ります。メールの受信箱はいっぱいです。
やる事はたくさんあります。
聖書が言うとおり収穫は多いのです。神様が私に望まれる働きがあります。
年齢を重ねて最も驚くのは、神様は年齢など気にされないということです。
神様は喜んで働く人を必要とされます。
私の生活で最大の関心事は、髪を染めること、太ももを細くすること、若返りの注射をすることではありません。
ただ、たゆむことなく神様のために喜んで働こうとしているか、に尽きます。

私は自分のライフステージや年齢で葛藤したことがありません。
それは私が常に働き続けてきたからです。
年齢や人生の段階、召し、肌の色にかかわらず、働くことは魅力的で聖なるものです。
かつては人生の最高の時期とは能力と賜物によるのだと考えていましたが、最高の時期とは神様の私達への目的、そして私達がそのために喜んで働くかどうかによるとわかりました。
89歳のニューヨーク・ブルックリンに住む芸術家について、ニューヨークタイムズの最近の記事は「彼女の長生きの秘訣はよく働くことだ」というものでした。

幼い頃から父はこの原則を教えてくれました。父には息子がいませんでしたが、「娘たち」すなわち私達姉妹がいました。私達は黒人差別の残っていた1950年代に生まれました。黒人居住区で育った私達は、毎日夜明けに起きてベッドを整え、皿を洗い、床や洗面所の掃除をし、そして岩を運びました。

まさしく、岩を運んだのです。それは公正住宅法(訳注:1968年米国で、住宅の譲渡・賃貸の人種差別を禁じる法律)が成立した1960年代のことでした。
働き者の両親は街中心部にあった懐かしくも狭苦しい小屋から、森林地帯にある広く清潔な新しい集合住宅に黒人の(私達)家族が引っ越すことを選びました。
それは私達にとって新たな始まりでした。新居は郊外の同じような風景にあり、家の前は岩がごろごろして何もありませんでした。
誰のものでもない空間でした。
そこである土曜の朝、父は私たち姉妹を早くから起こし、岩をすべて取り除くようにと言いました。
父はそこに何とか芝を植え、郊外にふさわしい芝生の庭にして隣人たちをなだめようと決めたのでした。
それで、私は岩を運びました。一日中。

私はやせた14歳で、岩は重かったのですが、空は青く太陽は輝いていました。
そしてその仕事は(仕事というものはたいていそうですが)、底抜けに良いものでした。
一日の終わり、自分の影が長くなってくる時間にそこに立ってすっかりきれいになった庭を見ると、苦々しい思いではなく、にこっと笑顔がこぼれました。
「よくやった」父が言いました。
「ありがとう、パパ。パパもよくやったね」と私も言いました。

父が教えてくれた事のうち、第一はキリストと十字架にある満たしでした。
そして第二は働くのはすばらしい、ということでした。
年齢?そんなことは関係ありません。
私たちの若いことを良しとする文化の中では、年を取ることは悲しむべきこと、軽くあしらわれることです。
皺は恥ずかしく、白髪は隠すべきものと思われています。

はっきりしているのは、私たちの文化には出エジプト記の内容が反映されていないということです。
3章には、モーセが義父イテロの羊を飼ってシナイ山に登った記事があります。
彼は80歳でした。
けれども神は彼の年齢など気になさいませんでした。
むしろ神はモーセに目を留め、山にいた彼に恐らく最も優しい言葉で語りかけられました。
「履き物を脱ぎなさい」と。
どういう意味でしょうか。
イテロの羊を飼って時を費やすのをもうやめなさい。
聖でない土地で履き物をパタパタさせて歩くのをやめなさい。
そうではなく、私の前であなたの履き物を脱ぎなさい。
そして?
本来の仕事にかかりなさい。
たとえ信じることができなくても、全てをあなたが変えることができる、とモーセは語られたのです。

もちろんモーセは尻込みしました。
自分はふさわしくない、と答えます。
「彼らは私の言うことを信じず、私の声に耳を傾けないでしょう…私は口が重く、舌が重いのです」(出4:1、10)。
今日でもモーセの言葉は私達のほとんどに当てはまるでしょう。
自分を疑い、うろたえ、勇気のない姿が。

しかし、モーセが口にしなかった印象的なことがあります。
80歳でしたが、彼は決して「私は年を取りすぎているのではないでしょうか」とは尋ねませんでした。
彼は他のことを心配しました。話下手なこと。まとまりのない人々を導く能力。
しかも、若さとはかけ離れた83歳の彼の兄アロンと共に行くことを願ったのです。

モーセは年齢を心配することはありませんでした。
ならば、私達も心配する必要があるでしょうか?

私達の多くは、ある年齢に達すると立派な人になり目的を達成するのだと思っています。
そして人生の表舞台から身を引き、ゴルフコースや自宅の玄関で過ごし、何かをなすには年を取りすぎたと言うのです。
けれども、聖書には引退という概念がほとんどありません(例外は民数記8:24-25のレビ人の奉仕)。
年齢に関しては、神様は何も気になさらないようです。
年月の創造主として、神様は引退の日を数えるのではなく、「自分の日を数え」、
「知恵の心を得」るようにと言われます(詩篇90:12)。

聖書にはいわゆる「素晴らしき日々」を過ごす英雄たちがたくさん出てきます。
アブラハムとサラはそれぞれ100歳、90歳でしたが、約束の息子を生み、国民を育てました。
ノアは600歳で箱舟を作りました。
ザカリヤとエリサベツはバプテスマのヨハネの親となった時には「二人ともすでに年をとってい」ました(ルカ1:7)。
女預言者アンナもまた、「非常に年をとって」も宮で仕え、注意深くメシヤの到来を待ち望んでいました。
ついにイエスを見ても、彼女は働きをやめて引退したのではありませんでした。
そうではなく、ますます熱心に「エルサレムの贖いを待ち望んでいたすべての人に」この幼子のことを話しました(ルカ2:36-38)。

私達に託されたことは、アンドリュー・マーレ―が言うように「働きと果実を混同してはならない」ということです。
「天の国の果実を結ばない、キリストのためにすると思っている働きがたくさんあるかもしれない」のです。
働き者の父はこの真理を理解していました。
野望や利己的な関心から悪い動機でする働きは、御国の目的や油注ぎがなく、天的な喜びもない、ということを。

父は日曜日に私達姉妹を教会に連れて行き、人生の全ての日を神様に捧げるなら、神様があらゆる瞬間を素晴らしい時にして下さることを私達に知ってほしいと思っていました。
父は、大人の期間をものづくりをした「大工」を、ガリラヤ地方に向かい世界を変える30歳までそうして待った「大工」を、私達に知ってほしいと思っていました。
彼はいつも働かれました。
そして私たちに素晴らしい約束を下さいました。
誰でも彼を信じるものは「さらに大きなわざを行います」という約束です(ヨハネ14:12)。その「わざ」とは奇蹟です。

私達には岩を動かす以上のことができると彼は言われました。
「山を動かすことができます」(マタイ17:20)と。
どのようにしてでしょう?
イエス様は説明して下さいました。それは「わたしが父のもとに行くからです」(ヨハネ14:12)と。
この良い知らせは、キリストから私達に送られた聖霊が、私達を強め、たゆむことなく御国のために働き続けるために隠れた能力を明るみにされるということです。

私が知る最も高齢の女性は現在105歳ですが今なお活動的です。彼女はアドバイス(私にくれた最上のもの)と共にこの真実を実証しています。
「よく長生きする方法、それはあなたのペースで歩み続けることよ。」
それに付け加えて「忙しくしていなさい。ただし、聖霊様に働いていただきなさい」と言いました。

私は60代後半に差しかかっていますが、電話は鳴り続けます。私は感謝しながら受話器をとります。
私は喜びをもって応答します。なぜなら、年ごとに収穫はよいものになっていくからです。
なぜかですか?
それは神様がよい果実を私達皆の中に実らせてくださるからです。



障がい児の親が平安を保つ5つの秘訣


Tammie Swaney タミー・スワニー


これから述べようとすることは、自己中心的で「母親らしくない」と思えるかもしれません。
それでも、肉体的には疲れ果て、感情面は心配、さらに精神的にまいってしまい、時には怒りがこみあげてくるという経験を通った私は、以下のことを心からあなたに分かち合いたいのです。

よい香りの入浴剤(Calgon moment)で気分転換しても一日やりきれない時、私は罪悪感と戦ってきました。
障がいを持つ子供を育てるのは、あられの中でロッククライミングをするのと同じくらい大変なことと言えます。
もちろん、どんな子どもでも困難な面はあります。
しかし両者の違いは、障がいを持つ子供が周囲の状況を理解できているのか、あるいはただふざけて親の言うことを聞かずに笑っているのかがわからない、ということです。

普通の子どもなら多くの節目を迎えます。
運転免許を取り、卒業ダンスパーティーに行きます。お泊り会、初めてのボーイフレンドあるいはガールフレンド、親子の会話、そしてちょっとした反抗。
「普通」とは日常のことを差します。
しかし、驚かれるかもしれませんが、障がい児を育てる普通とはずっと同じ状態が続くということです。その子の子ども時代が続き、そこであなた自身をいたわり身体・心・魂の安息を見出すことです。

 「永遠の5歳児」である私の息子ニコラス(ニック)は、本やドラマ、著名人(フィル博士やドブソン博士)、子ども番組(セサミストリート)では決して学べない、いくつかの子育てに関する事柄を教えてくれました。
彼は皆の心を引きつけ、地球上の誰よりも多くの愛情を受けています(親ばかですね)。
17歳のとてもやさしい子どもです。
けれども、気をつけなければなりません!興奮すると大暴れするので、数秒前までの我が家の平和な状態をめちゃくちゃにしてしまいします。
興奮する理由は誰にもわからず、すぐ対処するすべもないのです。

私にとって幸いなのは、夫のティムが積極的に子育てに関わってくれ、さらに神様が我が家を導いてくださっているので、耐えがたい日々を切り抜けられているということです。
障がい児を育てるという試練の中で気を確かに持ち続ける5つのステップを以下に示します(すべての親、すべての子どもに当てはまらないかもしれませんが、私たちにとって助けになっているものです)。


1. 神様と過ごす時を持つ。

神様のことばを読み、黙想し、力を得る時間を作ることが何よりも大切です。
神様は私たちがまさに必要な時に必要な方法を示してくださいます。
みことばは永遠の啓示であり、みことばを掘り下げる時に私たちは回復します。
「試練の日々」の中で私を支えてくれたいくつかの聖句を紹介します。

・「怒っても、罪を犯してはなりません。憤ったままで日が暮れるようであってはいけません。(エペソ 4:26)」
 叱った後でも一緒に座り、どれくらいニックを気にかけているかを示し、いつも消灯前には「愛しているわよ」と語りかけます。

・「私を強くしてくださる方によって、私はどんなことでもできるのです。(ピリピ 4:13)」
全てを失い、話す力もなくなった時、頼るべきは自分の力でなく神の力である、ということをこの聖句は思い出させてくれます。神様だけが私を持ち運んでくださるのです。

・「モーセの手が重くなると、彼らは石を取り、それをモーセの足もとに置いた。モーセはその上に腰掛け、アロンとフルは、一人はこちらから、一人はあちらから、モーセの手を支えた。それで彼の両手は日が沈むまで、しっかり上げられていた。(出 17:12)」
 これは最後の手段という聖句ではありませんが、必要な時には祈りの勇士である友人に電話し、支えてもらえるのだと思い出す重要な聖句です。誰でも疲れ果てた時にはそうした祈りの勇士に支えてもらう必要があります。


2. 夫婦で過ごす時を持つ。

これは難しいとわかっています。私たちは忙しいスケジュール、長時間の仕事と家事で疲れ切っているからです。
しかし、夫婦で過ごす時間は家庭を強くするのに必要な要素です。
夜の外出や、せめてコーヒーを飲む時間をとってください。
私の義兄は最近がんで倒れました。
姉が、一番つらいのは朝だと話してくれた時に心が痛みました。
朝は二人だけでコーヒーを飲みながら一日のことを語り合う時だったのです。
それは貴重な時間でした。
こうした貴重な時を見逃さないでください。
共に祈り、語り合い、手を取り、寄り添い、回想し、未来の計画を立てる時間を見つけて下さい。
そうすれば一致して力を合わせることができます。


3. 自分自身の時間を持つ。

私は霊的養いのリトリートに毎年参加します。
また、趣味も持っていて、女性どうしで楽しく過ごします。
姉妹でランチをしたり、iPodを聞きながら歩いたりします。
寒い夜にはニックが寝た後、好きな小説を読みながら紅茶を飲むのもお気に入りの静かな時です。
ほっとする時を作って下さい。


4. 予定を守る。

我が家にはニックの他に20歳の子もいます。
仕事、スポーツ、大学、余暇と、彼の多彩な活動スケジュールを把握するのは困難です。
しかし、私たち夫婦とニックに関しては、スケジュールをかなり固定化しています。
ニックにとっては規則的な1日が心地よく、調子が良くなると私は学びました。
友人から誘いを受けても翌日に差し障ると思われる時には、後ろめたいと思わずに断ることもあります。


5. 子どもから学ぶ。

障がいのある息子が示す愛の大きさは驚くほどです。
イエス・キリストの愛以外には経験したことがない大きさです。
それは無条件の愛です。
愛はニックから輝き出て、まさに伝染していきます。私が人々をどう愛せばよいのかを、たえず気づかせてくれます。
その愛にはごまかしや偏見がありません。
これこそイエス様が福音を通して教えられた愛です。
「『あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、知性を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。』これが、重要な第一の戒めです。『あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい』という第二の戒めもそれと同じように重要です(マタイ22:37-39)。」

もしあなたが障がいのあるわが子とこうした日々を過ごしているなら、イエス様の臨在のうちには平安があることを思い出してください。
一瞬一瞬を切り抜けるのに必要なもの全てを彼が備えてくださいます。 
あなたに障がい児を育てるという特別の仕事を与えて下さったのであり、その子はキリストの愛を完全に表すことができるのです。
この子どもを世界に分かち合う機会を与えて下さった神様に感謝します。


*この記事が書かれたのち、タミーの愛する息子ニックはしばしの闘病期間を経て地上の生涯を終え、天に帰りました。

2018/11/21

借り物の心配 Secondhand Worry






他人の問題を心配していませんか?
  バーブ・ルーズ 



他の人の問題を、あなたはつい心配してしまいますか?

ある日、友人のレアがもう限界だと言って電話をしてきました。
しかし、それは彼女自身の悩みではなく、成人したレアの子どもの問題のためでした。
息子の罰金を彼女が払っており、息子が刑務所に入れられるのではと恐れていたのでした。
レアは、同じく成人した独身の娘が思いがけない妊娠をし、経済的に不安定であることで夜も眠れなくなっていました。
両方の子どもの状況に、レアは感情的にも経済的にもほとほと疲れていました。

子どもたちの問題についてのレアの心配は「借り物の心配(secondhand worry)」として知られています。
他者の煙による受動喫煙のように、借り物の心配をする人は他人の問題を心配しイライラするか、あるいは自分が肉体的・感情的に影響を受けるかしてしまいます。


あなたにはこれらに心当たりがあるでしょうか。
  • 息子が理科の宿題を終わらせないので、落第して次学期に影響が出るのではないかとイライラし困っている。
  • 30歳の妹は自由を満喫しているが、健康保険にも入らず金の無心をしてくるので心配している。

私たちが借り物の心配から解放されないと、どうなるでしょうか。
他人の責任を自分が負うことになります。
さらに悪いことに、その人たちが自ら学ばねばならない人間関係・経済的・霊的な人生の過程を、気づかないうちに奪ってしまうのです。
(回復の原則をご存知ですか。借り物の心配は共依存関係を生じさせ、助長させうるものです。)


ヨシュア記9章には、イスラエル人が約束の地に入ってきたこと、エリコとアイの戦いに勝利したことを、カナンの地に住んでいたギブオンの住民が聞いたという記事があります。
ギブオン人は殺されるのではないかと恐れ、「彼らもまた計略をめぐらし、変装を企て」ました(ヨシュア9:4)。

ギブオン人は使者をヨシュアと族長たちのところに送りました。
自分たちは平和の盟約を結ぶために遠い国から来たのだ、とイスラエル人に言いました。
ヨシュアが旅人を調べると、古びた服装をし古びたぶどう酒の皮袋を持っていました。
族長たちは再度使者を疑い、すぐそばに住んでいるのではないかと尋ねました。
神が、カナンに住む民とは盟約を結んではならないと禁じられていたからです。
しかし、ギブオン人はとても遠くから来たと言って、イスラエル人にうそをつきました。
彼らの話は恐れと心配に満ちた、長く詳細なものでした。


私たちは自分と関係のある人が個人的な責任で悩んでいるとき、その悲しい話を額面どおりに受け取りがちです。
気の毒に思い、助けたくなります。
しかし、話の細かい部分に関心を持ち過ぎると、事実を見失ってしまいます。
これまで出会った失業中の人が、今回の失業は自分のせいではないと長々と話すのを何度となく聞いたのではないでしょうか。
10代の子どもが宿題を忘れた言い訳をし、自分に対する教師の不公平な扱いに長々と文句を言うのを何度も聞いたことがあるのではないでしょうか。


ヨシュアとイスラエルのリーダーたちはギブオンの住民の話をうのみにし、信じたことによって重大なミスをしてしまいました。
ヨシュア記9:14には「そこで人々は、彼らの食料のいくらかを取ったが、主の指示をあおがなかった」とあります。

その結果、イスラエルはギブオン人と盟約を結びました。
間もなく、ヨシュアと族長たちはだまされたことに気づきました。
イスラエルの人々はリーダーたちにとても腹を立てました。なぜなら、不従順がどれほどの災いをもたらすかを知っていたからです。
ともかく、恐れと心配からイスラエル人をあざむいた人々を生かしておき、将来まで面倒を見ることになりました。
借り物の心配をすることは短期的にも長期的にも関係者全てが犠牲を払うことになります。


あなたが借り物の心配によって振り回されるかもしれない、4つの兆候

  1. いつも無責任な態度を取る人の行動、経済問題、未熟さのために、あなたがストレスを感じたり、夜眠れなかったりする。
  2. ある人の代わりに言い訳をしたり、金銭を与えたり貸したりしてその人を助けている。
  3. 何かを失ったり将来の機会を逃したりするのではないかと心配なので、ある人が困難や失敗を経験することを恐れている。
  4. その人ががっかりしてあきらめてしまったらどうしようかと心配で、本人の葛藤を見たくない。


借り物の心配から解放されるためにはどうしたらよいでしょうか。

子どもの一人のことで心配していた時、この「借り物の心配」で私の心はいっぱいになりました。
彼女は医者の下した診断に関して葛藤を覚えていました。
それまでにも大きな戦いがあっただけに、私は彼女の今後の人生が順調にいくようにしてやりたかったのです。
しかし、彼女の人生について悩み心配することで私はへとへとになりました。
そこで助けを求めてクリスチャンカウンセラーの元に行きました。
ティムというカウンセラーの唯一の問題は、私を全く慰めてくれなかったことでした。
彼はその代わりに、問題を正そうとして娘の人生に神の役割を果たそううとすることをやめるようにと言いました。
彼は、借り物の心配の解決法だと思える知恵をもって私に挑戦してくれました。
「私たちは、その人たちが神が必要だということに気づくようにしてあげなければなりません。」

ティムの助言に従えるかは、娘が高校3年生の時に試されました。
娘は突然宿題をしなくなり、高校の卒業が危ぶまれたのです。
その時、親である私たちは彼女の未来についての心配をゆだね、彼女に関して神に信頼しなければなりませんでした。
夫と私は一歩引いて、娘と先生のやりとり、そして娘自身の決断を見守りました。

素晴らしい結果になりました!
高校卒業後の進路は変更しなければなりませんでしたが、人生を軌道に乗せるために娘は一生懸命に努力しました。
私たちが一歩引くことで、彼女は神に従って人生を歩むことができました。
4年後、彼女は自分の大好きな仕事をし、いきいきと成長して歩んでいます。

もし、あなたが誰かの人生で神の役割を果たそうとして働きすぎ、本人がひざまずいて神様に呼び求めることを妨げているとしたらどうでしょうか?

あなたが配偶者、子ども、友人たちの人生で神の役割をしている限り、彼らは自分の必要がわからないし、プレッシャーを感じることもないでしょう。
しかし、請求書を未払いのままにし、車が担保にとられるままにするなら、無責任から生じる当然の結果に彼ら自身が向き合い、彼らが自分の愚かな選択に伴う痛みを扱うことになるのです。

落第したり留置所で数日間過ごしたりすることは、愛する人が神様に叫び求め、無責任な人生の歩みをやめる転換点となるかもしれません。
もちろん、その人たちが無責任な行動のせいで苦しむのを見ることは辛いことです。が、そのあやまちから学ばず何度も何度も苦しむことの方がもっと悲劇的です。

さあ、神様が必要だとその人が気づくために、あなたが手放すべき人は誰でしょうか。



Barb Roose:女性どうしがつながること、女性と神様とがつながることに重荷を持つ講演者、執筆者。女性たちがキリストにあって強められ建て上げられ、勝利の人生を送るようになることを願っている。国内外の聖会や集会で女性たちを教え励ますことが喜びである。近著に Winning the Worry Battle:Life Lessons from the Book of Joshua(「心配という戦いに勝つ:ヨシュア記から学ぶ人生のレッスン」、バイブルスタディーも同時発刊)。


Just Between Us 誌 2018秋号より翻訳     


Copyright 2018 Barb Roose. Translated from Just Between Us, 777 S. Barker Road, Brookfield, WI 53045


Just Between Us Japan は、アメリカの Just Between Us Magazine 日本語版サイトです。女性の働き人、伝道者の妻、教会の女性リーダーたち、そして人間関係や宣教、生活の課題に関心のあるあなたのための情報です!
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2018/08/08

卒業シーズンの嘆きと恵み Graduation, Grief and Grace

~障がい児を持つ親へ、クリスチャンとしてのアドバイス







ダイアン・キム Diane Dokko Kim








「おめでとう!これからどうするの?」
「大学はどこに行くの?」
「どの会社に就職するの?」
「結婚したら、新婚旅行はどちらへ?」


アメリカでは6月は喜びの季節です。毎年、喜びとうれし涙の卒業と結婚、プロム(訳注:卒業のダンスパーティー)とパーティー、贈り物と正装の年度末があわただしく終わります。

しかし、重い障がいを持つ子どもの親にとっては、この時期は悲しみに襲われる季節でもあります。
もし障がいがなければ、私たちの子どももこうだったかしらと、心がまたうずくのです。

私の息子のような子どもたちにとっては、時と機会は違った流れ方をします。
私の16歳になる息子は自閉症、ADHDなどの障がいを持って生きています。
比べたり羨ましく思ったりしながら、私のような親たちは、普通は親として味わう記念行事の喜びを味わえないことをしばしば嘆きます。子どもの名前が書かれた卒業証書、結婚式に親子で踊るダンス、孫の誕生などです。
毎年6月になると、自分たちが経験することのない行事を耳にし目にしては、私たちが払う隠れた犠牲(機会費用)を考えるのです。

他の人の式典やお祝いに出席する時、あるいは誰かのプロムの写真をソーシャルメディアで見る時にはいつも、私たちは礼儀正しくにっこり微笑みます。
けれども心の中では、静かに悲しみます。
うちの子は違うもの。将来はどうなるのかしら。彼の人生の意味は何かしら、と。

また、この時期は私の信仰がゆらぎ、神観が問われる時です。
毎年、私は自分自身に福音を語って思い出させなければなりません。
神様の国では、この世界の価値観とは異なる基準、つまり神の国の貨幣価値で祝福と達成とがはかられるのだ、と。



罪の贖いに価値をおく

2000年前、天が開け、聖なる全く特別な方の誕生を告げる神の声が聞こえました。
その方は祝典と冠を受けるに最もふさわしい方でした。
神の愛するひとり子、神の喜ぶ子であり、洗礼を受け、若くしての死に従われた方でした。
無名で生まれ、身分の低い大工の子として育ちました。ご自身が結婚することはないと十分に知りつつも婚礼の席では喜びを表し、決して親になることはなくても喜んで子どもたちの病気を癒されました。祭りの祝宴では、決して離れないと約束した直後に自分を見捨てることになる友と、パンを裂いて分けられました。

与えられないものを嘆くかわりに、イエスはご自身に与えられた特別な召し、他の誰にも理解できなかったまさにユニークな重荷を背負うという召しに向かい続けられました。 
救いを与えるために来られたその世によって、裸で、誤解され、卑しめられて死にました。

この世的な成功から見れば、イエスは「失敗した」と見えるかもしれません。それでも、その誕生によって歴史を紀元前と紀元後に分けたような人物はいません。死からよみがえった人物も他にはいません。天に上り神の右の御座に座った方もいません。永遠の救いを全ての人に保証するのもこの方以外にはありません。他に救い主はいないのです。

神の御子はこれらすべてを、学位、キャリア、結婚、家族、優れた友人を持つことなく成し遂げられました。彼の功績はほとんど歓迎されませんでした。評判も、壮麗さも、境遇も伴わないご自身の召しを実行されたのです。



神の願いとは

「主はあなたに告げられた。人よ、何が良いことなのか、があなたに何を求めておられるのかを。それは、ただ公正を行い、誠実を愛し、へりくだって、あなたの神とともに歩むことではないか(ミカ6:8)。」

何が神の望まれる最低限で最上のことか、それはただ神の子どもたちが公正を行い、誠実を愛し、へりくだって、神と共に歩むことではないか、とあります。社会の価値観にふりまわされず、イエス様はただ神様の目的を達することだけを望まれました。
心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして主を愛されました。そして隣人を自分自身のように愛されました。それだけが神がとられる基準です。
このようにして、イエス様は他に並ぶ者がいない、成功した人生を歩まれました。

対照的に、この世界での成功のバロメーターは学業や仕事の業績、強さ、力、美しさ、繁栄、地位などです。
こうした基準に照らすと、我が子のような障がい児は劣っているとみなされます。不十分で欠けがあるとみなされるのです。


「うちの子はどうなるの?将来は?この子の価値は何かしら?」


本当に愛されている子どもは、自分の価値を何かをすることによってわかってもらう必要はありません。何かを会得したり成し遂げたりする以前に、愛されているから価値があるのです。
我が子が生まれた瞬間から、その子が最も無力で依存的で、何も与えることなく、かえって私たちの持つ力を全て奪う存在であっても、私たちは決して壊れない愛を持って子どもを愛します。
それはただ、我が子だからだという理由で愛するからなのです。

私たちが子どもに注ぐ思いは、神様の犠牲的な愛のあらわれです。
私たちがまだ罪人であったときに、キリストは私たちのために死なれました(ローマ5:8)。キリストは私たちが最も価値のなかったときに、私たちを愛し、大切に思い、犠牲を払ってくださったのです。それはただ、私たちが神の子どもだという理由によるのです。

技能、業績、能力に関係なく、すべての神の子どもは、等しく尊い存在で神にあってそれぞれの目的を持っています。
主がご自身の子どもを「恐ろしいほど奇しく(詩篇139:14)」造られたのですから、神様の評価を疑わないでください。


悲しみが与えてくれるもの 

この人生の変化と移動を祝う驚くべき季節にほとんどの家族は喜びますが、中には悲しむ家族もあります。
典型的な親は子どもたちが家を出て大人になっていくことに喜びと悲しみの入り混じった複雑な思いを抱くのです。

一方で、障がい児を持つ家庭は、我が子が成長し自立する日が決して来ないことを嘆きます。
でも逆に、悲しみの気持ちは期待しなかった贈り物ももたらします。失ったもの、欠けたものを認識することで、私たちの最も大きな栄誉はこの地上で語られるものではないということを強く思わされるのです。

著名なクリスチャンの作家、C.S.ルイスはこう述べました。「もし、われわれの願望がこの世界では満たすことができないことに気づくなら、それはわれわれが別の世界のために造られたからだ、というのが最も妥当な説明である。」

私たちの究極の変化とは、別の場所で栄光に入れられることです。
「私たちの国籍は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主として来られるのを、私たちは待ち望んでいます(ピリピ3:20)。」

その時まで、神の子どもなら誰でも成績や学歴に関係なく、心、いのち、思いを尽くして主を愛することができます。また、隣人を自分自身のように愛することができます。
何を成しとげ行ったかではなく、神の子どもであるがゆえに、能力にかかわらず私たちはかけがえのない存在なのです。
私たちへの神の無条件の愛は成績証明書の点数ではなく、恵みのはかりではかられるのです。

「ですから、私たちは今後、肉にしたがって人を知ろうとはしません。かつては肉にしたがってキリストを知っていたとしても、今はもうそのような知り方はしません(Ⅱコリント5:16)。」


英語オリジナル記事は Graduation, Grief and Grace   (https://justbetweenus.org/relationships/parenting-challenges/christian-advice-for-parents-of-children-with-disabilities/)
Copyright 2018 Diane Dokko Kim.  Translated from Graduation, Grief and Grace

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2018/06/19

変化をもたらす:インタビュー メルヴァ・ハンダーソン(4)


JBU: 今あなたのように辛い時期を通っている女性に言葉をかけるとしたら。

メルヴァ: 神様が父親であるということを忘れないでください。神様のような父親はおられません。
その信仰が私を支えてくれています。神様は決してあなたを見捨てません。


JBU:  断食は、どのように神様への飢え渇きを深めてくれるのでしょうか。

メルヴァ: 毎週火曜日が私の安息日です。世の中から離れ、家族と過ごすことを最優先する休息の日です。FacebookもSNSも見ません。メールなどにも返信をしません。
なぜなら、私には時に物事が早いペースで押し寄せ、十分に考えることができないからです。
私は賢い選択をしたいと思っています。
成熟し、よく考えて人生を送ることができるようにと願いますので、霊的訓練としてテクノロジーを断つことはぜひとも必要だと思います。

神様は安息され、働きを休む1日をとられました。私たちは神より優れた者ではありません。
ですから、スイッチを切り、心騒がせず、テクノロジーや食物を断つ日が必要です。
それは健康を維持し、心を休ませる素晴らしい方法です。
今日、それは肉体に安静を命じる時であり、特に神様に聞くことができる時です。
神様に聞き、意図的にスイッチを切ることには訓練が必要です。

繰り返しになりますが、テクノロジー、食物、つきあい、何を断つかにかかわらず、それらから距離を置くことで、神様に近づくのです。
私は、神様のところに行くという目的でそれをしています。そうすれば、私は神様の前に自分の人生を保つことができ、この世のそれ以外のものから静まることができます。
私のたましいと、全人的な存在に必要なものを取り戻すことができるのです。


JBU: 女性はこの世界に変化をもたらすため、与えられた賜物をどう用いることができるでしょうか。

メルヴァ: 第一に、みことばを生きることです。そして、神の前に賜物を差し出し、神に絶えず訓練していただき、人々のために用いることができるようにして頂くのです。
賜物を用いようと願い、置かれている場所から始めてください。まずエルサレムで、そしてユダヤとサマリヤで、やがて全世界で。

ある人にとっては、エルサレムとはあなたの子どもかもしれません。神様が呼ばれ召されるところならどこででも始めるのです。
大統領の母親は、まさか自分が未来の大統領を育てているとは夢にも思いません。でも、事実はそうなのです。
あなたが何をしているのかにかかわらず、神様はあなたを国を変えるのに必要な器として整えておられます。あなたの国とは、私の祖母がそうだったように、あなたの足元かもしれません。
どこにいようと、背景がどうであろうと、人種や社会経済的背景がどうであろうと、あなたは人々の人生に触れることのできるものを持っているのだと知ってください。
どこにいるかにかかわらず、変化をもたらすことのできるものをあなたが持っているので、神様はあなたをそこに置かれているのです。


JBU: 今日の女性について気になることはありますか。

メルヴァ: 神様との親しさが欠けていることです。
私たちは絶えずこの世のものと距離を置き、神様を人生の中心にする必要があります。
人生をかけて神様を愛してください。
1ペテロ1:16には「あなたがたは聖なる者でなければならない。わたしが聖だからである」
と書かれています。私たちは聖さについて妥協することはできません。

もう一つは分派です。皆の関心が「私は」「私の」にあり、「私たち」に十分関心が払われていないように思います。
私たちは自分より前に他者のことを考えなければなりません。私はそのことを祈ってきました。
祖母が大変賢明に教えてくれたように、私たちは愛し、愛し、愛しぬかねばなりません。
神様の愛のうちを歩むように求められているのです。
それはあなた自身についてではなく、あなたが仕えるよう召されている人々に対してです。


JBU: 私たちへの励ましがあれば、お願いします。

メルヴァ: 自分を信じてください。神様が召してくださったと信じてください。内に聖霊が住んでおられると信じてください。罪赦されたことを信じてください。全て癒されるのだと信じてください。神様が信頼できる方だと信じてください。神様があなたの人生を御手に抱き、あなたが呼び求めるなら答えて下さる方だと信じてください。
神は平安の神です。悪いことが起こらないという意味ではありません。私たちは堕落し傷ついた世に、堕落し傷ついた人々と生きているのですから。
けれども神様は良い方で、何があろうともあなたのことを気にかけていてくださるのです。



変化をもたらす:インタビュー メルヴァ・ハンダーソン(3)


JBU:聖書のことばをそこまで愛するようになられた経緯を教えてください。

メルヴァ: 神学校の学生時代、ヨハネ15:7の「あなたがたがわたしにとどまり、わたしのことばがあなたがたにとどまっているなら、何でも欲しいものを求めなさい。そうすれば、それはかなえられます」というイエス様の言葉が目にとまりました。
その前の部分では、「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫です」とあります。ここでは、イエス様のうちにとどまることが語られています。そして、イエス様とそのことばとが同義のものとされています。
もし満たされたいなら、みことばに親しまなければなりません。

また、イエス様はヨハネ14:23で、わたしのところに来るなら、父とわたしはその人のところに来て、その人とともに住むと言われました。
「どうやって?」と思いましたが、それはみことばを通してでなければなりません。
私は父なる神様とともに住みたいですし、子なる神様とともに住みたいです。
ですから、みことばに親しむと決心したのです。
人生の回答を与えるのは、神のことばそのものです。


JBU: どうしたら生涯聖書に親しむ習慣を持てるでしょう。

メルヴァ: 文字通り、訓練です。この社会、テクノロジー、電話、iPadなどは私たちの時間と注意を引こうとします。ですから、神のことばがまず第一である、と優先順位をつける決意をしなければなりません。
私の祖母はいつも「生活の中で神様をまず第一にすると決意しなさい」と言っていました。
ですから、毎日神様を見上げます。たとえ、そうする気にならなかったとしても、です。
それをパウロは1コリント9:27で「私は自分のからだを打ちたたいて服従させます」、別の訳では「自分のからだを打ちつけます」と述べています。
言い換えれば、私は強いて身体を従わせ、すべきことをするのです。それはすべきこと、訓練です。

30年前から、早朝に祈るために起きるようにしています。それも訓練ですね。毎朝、私は起きて、神様と話す準備をします。初めに聖書を読み、そして祈ります。


JBU: 聖書の読み方について教えてください。

メルヴァ: 初めに、31章まである箴言から1章を読みます。
次に、毎朝パウロの祈りを読みます(エペソ1:14-23、3:17-21、コロサイ1:9、ピリピ1:9)。

まずエペソの「どうか、私たちの主イエス・キリストの神、栄光の父が、神を知るための知恵と啓示の御霊を、あなたがたに与えてくださいますように。また、あなたがたの心の目がはっきり見えるようになって、神の召しにより与えられる望みがどのようなものか、聖徒たちが受け継ぐものがどれほど栄光に富んだものか(見えますように)」で始めます。
それから、エペソ3:18にあるように、キリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解する力を持つことができるように、と祈ります。
もし神様の愛が私のうちにあることに気づくなら、何が起ころうとも、何をされても、人々を愛することのできる心が与えられます。

ピリピ書からは、神様の働きができるよう、御霊のくださる賜物を受け取ります。
もし人生で何か起こり、心がざわざわしても、それらのみことばを見上げて助けをいただきます。心がみことばで満たされたら、祈りに移り、答えを求めます。


JBU: 聖書のことばを明確に体験された、特別な経験がおありですか。

メルヴァ: 2年前に祖母が召された時です(90歳でした)。彼女の死ほど私の人生に影響を及ぼした出来事はありません。
彼女がいないという心の穴を埋めるのに、2年かかりました。
私は実の父母に育てられていないので、祖母が私の家族そのものでした。
しばらくの間、自分が自分でないようで、ただ息をしているだけの状態でした。
落胆し、ひどい混乱と恐れと不安がやってきました。
けれども、長年神様がみことばを通して語ってくださったことが自分を支えてくれたのだと信じています。

悲しみに沈んでいたある日、主ご自身が私の父親となる、と明確に語ってくださいました。
詩篇68:5に、神は「みなしごの父」とあります。その言葉が、私を穴から引き上げてくれました。神が私の父となって下さり、私は独りぼっちではないと知ることで私に変化が起こりました。

また、イエス様が私の悲しみを悲しみを背負ってくださることもわかりました。
マタイ5:4「悲しむ者は幸いです。その人は慰められるからです」という励ましが与えられました。
だから、私は悲しんでよいのだ、と知りました。そのことが私をおおいに支え、神様が私の父となってくださると信じる決意が全てを変えました。  (続く)


変化をもたらす:インタビュー メルヴァ・ハンダーソン(2)

JBU編集部:あなたのおばあさんのことを聞かせてください。

メルヴァ: 私にとっては人生で最も影響力のあった人です。
私は自分に母親がいたら、父親がいたらいいのに、と常に思いながら育ちました。
けれでも、私には常に祖母がいてくれました。
彼女は私のメンターでした。
小学校しか出ていませんでしたが、神との深い交わりをし、教会の柱となっていました。
彼女は自分の人生を私のために注いでくれました。
彼女の家には選択の余地はありません。イエス様だけです。
それで、私は教会と家のどちらも常に神をあがめるところで育ちました。
もし私が土曜日に生まれていたら、日曜日には教会にいたでしょう、と冗談を言うくらいです!

12歳になる前には、もっと神を知りたいという渇きが心に生まれました。
私自身の個人的な信仰を培いたいという思いです。
その頃には、生みの母も信仰を持ち、家に戻ってきていました。そして兄と私を全市規模の大きな集会に連れていってくれました。
私はそれまで、そのような集会について聞いたことがありませんでした。
招きがあったとき、私はイエス様を自分の主として受け入れようと前に出ていきました。


JBU: その後、神様はどのようにあなたを変えられたのですか。

メルヴァ: 人生にはいくつか失敗もありますが、その日以来私は後悔したことはありません。
その後、神様との関係を意識しない日はありませんでした。
罪深いことが普通である大学時代でさえ、そうでした。
盛り場で「神様が悲しまれているわ!」と叫んだので、そこにいた人たちは皆ばつの悪い思いをしたことでしょう。神様が私に望んでおられない場所にいるということがわかりました。どうしたら、バーに変化をもたらすことができるでしょうか。
21歳の時に、私は人生を主と主のご計画にすべて委ねると決心し、主との関係がより深いものになりました。


JBU: あなたが今日の姿であるには、あなたの祖母はどんなことを教えてくれましたか。

メルヴァ: どのように人々を愛するか、ということです。
「人々を愛さなければなりませんよ。あなたに何をしたか、何を言ったかは問題ではないの。ただ愛するのよ」と彼女は言ったものでした。
また、彼女の姿を通して祈りの力を学びました。毎晩彼女の寝室に行くと、彼女はひざまずいて祈っていました。神様を優先順位のトップに置く、すばらしい女性でした。


JBU: 母親や祖母は、子どもたちに信仰面でどのように影響を与えられるでしょうか。

メルヴァ: 自分自身の絶え間ない神との歩みを通してだと思います。
「信仰は教えるより体得する方がよい」と私たちはよく言います。
もし、私たちと神との個人的な関係が子どもたちにとって見えるか経験できる何かでないなら、それを知ることはできないでしょう。
子どもたちが、私が試練を通る時に神だけがそれを乗り越えさせてくださるという歩みを見るなら、それ以上に強い証しはありません。
多くの子どもたちは成長の過程で反対の道へ行こうとしますが、母親や祖母がたえず神と歩み、神の話をするならば、この世にも消し去ることのできない印象を子どもたちに残すのです。


JBU: あなたと祖母の間のようなメンターの関係を、女性たちはどのように築くことができるでしょうか。

メルヴァ: どんな人でも、人生について語り導いてくれる人を必要としています。
今日の次世代の人々にはグーグルがあり、残念なことに、グーグルが時代の知恵になっていくと思っています。
でもそうではありません。
私は自分の人生を通じて、祖母の足元に座り、同じ話を語るのを幾度となく聞きました。
18歳になった時、「おまえは知識では私を越えるかもしれまいが、知恵では決して私を越えることはないよ。私はおまえより長く生きてきて、より多くの経験をしてきたのだから。おまえが行ってみようと思うところに、すでに行ったことがあるのだから」と祖母は言いました。
すべての女性は、自分が行こうとするところに行った人に語ってもらう必要があるのです。(中略)
誰かに近づいて歩もうとするなら、相手は持っている宝をあなたの人生に分けてくれるでしょう。
だから、私は祖母のような神の人、神を知り神と深く歩む人の話が聞きたいと思うのです。
そういう人たちを通して、神様は人生について何かを教えてくださるのです。


JBU: 自分の人生が影響力を持つということを、どのように知りましたか。

メルヴァ: 自分の人生は私自身のものではないということに、気づいたからに過ぎないと思います。
私の人生をゆだねるようにと召されたからです。自分自身がそういう働きに置かれているのですね。
私の祈りは「神様が望まれることを私は望みます。あなたが望まれるところに私は行きます。あなたが望まれることを私は行います」というものです。
信仰生活を通して一貫してそれを祈ってきました。


JBU: 「私では不十分です」とか「私はこの働きにふさわしくありません」などと思われた時がありますか?

メルヴァ: ほとんど毎日そのように感じます。
でも2ペテロ1:3には「主イエスの、神としての御力は、いのちと敬虔をもたらすすべてのものを、私たちに与えました」と書かれています。
この聖句を握って、どんな働きも、恵みにより等しく与えられているのだ、と確認しています。
この働きを始めて以来、私はよく神様にこう言います。「私が自分のためにしているのではありません。神様、あなたが私に与えられたのです。理由はわかりませんが、あなたがせよとおっしゃるのです。人に、様々な国に、町に届くこと、本を書くこと、メッセージを語ること、あなたが私にその働きを与えられたのです。ですから、どうぞ知恵を与えて、あなたの栄光のためにさせてください」と。


JBU: 恐れが来たら、どうされますか。

メルヴァ: 恐れを蹴り飛ばし、心を強くして追い出します。神様が開いてくださったドアに一歩進みだします。恐れというのは、怖がっても私たちをとどめる力しか持ちません。恐れは自分にどうにかして忍び寄ろうとするので、日々それを認識する場所が必要です。


JBU: どのようにして打ち勝つのでしょうか。

メルヴァ: 神に頼り、みことばを読み、歩み続けることです。恐れのない人生は歩みですから、聖霊に頼りつつ生きることです。全てを聖霊にゆだねることです。
「主よ、ペテロに命じられたように、あなたが来なさいとおっしゃいました。ですから、おことばに従って前進します」と言うことです。
主はいつもそこにおられます。そして、恐れを乗り越える歩みは、もっと大きな恐れを乗り越える力となります。   (続く)
                               
 

バランスのとれた人生とは Balancing Act 

JBU誌の編集スタッフが語る、 人生の季節をよく生きること 聞き手 Ann M. Cook 私たちは皆、バランスを取るのがなかなかうまくいきません。 家族の世話、ミニストリー、介護、奉仕は、私たちが抱えるほんの一例です。 たいてい、これらをすべて同時にこなさねばなりません。 JB...