2010/09/14

今日の霊的な訓練 

          
              ヘザー・A・グッドマン        

 私達はなんて不完全なものでしょうか。教会の女性たちが日々神様とつながり、創造主であるお方と強い絆で結ばれてほしいと思うのに、当の私達といったら、聖書の学びのテキストを書き、それを教え、スタッフミーティングに出席し、カウンセリングをし、行事の流れを見守り、それに出席し、特に必要を覚えている人からの電話を受け、ケアしている人に配慮している時には神様の臨在を忘れてしまうのです。

 

 神学校を卒業した後、私はその学位を用いて仕事につきました。4年間にわたる徹夜の勉強、ギリシャ語やヘブル語訳、「ルター曰く」という神学ゲームなどの中で、私はエペソ書の釈義が最もよくでき、信者を牧会できると思っていました。でも神様は私をまだ用いようとはされませんでした。まず静まり、主を知ることが必要だと私に教える必要があったのです。

 音楽家は、ラフマニノフの曲を弾くには日々スケールの練習をすることが必要だと知っています。同様に、他の人に生活を通して霊的な養いを与えるには、私達が神様と霊的な関係を持つことが必要です。霊的な訓練を復活させることで私達はこの関係を持つ方法がわかるようになりますが、それでもこの方法をどのように使ったらよいのかや、上司や子供たちの要求に応えながら過ごす教会内の女性達に、どのようにこの方法を実際的なやり方で伝えればよいのかがわからないことが多いのです。私達の霊的な歩みを具体的に測るカギは何でしょうか。



心の中の独り言を会話に変える。

 これは病的な精神状態のことを言っているのではありません。「絶えず祈る」(Ⅰテサ5:17)ことについてです。車の中で、スーパーで、退屈なクラスの間に、神と語ってください。スタッフミーティング中にはいらいらした気持ちを主に向け、渋滞の中では傷ついた友のために神にとりなしてください。別に神学的に深い祈りをする必要はありません。あなたが神の臨在を感じ続けることができるよう、神と会話してさえいればよいのです。



日々みことばに親しむ自分なりの方法を見つける。

 ダビデは「あなたに罪を犯さないため、私は、あなたのことばを心にたくわえました」(詩119:11)と言っています。この国では、聖書を通読するための機会がそれはたくさんあります。昼休みに日々のデボーションサイトにアクセスしてもよいし、通勤やふろ掃除の間に聖書を聴くこともできます。

 私達夫婦はこのごろ、その日読む箇所を区切ってあり、1年、2年、あるいは4年かけて読み通すことができるようにしてある旧新約聖書をThe Message訳で読んでいます。もしこういうやり方をするなら、2つアドバイスがあります。

(1)読めない日があってもがっかりしないでください。次の日にそこから読めばよいのですから。
(2)全てのニュアンスや意味がわからなくても大丈夫です。深くじっくり読むこともあれば、神がくださる新鮮な水であるみことばをただ浴びるという時もあるのです。研究者や教師として、注解書や辞書を開きたくなりますが、時には個々の意味を理解するよりも、例えばレビ記に出てくる聖さのように、大きく概観することで新たな思いが与えられることがあります。

 聖書通読は何も1月に始める必要はありません。自分の誕生日から、あるいは次ぎの月曜日からスタートし、終わったら特別なごちそうや祈りで主を喜ぶ時を持ち、さらに通読の過程で学んだことを3つリストアップしてみてください。

 日々のデボーションのもう一つのやり方は、オズワルド・チェンバーズの「いと高き方のもとに」やオンラインのデボーションThe High Calling's online devotional (www.thehighcalling.org)などのデボーションガイドを使う方法です。これらはより短時間でデボーションができるので、忙しい方には合っていると思います。食事時や夜入浴してリラックスしている時にも読むことができます(もちろん、ぬれた体のそばにあるコンピューターには注意が必要ですが!)。

 家族団らんの時にもしてください。夕食後、子供たちがビデオゲームに負けてだだをこねた時には、神様を第一にすることを教える機会となり、家族が神に近づくよい時となるでしょう。

 このところ、私はオーディオを通して聖書を聴くのが気に入っています。いくつかの団体ではMP3方式で聖書をダウンロードすることができ、コンピュータで聴いたり、CDにコピーして車で流したり、洗濯をたたみながら(乾燥機から引っ張り出してそのまま着るのではなく、私と同じように服をたたむのが好きな人にとっては)iPodで聴いたりすることができます。 



定期的に一食を断食する。

 断食はおそらく、霊的訓練としては最も多くの見解があるものの一つでしょう。誤って他の目的に用いることもできる反面、断食は神を喜ばせみこころを探るために、時間をささげる時とすることもできるのです。聖書には神の民がみこころを探るために断食した多くの例が出てきます(Ⅰ列21;ネヘ1:4; 9:1; ルカ2:37;使13:2; 14:23)。断食により、祈りや多くは主への奉仕に専心するのです。

 昼食をとりながらの会議や子供たちが食事をほしがると、断食は難しくなります。前もって日にちを調整し、神と交わるための日をきちんと確保してください。最初はあまり無理なことをしないでください。多くの人がまる一日断食しようとしますが、一食を断食してください。いつもなら食事をしている時間を祈りに使ってください。何を祈るかは心配しなくてもよいのです。神様に話すことがなくなったら、何か音楽をかけるか好きな詩篇を見つけましょう。午後になってお腹がグーグーなったら、それをキリストが私達のために犠牲となり、体をさいて血を流し、私達が子羊の祝宴に招かれているという希望を思い出す合図にしましょう。

 断食のかわりに、時間を決めてあるものを断つことにしてもよいでしょう。ある友人はお決まりのポテトチップをやめることにしました。なぜなら、彼女はがっかりすると、神様よりもかばんにあるポテトチップに慰めと平安を求めていたことに気づいたからです。私は1ヵ月間テレビをやめようかと思案しているところです(もし1ヵ月間、好きな番組がなかったらできると思いますが)。



喜んで犠牲を払う。

 以上は日々の生活の中で霊的な訓練を通して神とともに歩むめやすを表していますが、心に留めていただきたいことは、私たちが主に仕えるために、神様は私達を心地よいところから連れ出されるということです。ブログの時間、テレビ番組、あるいはいろいろな教会や地域の集まりに参加することでさえも、日常生活の中の何かをささげる必要が出てくるかもしれません。私達夫婦は、毎日聖書を読み祈るために目覚まし時計を早めにセットしています。夜だと私達はゆっくり静まることができないからです。

 時間に追われ、スケジュールの詰まったこの社会では、犠牲として召されていることを忘れ、インスタントな答えをほしがる女性達に犠牲を教えることを忘れてしまいがちです。

 私にとっては、毎日ピアノを練習する時間を確保するには訓練が必要ですが、独創的なやり方でストレスは軽くなります。もし何時間も、あるいは1時間でさえピアノに集中できないなら、5分でも、スパゲティをゆでるお湯が沸くまでの時間でもスケールや練習曲を弾きます。霊的な生活も同じような考え方ができます。毎日、毎週は何時間もとれないかもしれませんが、もしそうしたいと思うならキリストに焦点を合わせる時間を確保することができるのです。

 宣教においても、モラル上の些細な妥協をするのはたやすいことです。私達は皆、公には姿を見せなくなった有名な働き人を、少なくとも一人は知っていることでしょう。その結果をもたらしたと思われる行為は、彼らにとっては正しい狭い道から足を踏み外した第一歩というわけではないと思われます。生活において、私達を取り巻く世界に毒されるのはたやすいのですから。

 

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ヘザー・A.グッドマン(Heather A. Goodman)はダラス神学校卒、ライター・スピーカーとして仕えている。彼女については www.heatheragoodman.com.を参照のこと。




Copyright 2008 Heather A. Goodman. Translated from Just Between Us, 777 S. Barker Road, Brookfield, WI 53045.

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