2010/09/14

後悔することの危険性


              ステーシー・ウィークス        

 "ロトのうしろにいた彼の妻は、振り返ったので、塩の柱になってしまった。" (創 19:26)

 後悔は一般に知られている感情です。 聖書には後悔を招く決断をした家族の例がたくさん出てきます。ヨセフを奴隷として売り飛ばした兄たちは、後にヨセフの恩恵を受けて後悔しました。ダビデは自分の罪の重さを知った時、バテシェバとの情事を悔やみました。

 しかし、どちらの家の例も、いかに神様が愚かな選択を神の栄光の現れる機会へと変えてくださったかが分かります。ヨセフはひどい兄たちにあわれみを示すことで勝利しました。ダビデは主との交わりを回復し、ヘブル11章では神の御旨に従った人の一人として名前が挙がっています。

 後悔とは、私達がした、あるいはしなかったことについての思いです。過去の失敗に目をとめると、現在を正しく見るはずの目が曇ってしまいます。そして、聖書を見ると、神様は私達が失敗や愚かな決断をして後悔にさいなまれていても、秩序や正義を回復することがおできになるとわかります。インターネット上の調査によれば、何かをしたことよりも、何かをしなかったことについて後悔を感じる人がわずかに多いということです。したことであれしなかったことであれ、後悔は宣教にとってふさわしくない態度です。

 宣教と後悔とは、密接な関係があります。宣教のダイナミクスを見ればみるほど、私達がいかにしばしば、愛し仕えるように召されている人々を傷つけてしまうかがわかります。ほとんどの教会には、キリストの家族としての体のうちに失敗した計画、有害な言葉、漠然とした不満が山のようにあるのです。でも、過去の傷があったとしても、これが神をほめたたえるのに必要な教会という家族なのです。

 宣教に関わる女性として、私には後悔があります。妻として、母として、姉妹として、娘として、私には後悔があります。問題にどう直面したかで後悔し、どう避けたかで後悔します。苦々しさにしがみついては後悔し、利己主義になっては後悔します。信仰を持って歩めなかったことに後悔し、神を差し置いて前に出てしまっては後悔します。

 ロトの家族と同様、何かをしてもしなくても私には後悔があります。ロトたちはどんな後悔をしていたのでしょうか。怒った群集に娘を差し出してしまったことをロトは後悔したのでしょうか。ロトの妻は従って出てきたのを後悔したのでしょうか。ロトの娘達は、婚約者を残してきたのを後悔したのでしょうか。そして、ロトの妻は振り返って何を見たのでしょうか。

 ロト一家がそれぞれ持っていた後悔は、多くの教会という家族が持つ同じ種類の後悔を示しています。彼らの記事を概観し、共通点を探ってみましょう。その前の夜、男性たちは皆(老いも若きも)ロト家を取り囲み、彼らにとってはただの人間に思えた、客である二人の天使をレイプしようとしました。客を出せという汚れた群衆たちの要求があまりにも強かったので、ロトは代わりに処女であった自分の娘たちを差し出しました。

 私は母親として、こんな解決が許されるような文化の中で生活するのは想像できません。娘として、自分が犠牲として差し出されるのは考えることができません。妻として、こうした状況で言われるがままになることは想像できません。女性として、こんな罪からついに自由になったのに後ろを振り返ることが理解できません。

 ささいなモラルの乱れがどのくらい重なったらこのように大きなものになるのでしょうか。ロトと妻はどのくらい頻繁に信仰を妥協し、神を恐れぬ近隣の人々をなだめるために家族を犠牲にしていたのでしょうか。ソドムとゴモラの堕落はひどいものでした。非常に退廃しており、ロトの申し出に嫌悪感をいだく親はいませんでした。

 宣教においても、モラル上の些細な妥協をするのはたやすいことです。私達は皆、公には姿を見せなくなった有名な働き人を、少なくとも一人は知っていることでしょう。その結果をもたらしたと思われる行為は、彼らにとっては正しい狭い道から足を踏み外した第一歩というわけではないと思われます。生活において、私達を取り巻く世界に毒されるのはたやすいことなのです。

 感謝なことに、神様は介入してくださいます。神様は御使いを通してロトを安全な神の家に連れ戻そうとされ、罪に汚れた町を滅ぼすように命じられました。なんという神様の恵みでしょうか。ロト達のお粗末な親としての姿勢や過去の妥協にもかかわらず、神様はロトの家を回復する価値があると思われたのです。

 ロトの家族を救い、山に逃れ場を与えるという神の計画を御使いが彼に知らせた時、ロトは躊躇しました。なんと、彼は躊躇したのです!その前の晩に彼の家の戸口でひどいことが起こったのに、彼は行くことを躊躇しました。御使いは急ぐようにと言いましたが、ロトはぐずぐずして「山に逃げるのでは死んでしまいます。あそこの町に逃れ、生きのびさせてください」と、取り引きをしました。神様はロトの家族にさらに恵みを与えてくださいました。

 なぜ神様はロトの家族にさえ目をとめてくださったのでしょうか。ロトは罪深い周囲の環境に影響され、自分の娘さえ犠牲にしようとしました。神様の恵みを受け取るのを躊躇しました。神様がくださるよりもずっと良さそうに思えたものを取り引きしました。感謝をあらわさないことについて話しましょう。

 私は神様の恵みをいただくのに何度躊躇しているでしょうか。恵みを分かち合うのを何度躊躇しているでしょうか。私にはロトとの共通点が多くあります。また、教会の人々との共通点もたくさんあります。救いは神の恵みによって与えられたもので、私自身の功績ではありません。恵みによって救われましたが、私自身はそれに値しない者なのです。宣教において、時にはフラストレーションを感じるような出来事がありますが、神様はご自身の子どもたちに下さった価値をごらんになり、どんな時にも御腕の中に備えてくださった安全な場所へと私達がかけこむ機会を与えたいと願っておられるのです。

 ロトの一家は私達の多くと似ています。霊性に欠けていると気づきながらも、変化することを先延ばしにしてしまうのです。ロト達は変革の必要性を最も認識した人たちではありませんでした。だから時にかなった方法でそれを成し遂げることができませんでした。あなたも、先延ばしになった変革に取り組む人々でいっぱいの教会で働いているわけではありません。私達はいかに自分の罪、ためらい、後ろを見たいという思いにしがみついていることでしょうか。

 ロトの家族が命がけで逃げた時、彼らは一つのことを命じられました。それは、後ろを振り返ってはいけないということでした。ロトは振り返りませんでした。娘たちも振り返りませんでした。しかし、彼の妻は・・・その時何を考えていたのでしょうか。

 やっと周囲の悪から自由になり、ロトの妻は喜んで神様が下さる未来の備えに目を向けるべきでした。しかし、彼女は振り返ってしまったのです。好奇心からでしょうか?財産のことを考えたのでしょうか。滅びる隣人を哀れに思ったのでしょうか。自分自身の経験から、ロトの妻は家や友達、そこでの快適な暮らしを思い出して振り返ってしまったのだと私は確信しています。私はいつの間にか快適な罪に戻ってしまうことがなんとよくあるでしょうか。不快な言葉や配慮のない行為を後悔しながら、次の日にはまた繰り返してしまうことがどれほどあることでしょうか。なんとたやすく、有害な罪のパターンに戻ってしまうことでしょうか。



 私もロトの妻と同じです。赦すのをためらったり、過去の傷を覚えていたり、現在に不満を抱いていたりと、前を見る代わりに後ろを見ていることがたくさんあります。自己中心的な選択を正当化するのはたやすいのです。

 私には彼女の思いが耳に聞こえるようです。「ちょっと見るだけ。それぐらい、大丈夫よ。逃げてきたのだもの。大丈夫に違いないわ。」私も同じような考えをしています。不従順を正当化してきました。ちょっと見るだけ。ちょっと口にするだけ。ちょっと考えるだけ。ちょっとするだけ。それぐらい、大丈夫。「ほんの小さな罪に過ぎないわ」と考えます。でもそうではないのです。

 1回だけ後ろを振り返るというのは、神様が直接命じられたことに対してわがままで不従順な行為です。してはいけないのです。神様は私達に前を向き、ゴールラインに集中してほしいと思われるのです。私達が自己憐憫にふけり、神のあわれみを御顔に投げ返すようなことをするなら、神様からの答えはつかの間で、最終のものとなる可能性があります。ロトの妻は後ろを振り返る人すべてへの神様からの警告を示すモニュメントとして、永久に塩の柱になってしまいました。この塩の柱は私達に警鐘を鳴らしてくれているはずです。後ろを振り返るのはとても危険なことですから、いつも前進し続けましょう(ピリ3:13-14)。

 ロト一家から学ぶことは何でしょうか。宣教のダイナミクスは家庭のダイナミクスによく似ています。過去のことを後悔している教会は未来に焦点を合わせ、自由を得るため神を見上げることができます。神様は教会という家族に与えてくださった救いの価値をご覧になり、赦しを与えて神の子たちの間で癒しと共感がなされるようさらに恵みを与えたいと望んでおられます。そして最後に、やみくもに決断すると非常に後悔する原因となることがあります。他のグループに変化を強制することはできませんが、自分自身が傷にどう反応するか、苦々しさをいつまで持ち続けるか、どれほどしばしば攻撃をしてしまうかなどは変えることができます。

 神様がつらい過去や罪深い選択からの脱出をさせてくださるという時には、神様の恵みを受け入れてください。前進し、二度と後ろを振り返らないでください。



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ステーシー・ウィークス(Stacey Weeks)は牧師夫人。夫はオンタリオ湖畔のナイアガラでファミリーライフ(家庭生活)・パスターとして仕えている。また彼女はメンタリング、執筆、女性のミニストリー、読書などの活動にも参加している。



Copyright 2008 Stacey Weeks. Translated from Just Between Us, 777 S. Barker Road, Brookfield, WI 53045.

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