2020/05/11

孤独な日々は神様に近づく時


ウイルス | 無料のベクター画像、写真、PSDファイルをダウンロード




リサ・エリオット(Lisa Elliott)


皆さん、お変わりありませんか…ソーシャルディスタンス(社会的距離)はうまく保てていますか?
孤独を感じていませんか?

オンラインなどで私が連絡をとった人たちからは、悲喜こもごもの声があがっています。
ある人は、何年も手付かずになっていたことをようやくできる、と喜んでいます。
一方で、ある人は何をしていいか全くわからないと言っています。
必死に計画やできることを見つけようとしている人もいれば、休息の時だと歓迎する人もいます。
できる限りのあらゆるSNSを利用しようとする人もいれば、独りで静まる時を持つ人もいます。

私自身は、この一連の経験を通して、10年余り前のことを思い出しています。
18歳だった息子のベンが白血病と闘っていた時、私は自主的に隔離された生活をしていました。
彼の免疫力が下がっているとのことで、私は外界との接触を制限しました。
これまでの生活は一変しました。
社会的なつながりはタブーでした。
ブッフェやサラダバーの食事は避けるべきという制限が課されました。
病院で息子のベッドのそばに付き添う時は、入室前に消毒をし、マスク、手袋、ガウンを身に着けました。
自宅まわりは、ばい菌が繁殖しないようできる限りすべてを清潔に保ったことは言うまでもありません。
玄関には、訪問するすべての人が使えるよう消毒液さえ設置しました。
「普通の」生活は突然なくなり、家族と私は「新しい普通」に入りました。
最悪の事態に備えるため、最善の希望を持つことを学びました。

共通点があるなあ、と思われますか?
コロナウイルスの感染防止のために過ごす最近の日々と似ているのです。
あなたは以下のような経験をしているでしょうか。
   
  • 命を脅かし、健康を脅かし、思考に影響を及ぼし、活動を調整させ、関係を断つものに対しすでに知っていると考えて、実際に見ていない状況を何とかしようとしている。
  • 全然いつも通りではないとわかりながらも、落ち着いていつものように仕事をしようとしている。
  • 内心は不確実、無知、不安と恐れがわきあがっていても、外見は平静にしている。
  • 目に見える限界とだんだん増えていく制限があっても、なるべく自由に過ごそうとしている。 
  • 自分の世界の何かがおかしくなってしまったという感覚を覚えつつ、先行きが見えずぼうっとした虚無感の中で日々過ごしている。
  • 本当はほとんど何もコントロールできないと知りつつも、コントロールできるかのようにふるまっている。
  • 本当に目的があるのかな、と思いながら、目的をもって生活することを選んでいる。
  • 書き物をするペンを鉛筆に持ち替え、手にはいつも消しゴムを持っている。
  • 目まぐるしく変わる生活に絶えず順応しようとしている。
昨今は、ヤコブ書のことばを実感することでしょう:
「『今日か明日、これこれの町に行き、そこに一年いて、商売をしてもうけよう』と言っている者たち、よく聞きなさい。あなたがたには、明日のことは分かりません。あなたがたのいのちとは、どのようなものでしょうか。あなたがたは、しばらくの間現れて、それで消えてしまう霧です。あなたがたはむしろ、『主のみこころであれば、私たちは生きて、このこと、あるいは、あのことをしよう』と言うべきです」(ヤコブ4:13~15)。

もし、この想像もしなかった不安と混乱の時が、私たちが目を覚まして本当に大切なことに心を向けるように、と神様が意図されたものだとしたらどうでしょうか。
おそらく、神様はこの歴史上特異な時期を用いて、私たちがこれまで思い込んでいた生活を再調整させてくださっているのかもしれません。
もしかすると、このパンデミックは「私たちが自分自身に頼らず、神に頼る者となるため」(第二コリント1:9)なのかもしれません。
現在の社会的孤独は、私たちがもっと深い次元で神様とつながる特別な機会として与えられていると言いうるのかもしれません。

一つ、確かに言えることは、先行きの見えないこの状況にあって、私たちは離れていても決してひとりぼっちではないということです。
神様は決して私たちを離れたり捨てたりすることはないと約束しておられます(申命記31:6、ヘブル13:5)。
私たちが神様につながり錨を下ろしているなら、神のことばは私たちの不安定な日々にも揺るがない希望を与えてくれるのです。

「神に近づきなさい。そうすれば、神はあなたがたに近づいてくださいます」(ヤコブ4:8)。

2019/10/29

夫に腹が立った時の対処法

   


Pam Farrel


世界中のどこに行っても、結婚生活には同じような悩みがあります。
例えば、共通する話題の一つに「相手の最も好きだった所が、最もイライラする所になった」があります。
それはコインの裏表のようです。
コインをひっくり返して「そうだ、この人を好きになったのはここだった」と思い出す必要がありますね。

夫のビルはコーヒーが大好きです。
しかし、同時にとても困った癖があります-飲んだ後、マグカップをシンクに持ってこないということです。
ガレージ、車内、クローゼット、庭の小道、玄関やポーチ、書斎、階段、洗面所…、思いつく限りのあらゆる所で飲んだ後のマグカップが放置されています。
旅に行くごとにマグカップを買い集めておいてよかったです。全てのカップに出番があるのですから!

マグカップを片付けてくれないのをどうしたらよいでしょうか。
私自身はあまりコーヒーを飲まないので、余計に気になります(もっとも、コーヒーを飲むと私は動悸が激しくなります。ビルだけが私の心拍数を早くするものであってほしいいですね!)。
ビルによれば、私は神様によってカフェインを取ったのと同じ状態にされているそうで、私の動きに合わせるためにはコーヒー3杯が必要だというのです。
ともかく、彼はコーヒーを飲まねばならないのですね!

たとえ腹立たしい所があっても、夫を愛し共に生活するためのアドバイスは以下の通りです。

違いを感謝する
コーヒーはもはやビルの一部です。
引っ越しの準備をしていたある日のことです。最後の洗い物をしていて、私はそれが全てコーヒーマグであることに気付きました。なんと47個もの!
「イエス様、どうしてこんなにすてきで信仰深く有能な人が、カップをシンクにもってくることができないのでしょう?」と腹立たしく思いました。
マグカップの問題が夫婦喧嘩のベースにあることがわかっていましたから、どうにかして解決したいと思いました。
でも、何を言ってもビルには改善の兆しが見られませんでした。
それで、ひょっとして私の側から歩み寄らねばならないのかもしれないと思い、祈りました。
すると、神様は私の心にささやいて答えてくださいました。
「なぜビルはコーヒーが大好きなのだろうか」
「主よ、ビルは働き者なのです。だからカフェインが必要なのです」
と私は心で答えました。

神様は再びささやかれました。
「よく働く男性と結婚したのは、恵みではないのか」
今度は、私は心から「はい!」と答えました。

以来、置きっぱなしのマグを見かけるたび、私はビルのために祈ることにしました。
やがて祝福も合わせて祈ることにし、コーヒーマグを見るたびに彼の祝福を覚えて祈り始めました。

コーヒーマグを見ながら「愛は多くの罪をおおう(1ペテロ4:8)」の原則を当てはめて祈りました。
(もちろんコーヒー自体は罪ではありませんが、ビルがカップをシンクまで持ってこようとしないことは彼の欠点だと言えます…少なくとも私にとっては。)
今日まで、私は長年汚れたコーヒーマグを片付けています。
そのたびにカフェインが必要な程ビルは働き者であること、彼が素晴らしい働きをし、私を含む多くの人々に祝福をもたらしていることを思い出しています。


違いを祝う
ビルの50歳の誕生日に、私たちはコーヒー畑に行きました。
ビルは豆を選びローストしてもらって、自分だけのブレンドを作りました。
畑を訪れ、豆を選び、絶妙にローストし、ラベルを選ぶのに午後の半日まるまるかかりました。
でも、彼が座り、特製コーヒー(Farrel家のマウンテン・サンダー・ウィーンローストコーヒー)の香りをかぐのを見て、よい外出だったと確信しました。
そのコーヒーを一口味わい、カフェインが入ったこともありますが、彼の顔はとても嬉しそうに輝きました。
その顔を見て私まで嬉しくなったのです。

違いを組み合わせる
私は、特製のコーヒーブレンドの豆を切らさないよう気を付けています。
特製のコーヒーを飲むたび、ビルは私への愛情を新たにしてくれるのですーちょうど、私が空のマグを思いがけない所で見つけた時のように。

マグを見つけるたびビルの為に祈るというのは、いまや私の生活のリズムになっています。
夫の腹立たしい所があったら祈りに変えましょう。お祝いに変えましょう。あるいは、彼を驚かせるデートに変えましょう!

2019/08/17

神の目から見たリーダーシップ

      
「caregiver」の画像検索結果     Melva L. Henderson

2015年12月15日に祖母が召されました。
葬儀では、牧師や教会の人たちによって祖母の主に仕えた足跡が語られました。
1時間近くも、祖母がいかに人々に仕えることに打ち込んだかが話されました。
祖母は仕える人でした。
私が生まれた日から、彼女は私のために仕えてくれました。
私の家族、いとこ、おば、おじなど、親戚だけでも60人近くの人々のためにも彼女は仕えました。
論争や仲たがいが起こった時にも祖母は誠実でした。

ある日、どうして仕え続けることができるのかを尋ねると、祖母は「イエス様が私をここに置かれたのだから、私自身にはここでの奉仕をやめる権利はないのよ」と答えました。
イエスは「あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、皆に仕える者になりなさい」(マタイ20:26)と言われました。
肩書はありませんでしたが、祖母はリーダーでした。

「あなたがたの間で一番偉い人は、一番若い者のようになりなさい。上に立つ人は、給仕する者のようになりなさい。食卓に着く人と給仕する者と、どちらが偉いでしょうか。食卓に着く人ではありませんか。しかし、わたしはあなたがたの間で、給仕する者のようにしています」(ルカ22:26-27)。

普通に考えれば、イエス様がおっしゃったことはばかげていると思えます。
偉くなりたいなら、一番下の者にならなければならない?
自分を無にして、どうやって偉くなれるのだろうか?
でも、イエス様はご自身の謙遜さを身をもって示してくださいました。
ピリピ2:6-7には、イエス様が神としてのあり方を捨てられないとは考えずに、ご自分を空しくして、しもべの姿をとってくださったと書かれています。

この世は、リーダーになりたい人であふれています。
人々はなんとかして前に出たい、上に立ちたいと奮闘していますが、イエス様の望まれることは明らかです。
もし上に立ちたいなら、下に行きなさい、と。
イエス様はリーダーシップよりもサーバントシップ(仕えること)について多く離されました。
私たちが他の人々に仕えること、支えることで忙しいなら、その過程で私たちはリーダーになっているのです。

「仕える」の元のギリシヤ語は"diakonos”で、「伴う、牧する、他の人の願いを実現する」という意味です。
これが仕えることであり、同時にリーダーの最も基本的な定義です。
リーダーとは自分の利益を求めず他の人の利益を求める人です。

イエス・キリストは歴史上最も偉大なリーダーですが、それは彼が最も偉大なしもべだったからです。
マルコ10:45では、イエス様は「人の子も、仕えられるためではなく仕えるために、また多くの人のための贖いの代価として、自分のいのちを与えるために来たのです」と言われました。
この奉仕と犠牲により、私たちは今こうして生かされています。

私の経験から言うと、前に立ちたいと思わずにただ他者を助けたいと願う人たちを、神様はしばしば前に立つようにされます。
神の目には、真のリーダーシップは承認を得ることでも称賛を受けることでもありません。
他の人々に仕えることなのです。
残念なことに、多くの人たちは承認や賞賛を得るほどには真のリーダーシップに関して関心を示しません。

レイチェルという宣教師の話を思い出します。
彼女は宣教地で素晴らしい奇蹟を目にし、彼女自身も神様によって多くの人の癒しと解放のために用いられました。
しかし本国に戻ってからは看護助手として働きました。
仕事の中には、便器をきれいにするというものもありました。
便器を掃除しながら、ある日彼女は主に祈り叫びました。
「あなたは私を世界中で用いられました。奇蹟や人々が救われ癒されるのを見てきました。それなのに、私のその後はこれですか?便器の掃除なのですか?」

主は彼女に語られました。
「レイチェル、これらの便器を私のために掃除してほしい。プライドを捨てて、この便器を使っている人たちに謙遜に仕えてくれないか。この仕事を、私のためにしてほしいのだ。」
レイチェルは泣きながらひざまずき、悔い改めました。
そして祈りながら便器を掃除するようになりました。
すると、その便器を使っていた人たちに一人、また一人と奇蹟が起こりました。
まさにしもべの心を持つことによる力でした。
彼女が自分自身から他の人々へと焦点を移し態度を変えたことで、神様が祝福したいと思われる人への癒しのために用いられたのです。

リーダーになることや前に立つことに一番の関心を持つよりは、偉大なしもべの心と思いを持つ者であるようにと願ってください。
純粋で謙遜な心で仕えることができるようになればなるほど、神様の目にあなたはリーダーとして映ります。
そしてあなたを用いて神様が他の人をますます祝福することができるのです。


2019/01/22

障がい児の親が平安を保つ5つの秘訣

Tammie Swaney タミー・スワニー


これから述べようとすることは、自己中心的で「母親らしくない」と思えるかもしれません。
それでも、肉体的には疲れ果て、感情面は心配、さらに精神的にまいってしまい、時には怒りがこみあげてくるという経験を通った私は、以下のことを心からあなたに分かち合いたいのです。

よい香りの入浴剤(Calgon moment)で気分転換しても一日やりきれない時、私は罪悪感と戦ってきました。
障がいを持つ子供を育てるのは、あられの中でロッククライミングをするのと同じくらい大変なことと言えます。
もちろん、どんな子どもでも困難な面はあります。
しかし両者の違いは、障がいを持つ子供が周囲の状況を理解できているのか、あるいはただふざけて親の言うことを聞かずに笑っているのかがわからない、ということです。

普通の子どもなら多くの節目を迎えます。
運転免許を取り、卒業ダンスパーティーに行きます。お泊り会、初めてのボーイフレンドあるいはガールフレンド、親子の会話、そしてちょっとした反抗。
「普通」とは日常のことを差します。
しかし、驚かれるかもしれませんが、障がい児を育てる普通とはずっと同じ状態が続くということです。その子の子ども時代が続き、そこであなた自身をいたわり身体・心・魂の安息を見出すことです。

 「永遠の5歳児」である私の息子ニコラス(ニック)は、本やドラマ、著名人(フィル博士やドブソン博士)、子ども番組(セサミストリート)では決して学べない、いくつかの子育てに関する事柄を教えてくれました。
彼は皆の心を引きつけ、地球上の誰よりも多くの愛情を受けています(親ばかですね)。
17歳のとてもやさしい子どもです。
けれども、気をつけなければなりません!興奮すると大暴れするので、数秒前までの我が家の平和な状態をめちゃくちゃにしてしまいします。
興奮する理由は誰にもわからず、すぐ対処するすべもないのです。

私にとって幸いなのは、夫のティムが積極的に子育てに関わってくれ、さらに神様が我が家を導いてくださっているので、耐えがたい日々を切り抜けられているということです。
障がい児を育てるという試練の中で気を確かに持ち続ける5つのステップを以下に示します(すべての親、すべての子どもに当てはまらないかもしれませんが、私たちにとって助けになっているものです)。


1. 神様と過ごす時を持つ。

神様のことばを読み、黙想し、力を得る時間を作ることが何よりも大切です。
神様は私たちがまさに必要な時に必要な方法を示してくださいます。
みことばは永遠の啓示であり、みことばを掘り下げる時に私たちは回復します。
「試練の日々」の中で私を支えてくれたいくつかの聖句を紹介します。

・「怒っても、罪を犯してはなりません。憤ったままで日が暮れるようであってはいけません。(エペソ 4:26)」
 叱った後でも一緒に座り、どれくらいニックを気にかけているかを示し、いつも消灯前には「愛しているわよ」と語りかけます。

・「私を強くしてくださる方によって、私はどんなことでもできるのです。(ピリピ 4:13)」
全てを失い、話す力もなくなった時、頼るべきは自分の力でなく神の力である、ということをこの聖句は思い出させてくれます。神様だけが私を持ち運んでくださるのです。

・「モーセの手が重くなると、彼らは石を取り、それをモーセの足もとに置いた。モーセはその上に腰掛け、アロンとフルは、一人はこちらから、一人はあちらから、モーセの手を支えた。それで彼の両手は日が沈むまで、しっかり上げられていた。(出 17:12)」
 これは最後の手段という聖句ではありませんが、必要な時には祈りの勇士である友人に電話し、支えてもらえるのだと思い出す重要な聖句です。誰でも疲れ果てた時にはそうした祈りの勇士に支えてもらう必要があります。


2. 夫婦で過ごす時を持つ。

これは難しいとわかっています。私たちは忙しいスケジュール、長時間の仕事と家事で疲れ切っているからです。
しかし、夫婦で過ごす時間は家庭を強くするのに必要な要素です。
夜の外出や、せめてコーヒーを飲む時間をとってください。
私の義兄は最近がんで倒れました。
姉が、一番つらいのは朝だと話してくれた時に心が痛みました。
朝は二人だけでコーヒーを飲みながら一日のことを語り合う時だったのです。
それは貴重な時間でした。
こうした貴重な時を見逃さないでください。
共に祈り、語り合い、手を取り、寄り添い、回想し、未来の計画を立てる時間を見つけて下さい。
そうすれば一致して力を合わせることができます。


3. 自分自身の時間を持つ。

私は霊的養いのリトリートに毎年参加します。
また、趣味も持っていて、女性どうしで楽しく過ごします。
姉妹でランチをしたり、iPodを聞きながら歩いたりします。
寒い夜にはニックが寝た後、好きな小説を読みながら紅茶を飲むのもお気に入りの静かな時です。
ほっとする時を作って下さい。


4. 予定を守る。

我が家にはニックの他に20歳の子もいます。
仕事、スポーツ、大学、余暇と、彼の多彩な活動スケジュールを把握するのは困難です。
しかし、私たち夫婦とニックに関しては、スケジュールをかなり固定化しています。
ニックにとっては規則的な1日が心地よく、調子が良くなると私は学びました。
友人から誘いを受けても翌日に差し障ると思われる時には、後ろめたいと思わずに断ることもあります。


5. 子どもから学ぶ。

障がいのある息子が示す愛の大きさは驚くほどです。
イエス・キリストの愛以外には経験したことがない大きさです。
それは無条件の愛です。
愛はニックから輝き出て、まさに伝染していきます。私が人々をどう愛せばよいのかを、たえず気づかせてくれます。
その愛にはごまかしや偏見がありません。
これこそイエス様が福音を通して教えられた愛です。
「『あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、知性を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。』これが、重要な第一の戒めです。『あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい』という第二の戒めもそれと同じように重要です(マタイ22:37-39)。」

もしあなたが障がいのあるわが子とこうした日々を過ごしているなら、イエス様の臨在のうちには平安があることを思い出してください。
一瞬一瞬を切り抜けるのに必要なもの全てを彼が備えてくださいます。 
あなたに障がい児を育てるという特別の仕事を与えて下さったのであり、その子はキリストの愛を完全に表すことができるのです。
この子どもを世界に分かち合う機会を与えて下さった神様に感謝します。


*この記事が書かれたのち、タミーの愛する息子ニックはしばしの闘病期間を経て地上の生涯を終え、天に帰りました。

人生最高の時はこれからだ



神は、若くなくても喜んで働く人を必要とされる。

Patricia Raybon




私はもう25歳ではなく、45歳でもなく、65歳でもありません。
でも神様は気にはなさいません。
月曜日には私の電話が鳴ります。メールの受信箱はいっぱいです。
やる事はたくさんあります。
聖書が言うとおり収穫は多いのです。神様が私に望まれる働きがあります。
年齢を重ねて最も驚くのは、神様は年齢など気にされないということです。
神様は喜んで働く人を必要とされます。
私の生活で最大の関心事は、髪を染めること、太ももを細くすること、若返りの注射をすることではありません。
ただ、たゆむことなく神様のために喜んで働こうとしているか、に尽きます。

私は自分のライフステージや年齢で葛藤したことがありません。
それは私が常に働き続けてきたからです。
年齢や人生の段階、召し、肌の色にかかわらず、働くことは魅力的で聖なるものです。
かつては人生の最高の時期とは能力と賜物によるのだと考えていましたが、最高の時期とは神様の私達への目的、そして私達がそのために喜んで働くかどうかによるとわかりました。
89歳のニューヨーク・ブルックリンに住む芸術家について、ニューヨークタイムズの最近の記事は「彼女の長生きの秘訣はよく働くことだ」というものでした。

幼い頃から父はこの原則を教えてくれました。父には息子がいませんでしたが、「娘たち」すなわち私達姉妹がいました。私達は黒人差別の残っていた1950年代に生まれました。黒人居住区で育った私達は、毎日夜明けに起きてベッドを整え、皿を洗い、床や洗面所の掃除をし、そして岩を運びました。

まさしく、岩を運んだのです。それは公正住宅法(訳注:1968年米国で、住宅の譲渡・賃貸の人種差別を禁じる法律)が成立した1960年代のことでした。
働き者の両親は街中心部にあった懐かしくも狭苦しい小屋から、森林地帯にある広く清潔な新しい集合住宅に黒人の(私達)家族が引っ越すことを選びました。
それは私達にとって新たな始まりでした。新居は郊外の同じような風景にあり、家の前は岩がごろごろして何もありませんでした。
誰のものでもない空間でした。
そこである土曜の朝、父は私たち姉妹を早くから起こし、岩をすべて取り除くようにと言いました。
父はそこに何とか芝を植え、郊外にふさわしい芝生の庭にして隣人たちをなだめようと決めたのでした。
それで、私は岩を運びました。一日中。

私はやせた14歳で、岩は重かったのですが、空は青く太陽は輝いていました。
そしてその仕事は(仕事というものはたいていそうですが)、底抜けに良いものでした。
一日の終わり、自分の影が長くなってくる時間にそこに立ってすっかりきれいになった庭を見ると、苦々しい思いではなく、にこっと笑顔がこぼれました。
「よくやった」父が言いました。
「ありがとう、パパ。パパもよくやったね」と私も言いました。

父が教えてくれた事のうち、第一はキリストと十字架にある満たしでした。
そして第二は働くのはすばらしい、ということでした。
年齢?そんなことは関係ありません。
私たちの若いことを良しとする文化の中では、年を取ることは悲しむべきこと、軽くあしらわれることです。
皺は恥ずかしく、白髪は隠すべきものと思われています。

はっきりしているのは、私たちの文化には出エジプト記の内容が反映されていないということです。
3章には、モーセが義父イテロの羊を飼ってシナイ山に登った記事があります。
彼は80歳でした。
けれども神は彼の年齢など気になさいませんでした。
むしろ神はモーセに目を留め、山にいた彼に恐らく最も優しい言葉で語りかけられました。
「履き物を脱ぎなさい」と。
どういう意味でしょうか。
イテロの羊を飼って時を費やすのをもうやめなさい。
聖でない土地で履き物をパタパタさせて歩くのをやめなさい。
そうではなく、私の前であなたの履き物を脱ぎなさい。
そして?
本来の仕事にかかりなさい。
たとえ信じることができなくても、全てをあなたが変えることができる、とモーセは語られたのです。

もちろんモーセは尻込みしました。
自分はふさわしくない、と答えます。
「彼らは私の言うことを信じず、私の声に耳を傾けないでしょう…私は口が重く、舌が重いのです」(出4:1、10)。
今日でもモーセの言葉は私達のほとんどに当てはまるでしょう。
自分を疑い、うろたえ、勇気のない姿が。

しかし、モーセが口にしなかった印象的なことがあります。
80歳でしたが、彼は決して「私は年を取りすぎているのではないでしょうか」とは尋ねませんでした。
彼は他のことを心配しました。話下手なこと。まとまりのない人々を導く能力。
しかも、若さとはかけ離れた83歳の彼の兄アロンと共に行くことを願ったのです。

モーセは年齢を心配することはありませんでした。
ならば、私達も心配する必要があるでしょうか?

私達の多くは、ある年齢に達すると立派な人になり目的を達成するのだと思っています。
そして人生の表舞台から身を引き、ゴルフコースや自宅の玄関で過ごし、何かをなすには年を取りすぎたと言うのです。
けれども、聖書には引退という概念がほとんどありません(例外は民数記8:24-25のレビ人の奉仕)。
年齢に関しては、神様は何も気になさらないようです。
年月の創造主として、神様は引退の日を数えるのではなく、「自分の日を数え」、
「知恵の心を得」るようにと言われます(詩篇90:12)。

聖書にはいわゆる「素晴らしき日々」を過ごす英雄たちがたくさん出てきます。
アブラハムとサラはそれぞれ100歳、90歳でしたが、約束の息子を生み、国民を育てました。
ノアは600歳で箱舟を作りました。
ザカリヤとエリサベツはバプテスマのヨハネの親となった時には「二人ともすでに年をとってい」ました(ルカ1:7)。
女預言者アンナもまた、「非常に年をとって」も宮で仕え、注意深くメシヤの到来を待ち望んでいました。
ついにイエスを見ても、彼女は働きをやめて引退したのではありませんでした。
そうではなく、ますます熱心に「エルサレムの贖いを待ち望んでいたすべての人に」この幼子のことを話しました(ルカ2:36-38)。

私達に託されたことは、アンドリュー・マーレ―が言うように「働きと果実を混同してはならない」ということです。
「天の国の果実を結ばない、キリストのためにすると思っている働きがたくさんあるかもしれない」のです。
働き者の父はこの真理を理解していました。
野望や利己的な関心から悪い動機でする働きは、御国の目的や油注ぎがなく、天的な喜びもない、ということを。

父は日曜日に私達姉妹を教会に連れて行き、人生の全ての日を神様に捧げるなら、神様があらゆる瞬間を素晴らしい時にして下さることを私達に知ってほしいと思っていました。
父は、大人の期間をものづくりをした「大工」を、ガリラヤ地方に向かい世界を変える30歳までそうして待った「大工」を、私達に知ってほしいと思っていました。
彼はいつも働かれました。
そして私たちに素晴らしい約束を下さいました。
誰でも彼を信じるものは「さらに大きなわざを行います」という約束です(ヨハネ14:12)。その「わざ」とは奇蹟です。

私達には岩を動かす以上のことができると彼は言われました。
「山を動かすことができます」(マタイ17:20)と。
どのようにしてでしょう?
イエス様は説明して下さいました。それは「わたしが父のもとに行くからです」(ヨハネ14:12)と。
この良い知らせは、キリストから私達に送られた聖霊が、私達を強め、たゆむことなく御国のために働き続けるために隠れた能力を明るみにされるということです。

私が知る最も高齢の女性は現在105歳ですが今なお活動的です。彼女はアドバイス(私にくれた最上のもの)と共にこの真実を実証しています。
「よく長生きする方法、それはあなたのペースで歩み続けることよ。」
それに付け加えて「忙しくしていなさい。ただし、聖霊様に働いていただきなさい」と言いました。

私は60代後半に差しかかっていますが、電話は鳴り続けます。私は感謝しながら受話器をとります。
私は喜びをもって応答します。なぜなら、年ごとに収穫はよいものになっていくからです。
なぜかですか?
それは神様がよい果実を私達皆の中に実らせてくださるからです。



2018/11/21

借り物の心配 Secondhand Worry






他人の問題を心配していませんか?
  バーブ・ルーズ 



他の人の問題を、あなたはつい心配してしまいますか?

ある日、友人のレアがもう限界だと言って電話をしてきました。
しかし、それは彼女自身の悩みではなく、成人したレアの子どもの問題のためでした。
息子の罰金を彼女が払っており、息子が刑務所に入れられるのではと恐れていたのでした。
レアは、同じく成人した独身の娘が思いがけない妊娠をし、経済的に不安定であることで夜も眠れなくなっていました。
両方の子どもの状況に、レアは感情的にも経済的にもほとほと疲れていました。

子どもたちの問題についてのレアの心配は「借り物の心配(secondhand worry)」として知られています。
他者の煙による受動喫煙のように、借り物の心配をする人は他人の問題を心配しイライラするか、あるいは自分が肉体的・感情的に影響を受けるかしてしまいます。


あなたにはこれらに心当たりがあるでしょうか。
  • 息子が理科の宿題を終わらせないので、落第して次学期に影響が出るのではないかとイライラし困っている。
  • 30歳の妹は自由を満喫しているが、健康保険にも入らず金の無心をしてくるので心配している。

私たちが借り物の心配から解放されないと、どうなるでしょうか。
他人の責任を自分が負うことになります。
さらに悪いことに、その人たちが自ら学ばねばならない人間関係・経済的・霊的な人生の過程を、気づかないうちに奪ってしまうのです。
(回復の原則をご存知ですか。借り物の心配は共依存関係を生じさせ、助長させうるものです。)


ヨシュア記9章には、イスラエル人が約束の地に入ってきたこと、エリコとアイの戦いに勝利したことを、カナンの地に住んでいたギブオンの住民が聞いたという記事があります。
ギブオン人は殺されるのではないかと恐れ、「彼らもまた計略をめぐらし、変装を企て」ました(ヨシュア9:4)。

ギブオン人は使者をヨシュアと族長たちのところに送りました。
自分たちは平和の盟約を結ぶために遠い国から来たのだ、とイスラエル人に言いました。
ヨシュアが旅人を調べると、古びた服装をし古びたぶどう酒の皮袋を持っていました。
族長たちは再度使者を疑い、すぐそばに住んでいるのではないかと尋ねました。
神が、カナンに住む民とは盟約を結んではならないと禁じられていたからです。
しかし、ギブオン人はとても遠くから来たと言って、イスラエル人にうそをつきました。
彼らの話は恐れと心配に満ちた、長く詳細なものでした。


私たちは自分と関係のある人が個人的な責任で悩んでいるとき、その悲しい話を額面どおりに受け取りがちです。
気の毒に思い、助けたくなります。
しかし、話の細かい部分に関心を持ち過ぎると、事実を見失ってしまいます。
これまで出会った失業中の人が、今回の失業は自分のせいではないと長々と話すのを何度となく聞いたのではないでしょうか。
10代の子どもが宿題を忘れた言い訳をし、自分に対する教師の不公平な扱いに長々と文句を言うのを何度も聞いたことがあるのではないでしょうか。


ヨシュアとイスラエルのリーダーたちはギブオンの住民の話をうのみにし、信じたことによって重大なミスをしてしまいました。
ヨシュア記9:14には「そこで人々は、彼らの食料のいくらかを取ったが、主の指示をあおがなかった」とあります。

その結果、イスラエルはギブオン人と盟約を結びました。
間もなく、ヨシュアと族長たちはだまされたことに気づきました。
イスラエルの人々はリーダーたちにとても腹を立てました。なぜなら、不従順がどれほどの災いをもたらすかを知っていたからです。
ともかく、恐れと心配からイスラエル人をあざむいた人々を生かしておき、将来まで面倒を見ることになりました。
借り物の心配をすることは短期的にも長期的にも関係者全てが犠牲を払うことになります。


あなたが借り物の心配によって振り回されるかもしれない、4つの兆候

  1. いつも無責任な態度を取る人の行動、経済問題、未熟さのために、あなたがストレスを感じたり、夜眠れなかったりする。
  2. ある人の代わりに言い訳をしたり、金銭を与えたり貸したりしてその人を助けている。
  3. 何かを失ったり将来の機会を逃したりするのではないかと心配なので、ある人が困難や失敗を経験することを恐れている。
  4. その人ががっかりしてあきらめてしまったらどうしようかと心配で、本人の葛藤を見たくない。


借り物の心配から解放されるためにはどうしたらよいでしょうか。

子どもの一人のことで心配していた時、この「借り物の心配」で私の心はいっぱいになりました。
彼女は医者の下した診断に関して葛藤を覚えていました。
それまでにも大きな戦いがあっただけに、私は彼女の今後の人生が順調にいくようにしてやりたかったのです。
しかし、彼女の人生について悩み心配することで私はへとへとになりました。
そこで助けを求めてクリスチャンカウンセラーの元に行きました。
ティムというカウンセラーの唯一の問題は、私を全く慰めてくれなかったことでした。
彼はその代わりに、問題を正そうとして娘の人生に神の役割を果たそううとすることをやめるようにと言いました。
彼は、借り物の心配の解決法だと思える知恵をもって私に挑戦してくれました。
「私たちは、その人たちが神が必要だということに気づくようにしてあげなければなりません。」

ティムの助言に従えるかは、娘が高校3年生の時に試されました。
娘は突然宿題をしなくなり、高校の卒業が危ぶまれたのです。
その時、親である私たちは彼女の未来についての心配をゆだね、彼女に関して神に信頼しなければなりませんでした。
夫と私は一歩引いて、娘と先生のやりとり、そして娘自身の決断を見守りました。

素晴らしい結果になりました!
高校卒業後の進路は変更しなければなりませんでしたが、人生を軌道に乗せるために娘は一生懸命に努力しました。
私たちが一歩引くことで、彼女は神に従って人生を歩むことができました。
4年後、彼女は自分の大好きな仕事をし、いきいきと成長して歩んでいます。

もし、あなたが誰かの人生で神の役割を果たそうとして働きすぎ、本人がひざまずいて神様に呼び求めることを妨げているとしたらどうでしょうか?

あなたが配偶者、子ども、友人たちの人生で神の役割をしている限り、彼らは自分の必要がわからないし、プレッシャーを感じることもないでしょう。
しかし、請求書を未払いのままにし、車が担保にとられるままにするなら、無責任から生じる当然の結果に彼ら自身が向き合い、彼らが自分の愚かな選択に伴う痛みを扱うことになるのです。

落第したり留置所で数日間過ごしたりすることは、愛する人が神様に叫び求め、無責任な人生の歩みをやめる転換点となるかもしれません。
もちろん、その人たちが無責任な行動のせいで苦しむのを見ることは辛いことです。が、そのあやまちから学ばず何度も何度も苦しむことの方がもっと悲劇的です。

さあ、神様が必要だとその人が気づくために、あなたが手放すべき人は誰でしょうか。



Barb Roose:女性どうしがつながること、女性と神様とがつながることに重荷を持つ講演者、執筆者。女性たちがキリストにあって強められ建て上げられ、勝利の人生を送るようになることを願っている。国内外の聖会や集会で女性たちを教え励ますことが喜びである。近著に Winning the Worry Battle:Life Lessons from the Book of Joshua(「心配という戦いに勝つ:ヨシュア記から学ぶ人生のレッスン」、バイブルスタディーも同時発刊)。


Just Between Us 誌 2018秋号より翻訳     


Copyright 2018 Barb Roose. Translated from Just Between Us, 777 S. Barker Road, Brookfield, WI 53045

2018/08/08

卒業シーズンの嘆きと恵み Graduation, Grief and Grace

~障がい児を持つ親へ、クリスチャンとしてのアドバイス







ダイアン・キム Diane Dokko Kim








「おめでとう!これからどうするの?」
「大学はどこに行くの?」
「どの会社に就職するの?」
「結婚したら、新婚旅行はどちらへ?」


アメリカでは6月は喜びの季節です。毎年、喜びとうれし涙の卒業と結婚、プロム(訳注:卒業のダンスパーティー)とパーティー、贈り物と正装の年度末があわただしく終わります。

しかし、重い障がいを持つ子どもの親にとっては、この時期は悲しみに襲われる季節でもあります。
もし障がいがなければ、私たちの子どももこうだったかしらと、心がまたうずくのです。

私の息子のような子どもたちにとっては、時と機会は違った流れ方をします。
私の16歳になる息子は自閉症、ADHDなどの障がいを持って生きています。
比べたり羨ましく思ったりしながら、私のような親たちは、普通は親として味わう記念行事の喜びを味わえないことをしばしば嘆きます。子どもの名前が書かれた卒業証書、結婚式に親子で踊るダンス、孫の誕生などです。
毎年6月になると、自分たちが経験することのない行事を耳にし目にしては、私たちが払う隠れた犠牲(機会費用)を考えるのです。

他の人の式典やお祝いに出席する時、あるいは誰かのプロムの写真をソーシャルメディアで見る時にはいつも、私たちは礼儀正しくにっこり微笑みます。
けれども心の中では、静かに悲しみます。
うちの子は違うもの。将来はどうなるのかしら。彼の人生の意味は何かしら、と。

また、この時期は私の信仰がゆらぎ、神観が問われる時です。
毎年、私は自分自身に福音を語って思い出させなければなりません。
神様の国では、この世界の価値観とは異なる基準、つまり神の国の貨幣価値で祝福と達成とがはかられるのだ、と。



罪の贖いに価値をおく

2000年前、天が開け、聖なる全く特別な方の誕生を告げる神の声が聞こえました。
その方は祝典と冠を受けるに最もふさわしい方でした。
神の愛するひとり子、神の喜ぶ子であり、洗礼を受け、若くしての死に従われた方でした。
無名で生まれ、身分の低い大工の子として育ちました。ご自身が結婚することはないと十分に知りつつも婚礼の席では喜びを表し、決して親になることはなくても喜んで子どもたちの病気を癒されました。祭りの祝宴では、決して離れないと約束した直後に自分を見捨てることになる友と、パンを裂いて分けられました。

与えられないものを嘆くかわりに、イエスはご自身に与えられた特別な召し、他の誰にも理解できなかったまさにユニークな重荷を背負うという召しに向かい続けられました。 
救いを与えるために来られたその世によって、裸で、誤解され、卑しめられて死にました。

この世的な成功から見れば、イエスは「失敗した」と見えるかもしれません。それでも、その誕生によって歴史を紀元前と紀元後に分けたような人物はいません。死からよみがえった人物も他にはいません。天に上り神の右の御座に座った方もいません。永遠の救いを全ての人に保証するのもこの方以外にはありません。他に救い主はいないのです。

神の御子はこれらすべてを、学位、キャリア、結婚、家族、優れた友人を持つことなく成し遂げられました。彼の功績はほとんど歓迎されませんでした。評判も、壮麗さも、境遇も伴わないご自身の召しを実行されたのです。



神の願いとは

「主はあなたに告げられた。人よ、何が良いことなのか、があなたに何を求めておられるのかを。それは、ただ公正を行い、誠実を愛し、へりくだって、あなたの神とともに歩むことではないか(ミカ6:8)。」

何が神の望まれる最低限で最上のことか、それはただ神の子どもたちが公正を行い、誠実を愛し、へりくだって、神と共に歩むことではないか、とあります。社会の価値観にふりまわされず、イエス様はただ神様の目的を達することだけを望まれました。
心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして主を愛されました。そして隣人を自分自身のように愛されました。それだけが神がとられる基準です。
このようにして、イエス様は他に並ぶ者がいない、成功した人生を歩まれました。

対照的に、この世界での成功のバロメーターは学業や仕事の業績、強さ、力、美しさ、繁栄、地位などです。
こうした基準に照らすと、我が子のような障がい児は劣っているとみなされます。不十分で欠けがあるとみなされるのです。


「うちの子はどうなるの?将来は?この子の価値は何かしら?」


本当に愛されている子どもは、自分の価値を何かをすることによってわかってもらう必要はありません。何かを会得したり成し遂げたりする以前に、愛されているから価値があるのです。
我が子が生まれた瞬間から、その子が最も無力で依存的で、何も与えることなく、かえって私たちの持つ力を全て奪う存在であっても、私たちは決して壊れない愛を持って子どもを愛します。
それはただ、我が子だからだという理由で愛するからなのです。

私たちが子どもに注ぐ思いは、神様の犠牲的な愛のあらわれです。
私たちがまだ罪人であったときに、キリストは私たちのために死なれました(ローマ5:8)。キリストは私たちが最も価値のなかったときに、私たちを愛し、大切に思い、犠牲を払ってくださったのです。それはただ、私たちが神の子どもだという理由によるのです。

技能、業績、能力に関係なく、すべての神の子どもは、等しく尊い存在で神にあってそれぞれの目的を持っています。
主がご自身の子どもを「恐ろしいほど奇しく(詩篇139:14)」造られたのですから、神様の評価を疑わないでください。


悲しみが与えてくれるもの 

この人生の変化と移動を祝う驚くべき季節にほとんどの家族は喜びますが、中には悲しむ家族もあります。
典型的な親は子どもたちが家を出て大人になっていくことに喜びと悲しみの入り混じった複雑な思いを抱くのです。

一方で、障がい児を持つ家庭は、我が子が成長し自立する日が決して来ないことを嘆きます。
でも逆に、悲しみの気持ちは期待しなかった贈り物ももたらします。失ったもの、欠けたものを認識することで、私たちの最も大きな栄誉はこの地上で語られるものではないということを強く思わされるのです。

著名なクリスチャンの作家、C.S.ルイスはこう述べました。「もし、われわれの願望がこの世界では満たすことができないことに気づくなら、それはわれわれが別の世界のために造られたからだ、というのが最も妥当な説明である。」

私たちの究極の変化とは、別の場所で栄光に入れられることです。
「私たちの国籍は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主として来られるのを、私たちは待ち望んでいます(ピリピ3:20)。」

その時まで、神の子どもなら誰でも成績や学歴に関係なく、心、いのち、思いを尽くして主を愛することができます。また、隣人を自分自身のように愛することができます。
何を成しとげ行ったかではなく、神の子どもであるがゆえに、能力にかかわらず私たちはかけがえのない存在なのです。
私たちへの神の無条件の愛は成績証明書の点数ではなく、恵みのはかりではかられるのです。

「ですから、私たちは今後、肉にしたがって人を知ろうとはしません。かつては肉にしたがってキリストを知っていたとしても、今はもうそのような知り方はしません(Ⅱコリント5:16)。」


英語オリジナル記事は Graduation, Grief and Grace   (https://justbetweenus.org/relationships/parenting-challenges/christian-advice-for-parents-of-children-with-disabilities/)
Copyright 2018 Diane Dokko Kim.  Translated from Graduation, Grief and Grace