2018/08/08

卒業シーズンの嘆きと恵み Graduation, Grief and Grace

~障がい児を持つ親へ、クリスチャンとしてのアドバイス







ダイアン・キム Diane Dokko Kim








「おめでとう!これからどうするの?」
「大学はどこに行くの?」
「どの会社に就職するの?」
「結婚したら、新婚旅行はどちらへ?」


アメリカでは6月は喜びの季節です。毎年、喜びとうれし涙の卒業と結婚、プロム(訳注:卒業のダンスパーティー)とパーティー、贈り物と正装の年度末があわただしく終わります。

しかし、重い障がいを持つ子どもの親にとっては、この時期は悲しみに襲われる季節でもあります。
もし障がいがなければ、私たちの子どももこうだったかしらと、心がまたうずくのです。

私の息子のような子どもたちにとっては、時と機会は違った流れ方をします。
私の16歳になる息子は自閉症、ADHDなどの障がいを持って生きています。
比べたり羨ましく思ったりしながら、私のような親たちは、普通は親として味わう記念行事の喜びを味わえないことをしばしば嘆きます。子どもの名前が書かれた卒業証書、結婚式に親子で踊るダンス、孫の誕生などです。
毎年6月になると、自分たちが経験することのない行事を耳にし目にしては、私たちが払う隠れた犠牲(機会費用)を考えるのです。

他の人の式典やお祝いに出席する時、あるいは誰かのプロムの写真をソーシャルメディアで見る時にはいつも、私たちは礼儀正しくにっこり微笑みます。
けれども心の中では、静かに悲しみます。
うちの子は違うもの。将来はどうなるのかしら。彼の人生の意味は何かしら、と。

また、この時期は私の信仰がゆらぎ、神観が問われる時です。
毎年、私は自分自身に福音を語って思い出させなければなりません。
神様の国では、この世界の価値観とは異なる基準、つまり神の国の貨幣価値で祝福と達成とがはかられるのだ、と。



罪の贖いに価値をおく

2000年前、天が開け、聖なる全く特別な方の誕生を告げる神の声が聞こえました。
その方は祝典と冠を受けるに最もふさわしい方でした。
神の愛するひとり子、神の喜ぶ子であり、洗礼を受け、若くしての死に従われた方でした。
無名で生まれ、身分の低い大工の子として育ちました。ご自身が結婚することはないと十分に知りつつも婚礼の席では喜びを表し、決して親になることはなくても喜んで子どもたちの病気を癒されました。祭りの祝宴では、決して離れないと約束した直後に自分を見捨てることになる友と、パンを裂いて分けられました。

与えられないものを嘆くかわりに、イエスはご自身に与えられた特別な召し、他の誰にも理解できなかったまさにユニークな重荷を背負うという召しに向かい続けられました。 
救いを与えるために来られたその世によって、裸で、誤解され、卑しめられて死にました。

この世的な成功から見れば、イエスは「失敗した」と見えるかもしれません。それでも、その誕生によって歴史を紀元前と紀元後に分けたような人物はいません。死からよみがえった人物も他にはいません。天に上り神の右の御座に座った方もいません。永遠の救いを全ての人に保証するのもこの方以外にはありません。他に救い主はいないのです。

神の御子はこれらすべてを、学位、キャリア、結婚、家族、優れた友人を持つことなく成し遂げられました。彼の功績はほとんど歓迎されませんでした。評判も、壮麗さも、境遇も伴わないご自身の召しを実行されたのです。



神の願いとは

「主はあなたに告げられた。人よ、何が良いことなのか、があなたに何を求めておられるのかを。それは、ただ公正を行い、誠実を愛し、へりくだって、あなたの神とともに歩むことではないか(ミカ6:8)。」

何が神の望まれる最低限で最上のことか、それはただ神の子どもたちが公正を行い、誠実を愛し、へりくだって、神と共に歩むことではないか、とあります。社会の価値観にふりまわされず、イエス様はただ神様の目的を達することだけを望まれました。
心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして主を愛されました。そして隣人を自分自身のように愛されました。それだけが神がとられる基準です。
このようにして、イエス様は他に並ぶ者がいない、成功した人生を歩まれました。

対照的に、この世界での成功のバロメーターは学業や仕事の業績、強さ、力、美しさ、繁栄、地位などです。
こうした基準に照らすと、我が子のような障がい児は劣っているとみなされます。不十分で欠けがあるとみなされるのです。


「うちの子はどうなるの?将来は?この子の価値は何かしら?」


本当に愛されている子どもは、自分の価値を何かをすることによってわかってもらう必要はありません。何かを会得したり成し遂げたりする以前に、愛されているから価値があるのです。
我が子が生まれた瞬間から、その子が最も無力で依存的で、何も与えることなく、かえって私たちの持つ力を全て奪う存在であっても、私たちは決して壊れない愛を持って子どもを愛します。
それはただ、我が子だからだという理由で愛するからなのです。

私たちが子どもに注ぐ思いは、神様の犠牲的な愛のあらわれです。
私たちがまだ罪人であったときに、キリストは私たちのために死なれました(ローマ5:8)。キリストは私たちが最も価値のなかったときに、私たちを愛し、大切に思い、犠牲を払ってくださったのです。それはただ、私たちが神の子どもだという理由によるのです。

技能、業績、能力に関係なく、すべての神の子どもは、等しく尊い存在で神にあってそれぞれの目的を持っています。
主がご自身の子どもを「恐ろしいほど奇しく(詩篇139:14)」造られたのですから、神様の評価を疑わないでください。


悲しみが与えてくれるもの 

この人生の変化と移動を祝う驚くべき季節にほとんどの家族は喜びますが、中には悲しむ家族もあります。
典型的な親は子どもたちが家を出て大人になっていくことに喜びと悲しみの入り混じった複雑な思いを抱くのです。

一方で、障がい児を持つ家庭は、我が子が成長し自立する日が決して来ないことを嘆きます。
でも逆に、悲しみの気持ちは期待しなかった贈り物ももたらします。失ったもの、欠けたものを認識することで、私たちの最も大きな栄誉はこの地上で語られるものではないということを強く思わされるのです。

著名なクリスチャンの作家、C.S.ルイスはこう述べました。「もし、われわれの願望がこの世界では満たすことができないことに気づくなら、それはわれわれが別の世界のために造られたからだ、というのが最も妥当な説明である。」

私たちの究極の変化とは、別の場所で栄光に入れられることです。
「私たちの国籍は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主として来られるのを、私たちは待ち望んでいます(ピリピ3:20)。」

その時まで、神の子どもなら誰でも成績や学歴に関係なく、心、いのち、思いを尽くして主を愛することができます。また、隣人を自分自身のように愛することができます。
何を成しとげ行ったかではなく、神の子どもであるがゆえに、能力にかかわらず私たちはかけがえのない存在なのです。
私たちへの神の無条件の愛は成績証明書の点数ではなく、恵みのはかりではかられるのです。

「ですから、私たちは今後、肉にしたがって人を知ろうとはしません。かつては肉にしたがってキリストを知っていたとしても、今はもうそのような知り方はしません(Ⅱコリント5:16)。」


英語オリジナル記事は Graduation, Grief and Grace   (https://justbetweenus.org/relationships/parenting-challenges/christian-advice-for-parents-of-children-with-disabilities/)
Copyright 2018 Diane Dokko Kim.  Translated from Graduation, Grief and Grace