2010/09/16

困難の中でも信頼する

Trusting through Trouble

神様は、悪い状況からもよいものを与えてくださる方です。
あなたはどこまで主に信頼していますか?

ジル・ブリスコー

 人生の嵐にあって困難な状況に陥ったとき、方向転換をしなければならないことがあります。暗くつらい期間を、どんな気持ちで受け入れたらよいのでしょうか。歯をくいしばり嵐が去るのをじっと待つこともできます。でも、悪い状況からでも神様が何か良いものを与えてくださる、と信頼することもできるのです。
 エリザベス・エリオットはこれを「行動の助走となる信頼」とよびました。彼女は「あきらめ」と「受容」の違いをわかりやすく説明しています。確かに両者には違いがあります。それどころか、彼女はそれ以上のものだということを知っていたに違いありません!

困難の中でも前向きに行動する
 エリザベスは4人の妻たちと無線受信機のそばで待っていました。プロペラ機で原住民の居住地に着陸した夫たちからの連絡を待っていたのです。この若い夫婦たちは、エクアドルのアウカ族に福音を伝えるためにやってきました。夫たちからの連絡が何もないので捜索隊が入りましたが、やがて恐ろしい事実が明らかになりました。若い宣教師の夫たちは川の中で発見されました。彼らは原住民の毒やりによって殺されていたのです。

 この恐ろしい事件はエリザベスの計画の中にはありませんでした!彼女の周りの世界すべてが崩れ落ちました。

 彼女は選択をせまられました。幼い娘を連れ、この地を去って故郷に帰ることもできるし、あるいは「主よ、あなたはこの状況をどのように用いられるのですか」と主に尋ねることもできました。
 エリザベスは悪いことの中にも神がよきことをしてくださる、と信頼することを選びました。そして行動を起こしました。自分の幼い娘を連れ、ラケルと共に、彼女はジャングルに入りました。そして夫ジムやラケルの兄弟ネイトを殺した部族を見つけました。彼女たちは歓迎され、原住民の領地の中に住んでもよいと許しを得ました。やがて聖書が翻訳され、福音が伝えられると、部族の多くの人々がキリストを信じました。後に、ネイトの娘キャシーは自分の父が殺されたのと同じ川で洗礼を受けました。まさに、神様は特別な状況をお用いになったのです。

 神様に信頼すると私たちの心には希望が与えられます。どんなにひどい状況でも、そこに何か計画がある、と。この信頼は、神がこの世を支配しておられ、究極のご計画をもって「永遠」という視点で見ておられるという、ゆるぎない霊的な確信なのです。私たち自身は神様にどのように信頼できるでしょうか。状況ををよくしてほしい、災難を取り去ってほしい、愛する者が死んでしまったのでよみがえらせてほしい、不実な夫を家に帰らせてほしい・・・。神様はそうされることもありますが、時にはそうされないこともあります。けれども、神様のみわざにはちゃんとご計画があるのです。

神を新たに知る
 まず、私たちは神に信頼することで、神様について新たに知ることができます。
 ヨハネ11章にはラザロとマルタ・マリヤ姉妹の話が出てきます。彼らはイエス様の親しい友人でした。ある日ラザロは病気になりました。イエス様は遠い地で忙しく教えておられました。ラザロの容態が悪くなったので、マリヤとマルタはイエス様のところに使いを送ることにしました。ラザロのことを聞いたとき、弟子たちはきっとイエス様がすぐにラザロのところに行かれるだろうと思いました。だって、イエス様がどれほどラザロを愛しておられるか知っていましたから。二人の姉妹も、イエス様はきっとすぐ来てくださるだろうと期待していました。しかし、イエス様は不可解な行動をとられました。おられた場所に、さらに数日間滞在されたのです。ラザロが死ぬかもしれないのに、なぜそうされたのか、誰にもわかりませんでした。
 
 イエス様は「この病気は死で終わるだけのものではなく、神の栄光のためのものです。神の子がそれによって栄光を受けるためです(ヨハネ11:4)」と言われました。この時、単にラザロが病気になったというだけでなく、さらに大きな神の計画が背後にあったのです。ラザロがとうとう死んでしまうと、皆どういうことだろうかと思いました・・・イエス様を除いては。イエス様はご自身が何をしているかを常にご存知でした。ですから、ご自身の親友や弟子たちがどういうことを学ぼうとしているかをちゃんと知っておられました。まさしく、彼らは神様について新たなことを学びました!

 イエス様がようやくベタニヤに到着したのは、ラザロが死んで4日後でした。姉妹たちは「なぜすぐ来てくださらなかったのですか」と言いました。マルタとマリヤは「主よ。もしここにいてくださったなら、私の兄弟は死ななかったでしょうに(ヨハネ11:21、32)」と抗議したのでした。間違いなく、この抗議は正しいものでした。しかしイエス様は、ご自身が単に偉大ないやし主であるというだけでなく、ご自身が「よみがえりでありいのちである」ということを彼女たちに教えたかったのです。ですから、証人たちの前で死んで4日もたっていた彼をよみがえらせたのです。すばらしい神様の栄光が現れたのでした!

 この経験を通して、イエス様と親しかった人たちは重要なことを学びました。同じように、私たちの差し迫った必要に応えてくださらなくて神様が理解できないように思えることがあっても、それは私たちに重要なことを学ばせてくださるためだといえるのです。この出来事の後、ラザロはヨブと同じように「神が私を殺しても、私は神を待ち望」む(ヨブ13:15)と言ったことでしょう。
 つまり、神様が私たちに知ってほしいと思われるのは、神様がよりはっきりと見えることの方がはるかにまさっている、ということなのです。ヨブは、「私はあなたのうわさを耳で聞いていました。しかし、今、この目であなたを見ました(ヨブ42:5)」と言いました。私は、痛みを通ると神様の「サイズ」に私自身の焦点を合わせ直すようになります。神様の偉大さ、力、全能・・・そして、今まで以上に御心に沿って重荷をゆだね、何が起こっても神様はすべてご存知だ、と信頼するようになります。
 痛みというテーマでは、ジョニー・エリクソン・タダを除いては語れません。17歳のとき、彼女は湖に飛び込んで首の骨を折り、首から下が麻痺してしまいました。でも、後にジョニーは「私は体が麻痺したことで神様に近づけたし、自分の足で100年歩けるとしても引き換えにしたくない、霊的な癒しを受けました」と語っています。
 
 何年も前ですが、ジョニーはミルウォーキーでの講演依頼を受けました。私はホールまで彼女に付き添うという特権にあずかりました。ホテルで多くのビジネスマンと共にエレベーターを待ちました。ジョニーは賢明な女性でした。
 エレベーターの中の人は皆沈黙していたので、私はジョニーにどんなテーマで語るつもりかと尋ねました。「恵みについてです。その歌も歌おうと思っています」とジョニーが言うと、何人かが彼女を見ました。そして、ジョニーは実際に歌い始めたのです!周りの人たちの反応をビデオに撮っておきたかったくらいでした。エレベーターの中で、多くの人が涙を流しました。ジョニーは人々に神様がどれほど恵み深いかを歌を通して伝えました。
 神様に対する彼女の信頼は、健康な足で歩ける人たちの心を打ったのです。ジョニーは神様が足よりももっとすばらしいものを自分の心にくださったと言いたかったのでした。神様はジョニーを決して一人にせず、見捨てることもしない天のお父様なのです。

 我が家の子供がまだ小さかった頃、当時6歳だったデービッドが腕をけがしました。かかりつけの医師に連絡して行くと、医師はレントゲンの予約をとると言いました。デービッドは金曜日にけがをしたのですが、医師は病院の検査は月曜日でも大丈夫だと言ったのです。夫はデービッドに、月曜日はレントゲン検査に行くから、学校を休んで家にいていいよ、と話しました。

 週末が終わり、予約の時間が近づいたので、夫のステュアートはデービッドにそろそろ行く時間だよ、と言いました。デービッドは車に乗るのがとてもいやそうでした。道中、夫がちらっと見ると、デービットは青白い顔をしてふるえていました。できる限り落ち着いた声で、「デービッド、何も怖いことはないんだよ。ただレントゲンをとるだけだよ。お父さんがずっとそばについていてあげるからね」と夫は言いました。息子は「何も怖くない、なんて言わないで。ぼく、どうやって死刑をするか知ってるんだから。」と答えました。(訳注:X-ray(レントゲン)とexecution(死刑執行))

 夫と私はショックを受けました。子供がそんな想像をしながら3日間待ち続けていたとは!彼がそんなことを思い浮かべたというのは驚きでした。だから「神が私を殺しても、私は神を待ち望む」と言いながら車に乗ったのでした。段取りをしたのは彼の父親でした。それはともかく、父親は一瞬たりとも彼のそばを離れない、と約束していたのでした。それはまるで、私たちが天のお父様に信頼を置くのと同じでした。

自分自身を新たに知る
 困難の中で神様に信頼すると、神の新たな面を知ると同時に、自分自身についても新たな面を知ります。信頼することを学ぶ(それは信頼せざるを得ないことがあってはじめて可能ですが)なら、自分自身もどれだけ成長し成熟していかなければならないかを知ります。自分の信仰のレベルを悟るのです。
 私が子供の頃に第二次世界大戦がありました。父は家族を連れてイングランドの湖水地方に引っ越しました。特に、恐ろしい空からの攻撃を受けたので、なるべく爆撃地から遠いところに避難することにしました。父は小さくても頑丈なクルーザーを購入し、新しい地で適当な住まいが見つかるまでクルーザーを住まいとして家族の安全を確保してくれました。私たちは早起きをして、向こう岸で素早く水浴びをし、朝食をとって学校へ通いました。

 冬になり、湖に薄くはった氷を割った時のことは忘れられません。どれほど水が冷たいか頭でわかっていても、どんなに覚悟を決めていたとしても、実際に水に飛び込むと何の役にもたちませんでした。同じように、起こりうる試練について自分では万全の備えをしたと思っていても、現実の経験には役に立たないのです。それはちょうど氷のはった水に飛び込むようなものです。自分では十分な犠牲を払って備えをし、ちゃんと対処できるに違いないと思っています。けれどもいざ水に入ると、びっくりして叫んでしまいます。そんな自分自身の姿に驚くでしょうが、そこで新たな自分の一面を発見するのです。

 痛みは本当に辛いものです。身体からは実際に血が出ます。辛い出来事はトラウマとなります。最善の心積もりをすることはできますが、理解を越えたところに置かれると、自分自身の真の姿を発見し、そして信頼できるお方はどなたであるかを発見するのです。



英語オリジナル記事:http://www.justbetweenus.org/pages/page.asp?page_id=73336



Copyright 2010 Jill Briscoe. Translated from Just Between Us, 777 S. Barker Road, Brookfield, WI 53045

2010/09/14

嫉妬に打ちかつ

Overcoming the Green-Eyed Monster


 Marlyn DeFoggi
                                

 私は若い頃、宣教に伴って問題が起こるということを知りませんでした。私の伯母は海外宣教集会で講師を務めていましたが、いつも帰ってきてはすばらしかったと話していました。

 ところがある日、私は伯母と父が話しているのを立ち聞きしてしまいました。伯母が宣教師のための集会に到着したところ、参加者たちが暗い表情をしており、魂が渇いているのを感じたということでした。でも伯母が話し出すと、キリストの臨在が部屋を包みました。参加者たちは涙を流し、互いに赦しあったということでした。一致への思いが戻ってきて、集会は霊的にとても祝福されたということでした。伯母の話は私を驚かせ、また混乱させました。クリスチャンなのに、どうしていざこざが起こるのかしら。


 現在の私は、もっと客観的に宣教の働きを見ることができるようになりました。異なる視点を持つ人々が一緒に働くのだから、意見の相違はやむをえないことだともわかっています。でも時にはそれが争いになり、人間関係における罪を生じさせてしまうこともあるのです。

 では、そうした状況が起こったとき、どうすればよいのでしょうか。キリストに共に仕える者の間に、嫉妬と意見の不一致から愛のない言葉や行いが生じたとき、どのように解決を見出すことができるでしょう。また、心の中に比較する思いや妬みが大きくなってくるとき、どうしたらよいのでしょうか。

 パウロはこのような難しさをよく理解していました。ルカ、テモテ、テトス達は彼のそばで忠実に仕えていましたが、関係が壊れてしまった人もいました。デマスは彼を捨て(Ⅱテモ4:9)、銅細工人のアレキサンダーはパウロの言葉に激しく逆らいました(Ⅱテモ4:14-15)。教会あての手紙の中で、パウロは何度もクリスチャンたちが争わず、互いに愛し合うよう、「同じ愛の心を持ち、心を合わせ、志を一つにしてください」(ピリ2:2)と勧めています。

 最近私は、自分ではなく他の人だけが認められる経験をしました。その時突然、私の心には妬みがわきあがりました。とてもつらかったです。その感情があまりにも強かったので、部屋を出て静かなところで自分の心を探ってから、再びもどらなければなりませんでした。この思いはどこから来るのだろうか、と考えました。なぜ、こんなに傷つき、拒絶されたように感じるのかしら。その痛みをたどっていくと、主は心の中にある妬みの根を示してくださいました。


不安を明らかにすること
 妬みは自分自身に満足できないことが原因で、多くの場合他人への嫉妬となって現れます。私は癒しへのプロセスをたどり始めました。それは、妬みの根となっている不安を明らかにし、自分自身が神の前に価値あるものであることを確認し、主が私の人生に特別な召しを与えてくださっているということを思うことでした。簡単なプロセスではありませんでしたが、時間をかけじっくり考える価値はありました。

 「リーダーの賜物を与えられて(Gifted to Lead, Zondervan, 2008)」という本の中で、著者のナンシー・ビーチ(Nancy Beach)は多くの女性が葛藤する嫉妬についてこう述べています。

 「私たちは、自分の弱い分野で最も嫉妬を感じやすいのです。女性リーダーたちがもし自分のアイデンティティーや召しに確信が持てないならば、自分を守るために他の人を引き下げることがありうるでしょう。」

 あなたは誰に嫉妬を感じますか。自分よりも学歴が高かったり、社会的な成功をおさめたりしている人に対してかもしれません。広い家に住み、子供は模範的で、やさしい夫を持つ人に対してかもしれません。あるいは、経済的に豊かな人に対してかもしれません。心を探り、罪深い思いを告白することができますか。豊かな実を結ぶために、霊的・感情的な変革を求めてつらいプロセスに向き合う用意ができていますか?


 Dan Allender と Tremper Longmanは、共著「魂の叫び(The Cry of the Soul)」の中で自分の感情を観察する必要性について述べています。

 「自分の感情を無視することは、現実に背を向けるようなものです。逆に自分の感情に向き合うことは、現実に向き合うことです。私たちは現実の中で神様に出会います。感情とは魂の言葉ですが、その言葉である否認、ゆがんだ認知、逃避といった言葉を私たちはしばしば聞き逃しています。自分の内面を守るために、邪魔なものには目を向けないのです。意識するのが怖く、恥ずかしいことだと考えるのです。そして、神の前に正直にありのままで出ていけば変化が始まる、ということを忘れています。」


 ある人は、フラストレーションや激しい怒りを抑え込んでいます。聖霊が恵みにより覆ってくださるようにとは祈りますが、内面の不安を探っていただく必要を見過ごしているのです。

 変化の鍵は、「主を知ることを切に求める」ことです。主の臨在の前に立つなら、心の中の罪深い思いが、神様との距離をもたらしていると気づくでしょう。神との親密な歩み以上に大切なものはありません。イザヤのように、私たちは自分の罪深さを認める必要があります。罪が自分のうちにあることを認め、それを光のもとに持ってくるのです。「ああ、私はもうだめだ」(イザ6:5)と叫ばなければならないのです。自分をさらけ出し、悔い改め、神の前にひれふすなら、それが変革と新たな歩みの始まりになるのです。


神の前に自分の価値を再確認する
 神の愛を改めて体験すると、他者より優れていなければ、認められなければ、ほめられなければ、といった思いから自由になります。私たちのアイデンティティーは、私たちの行為・功績にはよらず、父なる神様との愛の関係に根ざすものとなるのです。他の人からよく思われるような能力を見せなければ、という思いがなくなります。

 放蕩息子の話で、兄には弟を軽んじ父には不満を持つ、という対人関係の問題があるとわかります(ルカ15章)。父は弟の帰宅を祝う宴会に兄にも出てほしいと言いますが、兄は頑なに拒みます。父は兄が理解していない深い真理を述べます。「おまえはいつも私といっしょにいる。私のものは、全部おまえのものだ」と。同じように、父なる神の心に太い字であなたの名前が書かれていること、神が無条件にあなたを愛していること、「奉仕する」より「共にいる」関係を望んでおられることを知ったなら、感情的・霊的な変革を体験するでしょう。

 神が太った子牛一頭だけでなく、丘にあるもの全てを所有しておられるとわかれば、愛に執着するのをやめ、他の人を思いやるようになります。父は私たちが霊的な宴会に参加し、両手を広げて恵みに満ちた人生を受け取るのを望んでおられるのです。

神から与えられたユニークな召しを知る
 弱さに働く父なる神の愛を再発見したら、私たちは自分に与えられたユニークな力を大切にできます。そして私たちのうちに、あるいは私たちを通して働かれる神の特別な働きを感謝しつつ歩むようになります。謙遜に仕えるだけでなく、「あなたがたのうちに良い働きを始められた方は、それを完成させてくださる(ピリ1:6)」という確信を持って仕えるのです。人に認められなければ、というプレッシャーから解放されるのです。代わりに、明確なビジョンを持ち、ユニークな召しに向かって力強く歩むのです。

 嫉妬に打ち勝つ最もすばらしい方法のひとつは、宣教に携わる女性たちの成功をともに喜び、神の国の拡大に向けて協力することです。ナンシー・ビーチは「女性のリーダーとして、教会の中で協力しないでいることは困難です。主にある姉妹を信頼し尊敬すれば、理解し、協力し、支え、共に挑戦し、励ましあうことができるのです」と述べています。

 人間関係の罪は神の働きと神の民を破壊します。私たちは問題の根を知り、聖霊に導かれて、感情面でも健全にならねばなりません。神の力によって、私たちは実りある働きをし、他の人がキリストを見るための道を整えるのです。
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Copyright 2009 Marlyn DeFoggi. Translated from Just Between Us, 777 S. Barker Road, Brookfield, WI 53045.

ご機嫌取り型、それともブルドーザー型?~紛争への対応

Handling Conflict with Women in Ministry
a People-Pleaser or a Bulldozer?
 Sue Edwards & Kelley Mathews
                                
私(Sue)は30年間女性へのカウンセリングを行ってきました。その中で、宣教にかかわる女性のほとんどが「ご機嫌取り型」だということがわかりました。

 対立があってもブルドーザーのように突き進み、他者に傷を与えたということに無頓着な方も中に
はいます。けれどもそれ以外の人は、何としても他者の支持を得たいと懸命になっています。
 しかしどちらのタイプも、争いや対立が起きるととても傷つきやすいのです。

グレースとアンジェラのケース
 グレースは法律事務所を経営していました。仕事は順調でしたが、彼女の脳には良性腫瘍があり、手術が必要な状態でした。事務所にはアンジェラという女性が6年間働いていましたが、まじめに仕事をしませんでした。グレースは何度かアンジェラと話し合いを持ち、何とか彼女が真面目に働くように手を尽くしましたが、結局アンジェラは退職してしまいました。

 1年後、グレースはアンジェラからメールをもらいました。そこには、「私もあなたと同じです。今ちょうど病院に行きましたが、脳に腫瘍があると言われました。どうぞ祈ってください」とありました。
 グレースは「祈ります。何か私にできることはありますか」と返信しました。アンジェラが手術室に運ばれる時、グレースはアンジェラのそばに付き添ってあげました。また、術後も彼女を応援しました。
 退院したアンジェラはグレースの事務所を訪ねました。そして1時間もたたないうちに、彼女はキリストを受け入れる祈りをし、グレースを抱きしめ、今までの許しを請うたのです。神はグレースの愛を用いてアンジェラが信仰を持つようにされました。

 グレースはご機嫌取り型でもブルドーザー型でもありません。私たちにとって見習いたい「平和をつくる者」です。グレースはキリストと共に歩んでおり、何よりも自分自身をよく知っていました。

自分自身を知る
 「平和をつくる者」となるためには、情緒面での健康がまず大切です。私たちは誰でも、問題や罪を持っています。肉の親や配偶者や友人から完全な愛を受けるのは不可能なので傷つきます。では、いったい自分自身の欠けにはどう対処してきたでしょうか?まだ未熟だから、と言い訳をしてきたでしょうか?それとも、情緒面で健康を保つために何らかの努力をしてきたでしょうか。情緒面で健康でなければ、対立が起こって個人攻撃を受けたり争いにまきこまれたりした時、よい対応をすることはできないのです。

アイデンティティの問題
 対立が起こったとき、相手は私たちが神経質すぎるとか、傲慢だとか、せっかちすぎるとか言って批判します。あるいは私たちが失敗をしたがゆえに対立が起こってしまうこともあります。非難されると、たとえ私たちの基盤はキリストにあると頭ではわかっていても、自分のことがわからなくなってしまうことがありえます。

 ハーバード・ネゴシエーション・プロジェクト(Harvard Negotiation Project)の研究によれば、紛争の際には3つのアイデンティティに関する問いが人の頭に浮かぶということです。すなわち、①私は適任なのか。②私はよい人なのか。③私には愛される価値があるのか。という3つの問いです。もし自分のアイデンティティが脅かされるなら、紛争の中で適切な対応ができなくなってしまいます。

 また同研究では、私たちが「0か1か思考(all-or-nothing thinking)」に陥ってしまう可能性も指摘しています。ですから、3つの問いへの答えは①「全く適任である」か「全く不適任である」、②「かなりよい人である」か「全くだめな人である」、③「愛される価値がある」か「全く無価値である」、となってしまうのです。でも情緒的に健康ならば、イエス様に基盤を置いた上で、アイデンティティの問題に過敏になっていることをも理解できるのです。

 キリストに根ざした健全なセルフイメージを持つことに加え、情緒面での健康を保つにはプライドから身を守ることも必要です。プライドは罪であり、他者と対立した時に傷つく要因となってしまうからです。

隠れた罪、プライド
 「あの人は高慢だ」という時、どこで判断しますか?高慢な人は自慢ばかりするので、自分の評判を落とすでしょう。自分が勝っているとか、世界が自分の周りを回っていると思っているからです。高慢である場合はすぐにわかるのです。

 けれども、プライドもまた、自分で気づかないうちに生じ、私たちの心の姿勢に影響するのです。クリスチャンのリーダーたちが直面するのはこの種のものです。プライドは様々な形で現れます。自分のやり方を押し通す、自分が神の働きになくてはならない存在だと思い込む、違いがあるのはいけないことだと考える、などです。自分だけが他の人の間違いを正すことができると思うのもプライドです。高慢な人は賞賛を求めますが、それを受けることはめったにありません。プライドとは、神様に頼っていないのに、そのことを表面的にはうまく隠している私たち自身の姿なのです。

 もしイエス様によりよく仕えたいと思うなら、最優先すべきは情緒面での健康を保つのに力を注ぐことです。情緒面の健康を保つために必要なことなら何でも、徹底的にしてみてください。プライドから派生する2つの不健全な性質は、対立や争いの解決を妨げてしまいます。その性質とは、人の機嫌を取ることとブルドーザーのように痛めつけることです。

ご機嫌取り型

 ご機嫌取り型の人々は間違った考えや感じ方、そして行動にとらわれています。ですから「平和をつくる者」としては不十分なのです。ご機嫌取りの人というのは、自分が受け入れられることだけを求めています。ですから、どんな犠牲を払ってでも周りにいる人すべてによい気持ちでいてほしがるのです。

 人々を喜ばせることが間違っているのでしょうか?いいえ、聖書では他の人の必要に応え、あわれみ深く親切であるようにと教えられています。人々に対して、礼儀正しく誠実に、時には勇気を持って接するなら、組織としてはよい働きができます。けれども、他者の顔色をうかがうことには否定的な側面もあります。一見神様の栄光を表すことに心を注いでいるように見えますが、実は自分の関心のあること、人からよく思われること、自分がよい気持ちになることがより高い目標になっているのです。

 ルー・プリオロは、ご機嫌取りは2つの点で「偶像礼拝」だと述べています。一つは神をないがしろにしている点で、そしてもう一つは安っぽい他のことをの位置に置いている点でだといいます。もし私たちが神様より賞賛を求めているなら、あるいはもし神を悲しませることより人からの拒絶を恐れているなら、それはご機嫌取り型だといえます。多くのクリスチャン女性たちは無意識のうちにこの巧妙なプライドのわなにはまってしまっています。

特徴と影響
 ご機嫌取り型の人たちの特徴は次のようなものです。

  • 完ぺき主義である。
もし私たちが完璧であり仕事も完璧にこなすなら、皆から好かれ、批判する人は誰もいない・・・本当でしょうか?問題は、人間には限界があるということです。自分や他人の現実の姿を受け入れ、完ぺき主義を捨てない限り、宣教の働きをまっとうすることは困難でしょう。
 完ぺき主義の欠点は、自分や周囲の人を不当に高い基準で評価し、満足できなくなることです。完ぺき主義者は他の人に任せることができません。そして細部に目をとらわれて重要なことを忘れてしまいます。これはリーダーシップにおいて致命的なことです。
  • 「ノー」と言えない。
クリスチャン女性たちは際限なく仕え、それでも十分なことをしたと思えないということがよく知られています。私たちは仕えるように教えられていますが、人々の評価や賞賛を得ることが目的になってしまうとよくありません。もしそれが第一の動機になってしまうと、容易に操作され、虐げられ、ストレスを感じてしまいます。

 私の最近の燃え尽きはひそかにやってきました。ちょうどなべの中に入れられたカエルのように。というのも、カエルは水をはったなべの中に入れられると、そこから飛び出そうとはしません。なべを火にかけ、徐々に水温が上がっていっても、逃げ出そうとしないのです。そしてとうとう、自分でも知らないうちに、熱い湯の中で死んでしまいます。
 私は2つの「非常勤の」立場についていました。一つは神学校で、もう一つは地域教会ででした。初めのうちはうまくいっていました。私はその働きが好きでした。けれども何年かたち、それぞれの働きが大きくなってくると、仕事の量が増えてきました。さらに執筆と学位取得のための研究が重なったとき、私はほとんど沈没しかかった船のようでした。  
 窮地に陥っていると気づくまでは、ストレスは増大し続けます。そして窮地に立たされている時というのは、争いに直面すると極めて傷つきやすいのです。私は「ノー」と言うために苦しい思いをしました。
 ストレスは争いの際に恐ろしい影響をもたらします。ストレスのため、実際に身体を悪くしたり死を招いたりすることもあるのです。どうかあなたもストレスをよく見張ってください。
  • 正直でない。
ご機嫌取りの人たちは不正直です。道徳的にではなく、社会的に不正直なのです。もし人を喜ばせることにばかり気をつかっていたら、自分が何を考えているか正直に打ち明けることはできないでしょう。自分が拒絶されるのがこわいので、自滅の道をたどろうとしている人々に助けの手をさしのべることができません。「平和をつくる者」には誠実であることが必要です。
  • 防御的で、過敏である。
私自身の生来の傾向はご機嫌取り型です。長年の間、批判されると過敏になり、なんとか防御しようとしてきました。幸い夫は私を無条件で愛してくれました。彼のおかげでイエス様に信頼し、自分自身を受け入れ、人のご機嫌を取る習性をやめることができました。ご機嫌取り型の人は思いと感情をコントロールし、建設的な解決を受け入れなければなりません。過敏で防御的な人は、「平和をつくる」過程を始めもせずに怠けているといえるでしょう。
  • たやすく操作され、利用される。
もしあなたがご機嫌取り型だということを強い人に悟られたら、気をつけてください。そういう人はあなたが傷つきやすいということを知っているようです。リーダーは他者を励ましますが、それは権威ある立場ゆえにそうするのであって、弱さからそうするのではありません。対立相手の女性はまるでサメのようです。恐れのにおいを嗅ぎ取ると、かみつきます。もし会議のアジェンダがあるなら、あなたを操作できるかどうか試してきます。もしあなたが間違った思いで人を喜ばせようとするなら、彼女たちはそれに気づき、あなたへの尊敬を失うでしょう。

ご機嫌取り型の人と争い
 ほとんどのご機嫌取り型の人は、争いを避けようとします。そういう人にとっては、意見の不一致や違いを生じる全ての争いや対立はよくないものだと思われるのです。
 新婚当時、私は何とかして完ぺきなクリスチャンの妻になろうとしました。しかし苛立ちや無神経に思える行動をその都度押し殺していると、夫が私の我慢の限度を超える言動を少しでもすると、私は爆発して何ヶ月も押し込めてきたものを吐き出してしまいました。
 聖書を学び、賢明な女性のメンタリングを受けるに従って、私は自分の不満や苛立ちを小出しに、また適切に表現することを学びました。これは結婚生活でも宣教の働きでも大変役立っています。

ご機嫌取り型の人への処方箋
 これは単純なことです。ただ一人のお方のためだけに動けばよいのです。Carly Fiopは次のように書いています。「人間でなく神様を喜ばせることを学ぶのが、人の顔色を伺うという問題に対する最善の治療薬だ・・・何よりも人間を喜ばせたいという思いは、何よりも神様を喜ばせたいという思いとすりかえられてしまう・・・人の評価を愛することは神様からの評価をないがしろにすることだ。」
 神様を喜ばせることを第一にするなら、実際にはその時より多くの人を喜ばせることになるのです。あなたの内面の強さと神にある真実な歩みを見て、人々はあなたを尊敬することでしょう。

ブルドーザー型
 ご機嫌取り型の対極にあるのがブルドーザー型です。このタイプの人はタフですが、時に強靭すぎるのです。ある人が集会のための祈りが足りないとか、ポテトサラダの味がよくないとか、バスの運転手が礼儀知らずだとか不平を言うと、このタイプの人は「いい加減にしろ!」と反応します。

ブルドーザー型の落とし穴
 ブルドーザー型の人は争いがあっても無視しようとします。そんなものに時間やエネルギーをつぎ込む価値はないと考えるからです。ブルドーザー型は、お人よしだけれど大きな問題を起こす人の格好の餌食です。主のための大切な仕事を中断しいかにもささいな問題を扱うのは、確かに腹立たしいものです。でもそれをしないと、争いはおそらくもっと大きくなって、やがて後悔することでしょう。

「ベルベットに包まれたレンガ」
 ジョン・マクスウェルは最も優れたリーダーのことを「ベルベットに包まれたレンガのようだ」と言います。ご機嫌取り型でもブルドーザー型でもなく、内面は強いけれども人あたりは柔らかい人のことです。
 「ベルベットに包まれたレンガ」型のリーダーは、不健康な状態を解決するための争いや対立を恐れません。積極的に問題を挙げ、「平和を維持する」のではなく「平和をつくり出す」のです。同時に、そうしたリーダーは他者の考えにも耳を傾けます。賢明なリーダーは自信を持ってはいますが、自分にも間違いがありうることを知っており、意見の異なる人の話もよく聞くのです。
 これこそ女性が模範にしたい姿です!ご機嫌取り型やブルドーザー型のあり方をやめ、「ベルベットに包まれたレンガ」型を目指しましょう。

実践、実践、また実践
 あなたはご機嫌取り型ですか、それともブルドーザー型ですか?もしどちらかのタイプにあてはまったら、その傾向をやめて新たな考え方と行動様式を学ぶ必要があります。争いや対立が起きた時だけではなく、日々そうするのです。家族、友人、同僚との日々の関係で「平和をつくる者」となるのです。

 徐々にその技術を身につけてください。呼び止められて厳しい批判の言葉を受けるまで待っていてはいけません。カッとなると理性がどこかに行ってしまい、不適切な対応をしてしまいます。賢明な女性、影響力のあるリーダーは「平和をつくる」技術と、相手への適切な対応を日々の人間関係の中で実践しています。それゆえ穏やかで「平和を作り出す」対応が自然にできるようになっていくのです。
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「傷ついた女性たち~効果的なミニストリーのために~(Women Who Wound: Strategies for an Effective Ministry)」(Moody Publishers)からの抜粋。

Copyright 2009 Sue Edwards & Kelley Mathews. Translated from Just Between Us, 777 S. Barker Road, Brookfield, WI 53045.

失敗は終わりではない

the God of second chances
I Ate the Cookie!



~「クッキー」を食べてしまっても~                    
ジル・ブリスコー
              
                  
告白します。・・・私はクッキーを自分だけで食べてしまいました。自分の値うちが下がったように感じました



自分の価値が下がったと感じたことはありませんか?あるいは自分の度量が狭いと感じたり、恥じ入ったりしませんか?「私はクリスチャンなのに、どうしてあんなことを、あんな失敗を、あんな言葉を、あんな考え方を、してしまったのかしら」ということはありませんか?

もちろん、自分が言ったことや思ったこと、あるいは自分が言わなかったことや思わなかったことだけではなく、他の人の言葉や思いによって自分の価値が下がってしまうこともあるでしょう。人があなたのことを引き下げたなら、たとえそれが真実でないとわかってはいても、やはり落ち込むでしょう。傷つくでしょう。

辞書によると、「値うちが下がる、けなす(diminishing)」とは「減じる、あるいはより低い価値しか認めないこと」とあります。大きくする、成長する、価値が増すという言葉の反対です。

人々はあなたの値うちを引き下げることができます。日々の暮らしの中でも引き下げられることがあります。否定的なメッセージを聞いていると自分で自分をけなしてしまいます。悪魔こそ、人を引き下げる名人です。人をけなすためには方法を選びません。どんな人でも、どんなことでも利用するのです。

ある人の価値がこの世で得たもの、成し遂げたことによって評価されることがあります。住んでいる家の大きさや、食べているものや装い、時には地下室の設備がどの程度か、などで判断されてしまうのです。

数ヶ月前のこと、教会に向かう車内で、私はハドソン川に不時着した飛行機のニュースを聞いていました。パイロットの的確な判断で、全員が無事でした。現実の出来事での、パイロットのすばらしい操縦技術が伝えられる合間に、ガザの停戦のニュースが流れていました。しばらくの間、戦闘がやむということでした。しかし、続いてアフリカで起こった残虐行為と、アフガニスタン駐留中の米軍が危険にさらされているニュースが伝えられました。誰かが自分の命をねらっている時には、自分の価値が非常に引き下げられたと感じられるに違いありません。

ラジオからは音楽が流れてきました。「地下室の設備が貧弱だと、あなたの価値が下がるように感じませんか?」という歌声が流れてきました。本当に大切なことに比べたらこれは明らかに重要でないと思えますが、ある人にとっては自宅の、あるいは隣人の地下室が貧弱だと、まさしく自分の価値が引き下げられたように思えるのです。ささいなことで自分が低く見られると感じるのは愚かなことかもしれませんが、もしあなたが何らかのものによって左右されたり、物質的な成功があなたの自己価値に反映されたりするなら、それが何であれ決してささいなことではありません。

悪魔は地下室などどうでもよいのです。世界で起こる戦争や大事件などどうでもよいのです。悪魔はただ、あなたが自尊心を失い、神様があなたを見ておられるように自分自身を見られないようにすることに関心があります。悪魔にそうさせてはいけません。聖書は悪魔を「兄弟たちの告発者(黙12:10)」と呼んでいます。

悪魔は私達を引き下げるために存在するのです!彼こそ、まさしく「引き下げる者」です。悪魔は殺人者です。神様が私たちに与えた固有の価値や尊厳を殺すのです。また自分自身を見る目や神様とその尊さを見る目をも失わせます。神様が私達に怒っておられ、私達に失望しておられると考えたり、神様が私達のことをかけがえのない、罪赦された子供であると考えるほどに自分のことを価値がないと思ったりするなら、私達も神様ご自身を引き下げているのです。神様は私達は価値あるものだよ、と肯定しておられるのに、サタンは何とか引き下げようとしているのです。

キリストは「あなたのために私は来て、探し、救い、復活したのだ。あなたはそれほど価値があるのだよ」とおっしゃいます。「私が内に住むくらい、価値があるのだよ。私はあなたの人生を共に生きたいのだ。ここにいたいのだよ。あなたは私の全てなのだ。かけがえのない、価値ある存在なのだ。私が赦し、共に住み、賜物を与え、私の計画と目的に従って用いるほどに、あなたには価値がある。」と言ってくださいます(詩篇139篇を毎日、一週間続けて読んでみてください。きっとよくわかります)。

けれども、実際に失敗をしてしまったり他者の非難や批判を受けるようなことをしてしまったりする時、頭では理解していても、そのことを信じない限りはあまり意味がないでしょう。自分を軽蔑した人や、そうさせてしまった自分や、その他目に入るものを何でも責めてしまうのです。


どうしてあんなことをしたり言ったりしてしまったのだろう、と自分でも信じられないことがあります。そして私たちは自尊心を失ってしまいます。自分には価値がないと思います。何かに挑戦し成長して、御名が広くあがめられるようにしよう、そして私達もよい意味で自信を持とう、という気持ちを失ってしまうのです。あるいは、「どうせ私はこんなものだから仕方ない」と自分で納得してしまうのです。

神様は私達が神の目に覚えられ愛されていることを知ってほしい、祝福したいと思っておられます。実際、神様は私達をご自身の喜びとしておられます。もちろん、私達のさまざまな罪は喜ばれませんが、たとえ何もできなくても、そんな私達そのものを喜びとしてくださいます。神様は「完全に失敗したわけではないよ」とおっしゃいます。神様からの、静かな、細い励ましの声を信じるべきです。

パウロは批判された時、「私にとっては、あなたがたによる判定、あるいは、およそ人間による判決を受けることは、非常に小さなことです。事実、私は自分で自分をさばくことさえしません(1コリ4:3)」と述べました。私達を評価されるのは神様であり、神様は心の動機や願いをご存知なのです。


テロのあった9月11日、私は飛行機に乗っていました。シベリアから帰宅する途中でした。しかし、飛行機はアメリカには着かず、ニューファンドランド(カナダ東端)に着陸し、そこに6日間も止まったままでした。着陸の際、何時間も機内で待たされました。長時間何も食べていなかったので、乗客はみな空腹でした。地上に移動しても、食事は何時間も先になるだろうと言われました。滑走路で待機している間、私は「神様、信じがたいこの状況で私を用いてください、恐れとトラウマを持つ人々の助けにならせてください」と祈っていました。

時差のため、時折乗客たちのいびきが聴こえてきました。その時突然、私は自分がヒースロー空港でクッキーを買ったことを思い出しました。すぐに気高い考えが浮かびました。このクッキーを隣の医師に分けようか、それとも通路をはさんだ席で泣いている高齢の女性と分けようか、あるいは前のかわいい子供たちとにしようか。おそらく、かなりの犠牲を払ってでも気前よく実行したなら、キリストについて語るチャンスが得られたと思います。ところが、全く違う声が聖霊の促しを遮るようにささやきました。「皆が眠るまで待って、こっそりクッキーを食べればいいじゃないか。」心の中で戦いが始まりました。選択は私次第でした。自分のこととは言え、信じられませんでした。世界的な慈善活動に携わり、講演をし、犠牲的な愛とイエスの生き方にならうようにと本を書いている者であるにもかかわらず、私は自分一人でクッキーを食べようと、一生懸命に思案していたのです!


心の中で非常に葛藤しました。そして・・・私はクッキーを食べてしまいました。ええ、全部を!最後の一枚を飲みこむと同時に、罪悪感がやってきました。続いて恥ずかしさも。まさしく、自分の値うちが下がった感じでした。数分前と比べると、確実に自分がちっぽけな者になったように感じられました。全部食べてしまったことは、自分でも信じられませんでした。でももう元にもどすことはできません。食べ終えてしまったのですから。

あなたは「クッキーを食べてしまった」ような経験がありますか?とても落ちこみますね。9月11日に、私は神様とそのクッキーについて真剣に語り合いました。私がごめんなさい、と言うと、神様は「もういいよ、さあもう一度やり直そう。私の子供たちにとって、失敗は終わりではないのだから。」と言ってくださいました。そんな惨めなことがあった後、ニューファンドランドのガンダーにある救世軍の建物の中で、神様は私に少しはましなことができるようにとさらに6日間を与えてくださいました。「まあ、よかった」と思うでしょう。その通り!だから私はイエス様が大好きなのです。だって私達がやり直せるよう、別の時を与えてくださるのですから。時には6日間も!


クッキーの例は、私達はいつも正しいことをする代わりに間違ったことをしてしまうことを象徴しています。他の人から言葉や態度で見下げられた時、私達は「クッキーを食べてしまう」のです。また、私達が娘、息子、祖父母、父母、友、リーダー、グループの一員として常に失敗しうることをも表しています。私達はだれでも、失敗を繰り返します。なぜなら、この堕落した世界に生きる罪人なのですから。けれども、周囲から失敗者と決めつけられるのをそのまま受け入れてはいけません。審判できるのはただ一人、主ご自身のみなのです。そして、主は私達のために死んでくださった方です。神様が審判者であり、神様だけが私達の心をご存知なのです。「私にとっては、あなたがたによる判定、あるいは、およそ人間による判決を受けることは、非常に小さなことです(1コリ4:3)」他の人がそれとなく私達を非難し軽蔑するとき(たとえ私達が確かに誤っている時があったにせよ)、神様に聞くなら、神様は私達の心に愛と肯定の言葉を静かに語ってくださいます。

たとえあなたが「クッキーを食べてしまった」としても、あるいはあなたを責める人がだれかいたとしても、あなたが自分自身を責めたとしても、愛する主にとどまり続けてください。私達は自分の「クッキーを食べてしまう」かもしれませんが、やがてそれを用いて何かをすることができるのだということを覚えてください。私達は働きをなしとげて、「よくやった、忠実な(「成功した」ではなく)しもべよ」という声を聞くのです。自分のことを、神様が思っておられるイメージ以下に引き下げてはなりません。御国に入る日には、そんなことは二度としないでしょう。その日が待ち遠しいですね。ハレルヤ!



*今日自分のことをどのように感じていますか。どんな種類の「クッキー」を食べてしまったとしても、神様があなたをどれほど価値あるものとして見てくださっているかを心にとめてください。この世で食べてしまったどんな「クッキー」にも、神様は回復を与えてくださいます。もし今度自分には価値がないように感じたら、「兄弟たちの告発者」であるサタンにすでに勝利された方にゆだねてください。

ジル・ブリスコー(Jill Briscoe)は Just Between Usの編集責任者。また、World Relief や Christianity Todayの理事もつとめる。世界各国で講演活動・説教を行う。夫のステュアートとの間には3人の成人した子供と13人の孫がいる。


Copyright 2009 jill Briscoe. Translated from Just Between Us, 777 S. Barker Road, Brookfield, WI 53045

プロでなくてもカウンセリングできる!

Counseling when you池e NOT a counselor             キャシー・C・ミラー                                
バーバラが自分のことを打ち明けてくれたとき、初めはどうすることもできないように思えました。私は普通の信徒にすぎないのに、彼女を助けることなどできるかしら?でも、話しているうちに神様が私に知恵を下さって、バーバラは問題の解決へのヒントを得ることができました。

プロのカウンセラーでない場合、問題を持った人を助けるのは難しいように思えます。けれども、共感する心と技術があれば、それは可能です。私は講演で話すことが多いのですが、様々な機会に女性たちのカウンセリングをするのは心からの喜びです。私自身は訓練を受けたプロのカウンセラーではありません。にもかかわらず、そうした場で神様が上からの洞察力や導きを与えてくださることに驚いています。もっとも、今だに不安を覚える分野でもあります。ではどうすれば熟練することができるでしょうか。


何よりも、してはいけないことを覚えておくことです。ヨブ記を見ると、よくないカウンセラーの例がいくつか出てきます。事実、ヨブは友人たちを「煩わしい慰め手」 (ヨブ 16:2)と呼んでいます。以下の点をふまえておけば、まずいやり方を避けることができるでしょう。


避けたいこと

ヨブの友人たちは、正しい人が苦難にあうことはない、だからヨブは何か罪を犯したに違いない、と考えました。エリファズは「さあ思い出せ。だれか罪がないのに滅びた者があるか。どこに正しい人で絶たれた者があるか(ヨブ 4:7)」と言います。また、この「カウンセラー」たちは、共感しないまま模範的な答えを述べるということにも気がつくでしょう。エリファズは「私の見るところでは、不幸を耕し、害毒を蒔く者が、それを刈り取るのだ(4:8)」と言っています。

私はカウンセリングで同じ失敗をしてしまいました。初対面の女性が、最近流産した、と話してくれたのです。どう言ってよいかわからず、私は「でも、主はきっとまた別の赤ちゃんをくださるわ」と答えてしまったのです。後になって、よく理解もしないで一方的に言ってしまったと思いました。私は彼女の悲しみに寄り添いつつケアをするという、せっかくの機会を失ってしまったのです。

ヨブの友人たちの言葉を読む時、彼らが何の質問もしていないことに気づかれたかもしれませんね。もし彼らが本当にヨブの気持ちを知ろうとしたなら、ヨブは神様を非常に愛する人だとわかったかもしれません。私達ができる最善の質問は、「この問題を通して、あなたは神様のことをどのように感じていますか」というものです。相手が抱いているかもしれない、神への誤った見方に気づいてもらうことができれば、真理の発見を助けることができます。

ヨブ記8章では、ヨブの友人たちが彼の罪を断定しています。読者の中には、まるでビルダデのように、悲しい気持ちや疑いにまるで耳を貸さない人を知っている方もおられるでしょう。ビルダデは、神様への信仰に疑いを持つべきではない、という今日の一部のクリスチャンにそっくりです。実際には、イエス様は「信じます。不信仰な私をお助けください(マコ9:24)」と叫んだ父親のことを喜んでくださいました。神様は正直さを喜ばれます。神様は私達のどんな感情も思いもわかってくださいます。「相談者」は自分の気持ちや疑いを言葉に出してよいのです。

またヨブ11:13-19には、別の「よくない」姿勢が出てきます。それは「もし、あなたが・・・したら」と、あなたが何かする以外、他人では助けることはできないと言ってしまうことです。これは、迅速な解決法を示すように見えるかもしれません。が、実際には感情面の痛みには迅速な解決などめったにないということが明らかになるだけです。

話は続き、ビルダデは「いつ、あなたがたはその話にけりをつけるのか。まず悟れ。それから私たちは語り合おう。なぜ、私たちは獣のようにみなされるのか。なぜ、あなたがたの目には汚れて見えるのか(18:2-3)」と言います。彼が本当に言いたいのは、「反論をしないで、僕たちの言っていることを全部受け入れろ。それがお前にとって最善なのだ」ということです。けれども、人に向かってすべきことを全て言うとしたら、まるで自分が神様のようではありませんか。私達は、無神経で思慮のないカウンセラーにならないよう気をつけたいものです。

エリフという男性はずっとヨブと友人たちの会話を聞いていました。彼は黙っていましたが、ついに我慢できず、自分の考えを言いました。「私は私で自分の言い分を言い返し、私の意見を述べてみよう。私にはことばがあふれており、一つの霊が私を圧迫している(32:17-18)」と。もしエリフがそのまま黙っていたら、彼は最も賢い人たりえたでしょう。傷ついた人々は、多くの場合、自分の言葉をよく聴いてくれる、口数の少ないカウンセラーを必要としています。話しながら、その人自身が神の語りかけを聞くことができるからです。


その他の不適切な対応

ショックを受ける:「あなたがしたこと(言ったこと)は信じられないわ!」

できないことを期待する:「どうして今まで解決できなかったの?」

できない約束をする: 「私はいつでもあなたのためにここにいるわ。」

真実でないことを断言する。 少し前、ガンを患った友人に対して、私はこの失敗をしてしまいました。彼女は「私が死ぬことは神様の御心だと思わない?」と尋ねました。私は「いいえ、そうではないと信じるわ」と答えましたが、それは間違いでした。彼女が天に召された時、私は神様の思いでないことを言ってしまったと思いました。



望ましいこと

では、今度は望ましい対応のいくつかを見てみましょう。


・傷ついた人が、傷の背後にある原因を発見できるようにする。

人はしばしば自分の痛みについて、明らかになっている現在の原因に注目します。けれども時には、その原因が過去にあることがあります。私はかつて、夫に対して非常な怒りを持った女性と話しました。その怒りは夫が娘の発表会に行こうとしないという理由によるものでした。

彼女に自分の子供の頃のことを尋ねてみたところ、彼女は他のことと共に「私の父は、一度も私の楽器演奏会に来てくれませんでした」と言いました。彼女はこの経験と今の怒りとに関係があると気づきました。そして、自分が父親を赦していないから、夫の対応に過剰反応していたのだと理解しました。涙を流しながら、彼女は父親も夫も赦したいと言いました。

・相手の感情を言い表してあげる(ロマ12:15)。

例えば「あなたの話し方から、とても傷ついていると感じるわ」とか、「そのことで怒っているのではないかしら」などです。その人の成長やいやしとなる、実現可能なことを示してください(ピリ1:6)。簡単に答えが出るとか、すぐ乗り越えられるなどとは断言しないでください。いやしや成長にはたいていしばらく時間がかかりますが、その葛藤を通ることで人は神のもとにさらに近づくのです。

私が話す中で最も重要な聖書的概念の一つは、「1パーセントの原則」です。100パーセントのゴールは実現不可能であり、敗北感を生みます。だから、100パーセントを目指すよりは成長のための小さなステップをふむ方がよい、と私は相談者に言います。もし成長のためにアドバイスをするなら、小さいステップにしてください。

・実際的な方法で助ける。 (ロマ 12:13)

助けを必要とする人のために、必要な助けを得られる人を見つけるか、そこへ行くよう示してあげてください。でも多くの場合、相談者はそうするだけの力がないことがあります。彼女の代わりに連絡を取ってあげることが、うまくいくかどうかの分かれ目になるかもしれません。

・共に祈る。 (ピリ1:4)

多くの場合、例えばこのように祈ると効果的でしょう。「天のお父様、スージーはとても落胆していて、今は絶望的だと感じています・・・。」その人の痛みを神の御前に出すことは、その人を慰め支持することになります。

・言葉が多すぎるよりは、言葉が少なすぎる方がよい。 (ヤコ1:19)

難しいかもしれませんが、時には沈黙が多くの言葉よりも励ましになることがあります。ある女性が大きな罪を犯したことを話してくれた時、私は黙って聴いていました。後日、私がじっと聴いていたので励まされ、葛藤から抜け出す力を得た、と彼女が話してくれました。私はふさわしい言葉が見つからなかったので失敗したと思っていましたが、神様は彼女が必要なものをご存知だったのです。

・有効である場合を除いて、他の人の状況と比べない。(ガラ6:4)

何か参考になる場合は別として、同じ問題で苦しんでいる人のことを話しても、何の助けにもなりません。それどころか、自分と他の人たちの中で誰が最も大変か、比較したくなってしまうかもしれません。

・その人にとっての助けとは何かを見出す。(ガラ6:2,5)

その人にとっての真の助けとは何でしょうか。憶測するより実際に尋ねてみてください。尋ねられることで、彼女にもなすべき方向が見えてきます。また、すべきことを指示されるだけの時よりも、その人自身がより明確に考えることができます。

・みことばに基づく適切な対応

聖書には、肯定的で信仰的なカウンセリングの対応が出てきます。例えば、

・アポロをカウンセリングしたアクラとプリスキラ:公の場ではなく、アポロを家に招いて個人的に話をした (使18:26)。

・ラザロが死んだときのマリヤとマルタへのイエスの姿勢:姉妹たちの悲しみを無視せず、優しく真理を教えた(ヨハ11)。

・ナオミへのルツの姿勢:ナオミ自身の言葉から、深く落胆していたとわかります。ルツは彼女を支え、決して「そのように思ってはだめ、ただ神に信頼しなさい」とは言いませんでした(ルツ1)。

・ナタンは、ダビデの姦淫を単刀直入にとがめるのではなく、ダビデが感情を移入できるような話を用いてその罪を指摘しました(Ⅱサム12)。



以上のことで、あなたは共感力のある、カウンセリングの適任者になれると私は信じています。そして、「弱った手と衰えたひざとを、まっすぐに(ヘブ12:12)」してあげることでしょう。



キャシー・C・ミラーは女性の集会で講師として用いられており、「聖書の女性(Women of the Bible: Smart Guide to the Bible, Thomas Nelson)」を含む49冊の著書がある。彼女のウェブサイトは www.KathyCollardMiller.com 、ブログは www.KathyCollardMiller.blogspot.com。

Copyright 2009 Kathy Collard Miller.Translated from Just Between Us, 777 S. Barker Road, Brookfield, WI 53045.

孤独ですか?~よい友情を築くために~

Are you lonely?
Are you lonely?  
 私が何ヶ月も心の奥深くで感じていた感情をついに口にすることができたのは、宣教旅行の最中でした。それは「孤独」でした。孤独であっても、その思いに支配されて何もできないというわけではありませんでした。

夫と私は神学校を出ると最初の教会に赴任し、やがて子供が与えられました。6ヶ月になる娘の世話をしながら、大学のチャプレンとしてパートタイムで働き、夫とともに教会の青年会を導き、家の用事もすべて完璧にしようとしました。何かが欠けているとは感じましたが、それが何であるかを考える暇もないほど日々忙しくしていました。学生達が一日の学びを終え、互いの交わりと冗談を楽しんでいるのを見た時、私はようやく自分に欠けているものが何かがわかったのでした。私には友人が必要だったのです。

思い返せば、なぜこんなに長い間、そのことに気づかなかったのでしょうか。理由の一つは様々なことで忙しかったからですが、別の一つは私の霊的プライドの高さゆえでした。プライドの高さゆえ、自分自身の必要に気づかないことがあります。

けれども、私は今日では「友」と呼べる人々に恵まれています。神様は私の祈りに応えてくださり、共に笑ったり泣いたりできる友を与えてくださいました。その友人たちとは勝利を祝ったり、試練の時に支えとなったりできます。また、共に互いの働きや信仰の歩みについて点検しあったりもします。神様は私の必要を豊かに満たしてくださいました。と同時に、私が変わるべき点もその過程で示してくださいました。

期待との折り合いをつける
 今の小さな町に引っ越してきて、私は友人ができることをとても期待していました。誰か私のような人で~つまり若い母親で、幸せな結婚をしていて、パートタイムの仕事をしているか専業主婦で、教会に通っている人。けれども、そういう人は見つかりませんでした。

その代わり、神様は違うタイプの友人を与えてくださいました。独身の教師、孫がいる70歳の女性、退職したエネルギッシュな人。私が当初期待していたような人は一人もいませんが、神様はもっと大切な友人の条件があると知っておられました。それは秘密を守ること、宣教への思い、人生の経験から得た知恵、祈りへの情熱などでした。神様は私以上に必要なものをご存知だったのです。

スケジュールを簡素化する
 私はかつて、友情を培う代わりに活動し続けることで穴を埋めようとしていました。スーパーウーマンになろうと必死だったので、真に大切なものを優先することができませんでした。伝道の働きに関わっていたにもかかわらず、デボーションも満足にできませんでした。友情を培うなど、もっと難しいことでした。霊的・精神的・肉体的健康のために、私はいくつかのことをあきらめなければなりませんでした。カレンダーに余白ができるようになって初めて、友情を築くためのゆとりを持つことができました。

自分から働きかける
 我が家を訪れて友達になろうと言ってくれる人が一人もいなかったことに、ある日私は気づきました。いつもの所に行き、いつもの人と会い、いつもの人と話すのは容易です。しかし、初めての人と会って関係を築くためには、時には私達の習慣を変えなければなりません。

私は自分が特別外向的だとは思いません。でも、毎週教会では様々な人と話すように心がけました。公園では、母親たちと話す機会をねらいました。親しくなりたいと思う人をランチに誘い、さまざまな地域活動やサークルに参加しました。効果のあったものもそうでないものもありましたが、その中で私は新しい人間関係や伝道のチャンスを得ました。

新しいことに挑戦する
 私はスクラップブッキングにチャレンジしました。別に珍しいことではありませんし、初めてその集まりに参加した時には、ステップフォード・ワイフ(訳注:米映画。主人公一家が引っ越した町の女性は、貞淑で完璧な妻たちばかりだった)のワンシーンが浮かびました。
けれども、その集まりはとても楽しく、現在の一番の親友である女性とも出会ったのです。今やそのグループは、自分たちが共に集まる場でもあり、同時に新しい人を招いて親しくなるリラックスした場でもあります。

自分の弱さを表す
 私は生来一人でいるのが好きな人間です。そして、公の場やリーダーの立場にある時に、個人的な葛藤を口にすることはできません 。率直に言いましょう。妊娠中の牧師夫人に向かって、教会の中心的メンバーが笑いながらとっても太って見えるわと言ったとき、「それはどうも、あなたもね!」と言いたくても、それをまさか集会の中でしたいとは思わないでしょう。

私達は正直に葛藤を分かち合える人を必要としています。重荷を互いに下ろしあい、祈りで支えてくれる人が必要なのです。このように弱さを表すことが、純粋な交わり、すなわち神が聖徒たちに望まれる心と心の結びつき、コイノニアなのです。

友人の中でも、どの程度分かち合うかは人によります。ある人には、「神様は私にある罪を示されたので苦しいの。祈ってね」とだけ伝えるでしょう。別の人にはもっと詳しく話すでしょう。詳しく話すためには親しい友情を培っておかねばなりません。

自分の思いを周囲の人に明らかにすることは、ある程度の危険を伴います。でも、その正直さがなければ、神様が語られる一つの方法である、キリストのからだを通して語っていただくという方法を逃してしまいます。

時折、リーダーや働き人たちは誰も必要でないという考えのわなにはまってしまいます。神様さえいれば十分ではないか、と。でも、神様は他の人を必要とする存在として私達を造られました。友人の必要を認めるのは弱さではなく、むしろ強さです。

 私達は全ての必要、友情という必要までも満たしてくださる神に仕えています。私達が姿勢を改めたり危険を冒したりしなければならないこともありますが、深い友情を築くことは可能です。神にとって難しすぎることは何もないのです。 


レイ・アン・パワーズ(Leigh Ann Powers)はテキサス州ルンゲ在住。日曜学校で教えるほか、フリーランスのライターでもある。2人の子供の母親で、料理とスクラップブッキング、読書が趣味。


Copyright 2009 Leigh Ann Powers. Translated from Just Between Us, 777 S. Barker Road, Brookfield, WI 53045.

静まって聴く  

            
                        ジル・ブリスコー
        
神様の声を聞くにはどのようにしたらよいか、誰もが知りたがっているように思います。エジプトへの宣教旅行中、私は何度となくそのことを質問されました。関心の高い話題なのです。「どうしたら神様の声が聞けるの?神様の声を聴くとはどういう意味なの?どんなふうにして?何を聴けばいいの?自分自身の心や思い、悪魔の声ではないとどのようにしてわかるの?」と知りたがっているのです。
 私が実際に体験したことをお話ししましょう。

 しばらく前のこと、私はある問題でとても心を痛めていました。親しい夫婦が助けを求めてきたのです。それはとても難しい問題で、彼らがそのことを話せば話すほど、ますます複雑になっていくように思われました。彼らは常に争っており、怒りに満ちた言葉で互いを傷つけあい、子供たちの生活はみじめになり、すべてのことについて絶えず心配していました。「平和がほしいだけなの」と彼らは言いました。何が全ての原因なのかと私は考え込みました。コミュニケーションの問題か、不信仰か、それとも経済的なことかしら?

 「どうして私のところに来たのですか」彼らの話を聞いたあとで私は尋ねました。
 「あなたなら神様の声を聴けるから、私達のために祈ってもらい、どうしたら解決できるかを聴いて教えてほしいんです」何とレベルの高い願いでしょう!

 確かに、もっともなことでした。私はクリスチャンのリーダーであり、クリスチャンのリーダーというものは自分自身のためだけでなく他の人のためにも神様の声を聴けると考えるのももっともです。実際、多くのリーダーは神の声を聴くためのセミナーに出席したり、教えをしたり、本を書いたりしていますから。

 友人夫婦が帰るとき、私は共に短く祈り、そして神様に彼らのことについて尋ねてみるわと約束しました。彼らが帰った後、私は頭を垂れて神様にそのことを短く尋ねたあと「アーメン」と言って、元の忙しい生活に戻りました。

 私は心の中でそのことを思いめぐらせ始めました。その週は特に忙しく、どのようにしてそのための時間をとることができるかわかりませんでした。そのうち何とかなるだろう、と考えました。それで、忙しい働きの日々の中で、この人が、あるいはあの人が(もちろん名前は内緒ですが)、何かよいアイデアを持っていないかと思いつつ過ごしましたが、誰にもわかりませんでした。それで、私はキリスト教書店に飛び込み、結婚生活の問題解決について書かれたある本をつかみました。でも助けにはなりませんでした。(実は、夫ステュアートと私も自身の結婚についての本を書きました。私は不和についての章を読み直したのです!)

 夜になって目を開けたまま、何か言うべきことを思いつくかと考えながら思いながら私は横になりました(もちろん、短い祈りの後でですが)。まるでかごの中で走り回る動物のように同じ思いがぐるぐる回り、いつも同じ混乱という場所に戻ってくるのでした。
 心の中のどこかで、「この問題について、あなたにしてもらいたいことがある。彼らに言わねばならないことがある。なぜ私に尋ねないのか。私は彼らの結婚がどうしてうまくいかないのかを知っているのだ」という静かな小さい声が聴こえたように思いました。でも、私はこの問題を自分の力で解決できなければならないと思っていました。いったい、私は50年間の働きの中で、どれほど多くの結婚カウンセリングをしてきたことでしょうか。その上、この声に従えば、「祈り」について集会で話すためスケジュールがぎっしりなのに、私にあるはずのない時間をとって神様に尋ねなければならないのです!
 私は、最後には罪悪感を覚えてベッドから起き出し、ひざをついて言いました。「主よ、あなたは私に何か助言をくださるのですか?」自分がいったい何を聴こうと期待しているのかわかりませんでした。精神科医のような声か何かを期待していたでしょうか。でも、全く何も聴こえてはきませんでした。それで私はベッドに戻り少し眠ろうとしました。

 明け方の何時ごろでしょうか、うとうとしていた時にある歌が聴こえたのです。どんな歌詞だったか正確には思い出せませんが、私は起きて鉛筆をとり、思いだせる限り書きとめました。うとうとしながら聴いたその歌詞は、私が書き取ったものよりずっとすてきで整ったものでしたが、できる限りよく書いてみました。それはこのような歌でした。

はやる心よ
私の言葉を聞きなさい
心の目を開きなさい
何が見えますか
今日心をじっと静めて
私が語ることを聴きなさい
はやる心よ
私の言葉を聞きなさい。

心配する心よ
御座に来なさい
みことばを読みなさい
そしてそれを彼らに伝えなさい
あなたの重荷を下ろしなさい
心が耐え切れないような重荷を
悩む心よ
私の御座に来なさい。

急ぐ心よ
私の恵みに憩いなさい
混乱を持って
歩みを落としなさい
上を見る時間を持ち
私の静かな愛にひたりなさい
急ぐ心よ
ここに来なさい。

 そこで、その日私は昼食をとらずに静かな公園を見つけ、ただ神様の元に来ました。神様の姿は見えなかったものの、私の周りにある神の臨在をなぜか感じました。
 「主よ、ここに来て私に語ってくださるまで、なぜこんなに長くかかったのですか」と私はつぶやきました。「みことばを通してあなたの声を聴くのだということを、私はなぜ学んでいないのでしょうか。この問題に執着し、人々には何が最善かを見極めようとして、どれほどの時間を無駄に費やしたことでしょうか。主よ、どうか教えてください。」そして私は主とともに座りました。私の焦る心、不安な魂、そして私自身は何が起こるのだろうかと思っていました。

 まず私は耳をすましました。何を聴こうとしているのかがほとんどわからなかったので、それは困難でした。はっきりした声だろうか?思いの中に語ってくださるのだろうか?神の声か私の想像か、どのように見分けたらよいのだろうか?もしかしたら天使が「深い知識を得る薬」を運んできて、それを求めるものにはいつでも与えられる生ける水とともに飲むなら、手品のように理解ができてすっきりするかもしれない。

 そのうちのどれも起こりませんでした。私はいらいらしてきました。というのも、昼食を抜いて神の声を聴くために出かけるだけでなく、その日には他にも多くの予定があったのです。すでに何もわからないまま半時間も時間を無駄に過ごしていました。

 私は何か助けはないかと聖書を読み始めました。突然、ダビデの言葉が心に浮かびました。「あなたのみことばは、私の足のともしび、私の道の光です(詩119:105)」、「私の目を開いてください。私が、あなたのみおしえのうちにある奇しいことに目を留めるようにしてください。(詩119:18)」 期待感が私の落ち着かない心の戸口までやってきました。私はそれを歓迎しました。
 私は、荒廃したイスラエルに向けて預言をしたイザヤの箇所を読んでいました。神の選びの民は不従順になってしまい、その身に災難を招きました。自分たちの行いの結果、なぜ困難な状況に置かれたのかを彼らは理解しようとしていました。なぜ心に平安がないのか、彼らは互いに尋ねあっていました。読み進むと、まさしく私がその日の夜明けに聴いた歌の内容がありました。「わたしに近づいて、これを聞け(イザ48:16)」。
 私はさらにイザヤの言葉を読み続けました。「今、神である主は私を、その御霊とともに遣わされた。あなたを贖う主、イスラエルの聖なる方はこう仰せられる。『わたしは、あなたの神、主である。わたしは、あなたに益になることを教え、あなたの歩むべき道にあなたを導く。あなたがわたしの命令に耳を傾けさえすれば、あなたのしあわせは川のように、あなたの正義は海の波のようになるであろうに。』(イザ48:17-18)」

 私のところに相談を持ちかけた夫婦は、神様の教えに注意を払っていませんでした。それどころか、実際には長い間不従順な生活を送っていました。私はそれを知りながらも、まるで彼らが神への不従順とは関係ないかのようにその問題を扱おうとしていたのです!神様に対する反抗的な態度が、彼らの夫婦関係に何の影響もないかのように!その時私にはそれがはっきりわかりました。
 これがその日神様の声を聴いたいきさつでした。みことばと、聖書の原則を直面している問題に適用することを通してでした。私達は皆、神様の教えに目を向ける必要があります。クリスチャンの結婚生活における原則についても、神様は教えておられます。

 私はほっとしました。何か問題なのか探ろうとしてせわしなく動き回っていた心は落ち着きました。ざわついた心に平安が川のように流れてきました。すばらしい解放でした。心からすっきりしました。
 そして私は、その問題をかかえた夫婦が神との関係を正しくし、従順な生活を始めるよう助けることができたのです。その時、ようやく彼らの難しい関係にも平安が訪れ始めたのでした。静かに流れる川のような平和が!
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ジル・ブリスコー(Jill Briscoe)は Just Between Usの主筆。また、ワールド・リリーフやクリスチャニティ・トゥディ誌の理事も務める。世界的に有名な説教者でもある。彼女と夫ステュアートには3人の子供と13人の孫がいる。


Copyright 2008 Jill Briscoe. Translated from Just Between Us, 777 S. Barker Road, Brookfield, WI 53045.

準備はできていますか?~Good to go?~

              
              ジル・ブリスコー        



 最終目的地へのフライトを待つ間、私はスターバックスに立ち寄りました。飲み物を受け取って、これはラテですかと尋ねると、店員は「ええ、そうですよ。できています(good to go)からお持ちください」と言いました。彼女は、注文したものができており、私が必要なものを持っていけるということを言っていたのです。

 空港では、再度持ち物チェックを受けました。そして、検査官が「はい、ではどうぞ(good to go)通っていいですよ」と言いました。この人は、私の身体や持ち物すべてが大丈夫だということを言っていました。

 私は刑務所に向かう途中でした。毎年この時期には、テキサス州の刑務所で奉仕する「ディサイプルシップ・アンリミテッド(Discipleship Unlimited)」という団体のボランティアチームに加わっています。この団体は教会からの奉仕者を訓練し、国内で最も大きな刑務所の一つで3日間の「クルセード」を開催しています。私の務めは5回のチャペルでメッセージをし、可能ならば受刑者と共に祈り、許されるなら実際に手をふれ、ハグをする(もちろん女性に対してのみですが)というものでした。チームの中には独房や死刑囚の部屋に行く人もいます。



 私達の親友であるダラス&リンダ・ストローム夫妻は、この団体で公式に何年も働いてきました。ダラスはガンと闘っていました。もうホスピスに移り、私がそこに行った時、彼はチームの人たちや親しい友達に別れのあいさつをしていました。

 涙ながらに話し、パウロがエペソの人たちに別れを言う使徒20章の記事を苦しい気持ちで読みながら、私は36-38節に来るのを待っていました。それこそが彼が行こうとしている道だと知っていたからです。「こう言い終わって、彼(パウロ)はひざまずき、みなの者とともに祈った。みなは声をあげて泣き、パウロの首を抱いて幾度も口づけし、彼が、『もう二度と私の顔を見ることがないでしょう。』と言ったことばによって、特に心を痛めた。」何ということでしょう。チームのメンバーやストローム夫妻の親しい友人の幾人かは、自分たちがエペソの人たちと共に海岸に立っているように感じました。

 私は身体的にも霊的にも巨人であるこの人を見ながら、神様に彼と知り合えたこと、そして今の瞬間があることを感謝しました。スポルジョンの言うところの「新しいエルサレム」に座っている神の人と話せたのはなんと名誉なことでしょうか。

 私が個人的に別れを述べた後、彼は満面の笑みを浮かべ、「準備完了(good to go)」であることを示してくれました。それは疑いの余地がありません。彼は私に、拘置所にいる愛する男性たちに、自分が行って話すことができないと伝えてほしいと頼みました。また、彼らの愛、祈り、涙への感謝を伝えるように、また、イエス様のことを聞いた人たちには神様を知り愛して従ってほしいということも頼みました。彼はどんなに男性たちのことを思っていたことでしょうか。これが私の任務でした。何について話すべきかと彼に尋ねると、男性たちを養ってほしいということでした。男性たちが自由に集まることは制限されており、どうしたらよいのかを知りたがっているということでした。「主が語ってくださるよ。彼らは空腹でたまらないんだ」と彼は言いました。



私達が刑務所で何ができるかは、全て各刑務所の官吏たちにかかっています。去年、私はこの特別な場所に初めてきて、受刑者たちが賛美チームを結成して賛美をリードしているのに驚き、彼らがカベに描いたイエス様の絵に感動しました。また、信仰書や聖書のある図書室もありました。アルファコース(聖書の学び会)が地元の教会のチームによって開催され、男性たちが毎週主に自分の人生を明け渡していました。ダラスがチャペルに来たときには、男性たちに教え祈ることができました。彼らに自分が深刻な病だと話した時には、男性たちは看守に座席を立ち彼のところで祈れるように頼みました。そして看守はそれを許可してくれました。その光景はすばらしく、女性の刑務所でも報告されました。

 でも今年は違いました。「看守の異動」が行われ、壁画は塗り消され、バンドは解散し、図書室はなくなっていました。「クルセード」の前夜、私達のチームはそのことで長い祈り会を持ちました。翌日、ストローム夫妻の働きにとても好意的だった官吏がリンダに電話をくれ、メッセンジャーとバンドを男性の刑務所に送ってもよいと言ってくれました。チームは「準備完了(good to go)」となりました。

 「でも主よ、一体誰がこのようなところにふさわしいでしょうか」刑務所に着き、中に入るさまざまな手続きをふみながら、私は落ち着かなくて主に尋ねました。「一体1時間半の間、何を語ればよいというのでしょうか。小グループになることもできません。入所している人たちと会話のやりとりをすることもできません。」



 舞台に座って、チャペルが一杯になるのを見ながら、私はパニックに陥りました。去年のことを考えてみました。私は何を話したかしら?思い出せませんでした。もし同じことを話してしまったらどうしよう。それは恥ずかしいことだわ。もし思い出せたら、そこから続きを話せるのに。賛美チームがワーシップを歌う間も、私は口をつぐんだままでした。男性の受刑者たちが立ち上がって主を礼拝したそうで(許可されていません)、その場で手を上げたりひざをつういたりしている(許可されていました)のを見ました。胸が痛みました。「心の中では立ち上がってね。神様は見ておられるから」と心で彼らに語りました。

 「神様、私は何を語ったか知る必要があります」と私は必死に祈りました。なぜかわかりませんが、もしわかったらヒントが与えられるだろうと思いました。実は、なぜかそうだと思いこんでいたのです。けれどもどうやったら思い出せるでしょうか。去年のそのときから今まで、いったい何百のメッセージを語ってきたことでしょうか。



 突然、後ろに近い席のヒスパニック系の男性と話している看守が目に入りました。その男性は私を指差して、看守に何かを渡していました。看守は座席のそばを歩き、舞台の方に来て、私にその男性の聖書を手渡しました。それは大きく、ページが折られ、そこらじゅうに書き込みがしてありました。私が顔を上げると、男性は満面の笑みを浮かべて天を指差しました。「あなたのサインがほしいそうですよ」と看守が言いました。

 表紙を開くと、去年の私のメッセージが、きれいな字で簡潔にメモしてあったのです!私は顔を上げて主にあるその兄弟に、「ありがとう、言葉にできないくらい感謝よ」と言いました。そのメモを読み、私は何を語るべきかをはっきり悟りました。

 10分後、私は立ったまま、「1時間半もですか、主よ。私はノートを持っていないのです。私にどれほどノートが必要かご存知でしょう」と思っていました。

 「時間が足りないくらいだよ」と主が言われるのがわかりました。そして、「私はあなたに聖霊を与えたのだよ。準備は完了している(Good to go)!」とも。聖霊以上に私にとって必要なものがあるでしょうか。



 私はダビデ王の話をしました。5つの滑らかな石というおもちゃのような物で、若いダビデは20歳にもなる前に大男を倒しました。その後、バテシェバとのエピソードへと話を進めました。誘惑とそれが大きくなるまでの段階、つまりダビデが霊的な訓練を怠り、気が緩んだことが、不従順などにつながったということを話しました。私はバテシェバについても述べました。彼ら二人でその情事を楽しんだのですから。バテシェバは孤独で退屈しており、夫は不在だったのです。彼女は喜んでダビデの所に行ったのであり、ダビデもバテシェバもやめなかったのです。そして大きな損失が生じたのでした。

 その後、詩篇51篇に移り、残りの時間はダビデがすばらしい勝利を得た、悔い改めの詩篇について話しました。全ての罪は「大きな」罪です。でも神にとって許すことのできないほど大きな罪はありません。そして罪の後にも人生があります。神の心にかなった人と言われたダビデでさえ、一夜の欲望に負けて十戒のうち7つを破ってしまいましたが、彼は「打ち砕かれ悔いる心を 神よ、あなたは侮られません。  わたしはあなたの道を教えます あなたに背いている者に 罪人が御もとに立ち帰るように」と言って結んでいます。

 最後には長い祈りの時を持って終わりました。私は講壇を去りましたが(それ以外に方法がなかったので)、見るとすぐには忘れられないような光景がありました。こつこつと聖書にメモを取っていた、そのヒスパニック系の男性は、独房に帰っていくとき私を見て言いました。「マザー、ありがとう!」彼の笑顔はなくならないでしょう。彼も準備完了(good to go)でした。



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編集者注:ジルが刑務所で奉仕をした直後、ダラス・ストームは主のみもとに帰った。 Discipleship Unlimited について詳しくは liferow.org. を。

ジル・ブリスコー(Jill Briscoe)は Just Between Usの主筆。また、ワールド・リリーフやクリスチャニティ・トゥディ誌の理事も務める。世界的に有名な説教者でもある。彼女と夫ステュアートには3人の子供と13人の孫がいる。



Copyright 2008 Jill Briscoe. Translated from Just Between Us, 777 S. Barker Road, Brookfield, WI 53045.



 

二重の生活~笑顔の陰の真実~  

           

              ジェニファー・ピーターソン  



 その晴れた12月の朝は日曜日で、からっとした天気のよい夜明けを迎えました。でも、トイレのドアを閉めた向こうで、私の心は嵐のようでした。吐き気とめまいで倒れるのではないかと思いながら、目の奥からのひどい頭痛を覚えていました。

 「無理だ、ひどいことだ。だれもわかってくれないだろう。がっかりするだろう」

何とか教会に行く準備をしようとしていると、頭の中でその声がこだましました。着替えて化粧をし、ヘアスタイルをととのえると同時に、2人の子供に食事をさせ、顔をふいてやり、服を着せ、礼拝に間に合うように家を出なければなりませんでした。「何を考えていたんだい。気でも狂ったのか。おまえにはできない、できない・・・。」

 何とか床から立ち上がろうとすると、その朝3度目でしたが、吐き気のためにまたしゃがみこみ、心臓が激しく音をたてていました。私は「サタンよ、退け。私がしようとすることを、お前はとどめることができない。主よ、助けてください!」と叫びました。

 夫はいつものように、日の出前にすでに教会に行っていました。子供を連れて教会に時間どおりに行くのは私の責任でした。しかし、これはいつもどおりの日曜の朝ではなかったのです。この日の礼拝で、夫が8年間ユースパスターとして仕えた会衆の前に立ち、私たち夫婦はそこを離れることを告げようとしていました。また同時に、私たちの生活についての辛く、情けない事実について話そうと考えていました。

 私は悪魔がこれをやめさせようと直接攻撃してきているのだということを十分理解していました。正直に言うと、ベッドに戻って布団をかぶって隠れていたいというのは私の思いの一部でもありました。でも、サタンは勝利しませんでした。イエス・キリストはこの12月の朝に勝利をとってくださったのでした。

 私が自分の仮面をはずし、笑顔の影に隠していた真実を明かす時だったのです。私の生活はうつとアルコール依存という危険な悪循環を繰り返していました。

 ごく数人の親しい友人でさえ部分的にしか知りませんでしたが、私は二重の生活をしていました。私の秘密はアルコールとの闘い、心配とうつとの葛藤、時々死んでしまいたいと思うほどの暗い気持ちでした。この日曜に先立つ何週間か、私は浴びるようにお酒を飲み、拘置所で一晩を過ごし、運転免許を取り消されてしまいました。絶望的な状況だったといえるかもしれません。

 頭がはっきりしている少しの時間の中で、神様はこの状況を回復させるための第一歩となるご計画を私に示してくださいました。それは、私が会衆の前で自分の罪を告白しなければならないということでした。夫婦として、私達は教会の家族からのサポートと祈りが必要だと認めなければなりませんでした。夫は若者へのミニストリーをやめ、第一の最も重要な召し、つまり自分の家族への牧会をする必要があったのです。

 私達夫婦は、自分達の生活が全くバランスを欠いており、コントロールできていないということがわかりました。夫については、家族との大切な時間を犠牲にして、若者への宣教に没頭していました。私はだんだんと孤独を感じ、彼に捨てられたような気持ちを慰めるため、アルコールに走りました。学生を牧会するために彼が夜や週末に出かけると、私は自己憐憫と孤独をワインで慰めました。時間がたつにつれ、アルコールが夫に対して感じ初めていた苦い思いや憤りの感情をまひさせてくれるので、それにますます依存していくのがわかりました。「彼にとっては教会が一番、子供や私はその次だわ」というのが私の呪文のようになりました。

 同時に、私は「全てが順調だ」というふりをして日曜の朝や水曜の夜教会に行っていました。聖歌隊で賛美しました。別の時には、青年たちを支えるために手助けをしました。家にいる母親たちのためにスモールグループまで始め、5年間も定期的に続けました。外での生活と家の中での生活のギャップはだんだんと大きくなり、私は内面から引き裂かれるようでした。

 この偽善的な生き方を思うと、罪意識、恥意識、嫌悪感が洪水のように押し寄せてきました。二重の生活をし続けるのは、肉体的にも情緒的にも、そして霊的にも疲れ果てることでした。そこで、人生の困難をアルコールで処理するのを必死にやめようと思いました。自分が罪の中に生きており、アルコールが人生の偶像になっているとわかりました。この罪はイエス様が私と親しい関係を築くための妨げになるとわかっていました。やがて、これは死と滅びへと続くものだとわかっていました。でも、この悪の要塞が自分を誘惑し巻き込むのを許し続けていました(ヤコブ1:14-15)。

 私はこの葛藤の一部を自分のスモールグループにいる何人かの女性に分かち合いました。でも「恐ろしい」詳細についてはいつも伏せていました。私はあまりにも多くの秘密を持っており、それらは精神的な苦痛と中毒という傷をもたらしました。ずっと前にどこかで「あなたは自分の秘密と同じ大きさで病んでいる」というのを読んだことがあります。まさに真実です。私の秘密はもうすぐ明らかにされようとしていました・・・。



私はその朝、自分の身体的・精神的な弱さと格闘しました。神様はこの惨めな有様を終わりにする方法を、少なくとも今の状態を正す方法を備えてくださるとわかっていました。私は12月のその朝、家を出て教会に行きました。サタンは負けそうになっても別の手段を持っていました。闘いを挑まずにやめることはありませんでした。しかし、私は自分の中のある部分で詩篇8:6にあるサタンを私の足の下に置くという約束にしがみついていました。

 私はキリストにあって受け継いだもの、愛する神の子としての油注ぎをしっかり握っていました。私はその会衆の前に立たなければなりませんでした。神様は暗闇の中から私を呼び出してくださっていました。私は光の中にふみこまねばなりませんでした。

 その日曜の朝、私たち夫婦が仕えるよう召された人々の前に、私は心を注ぎだしました。口から言葉が出るときに、私は超自然的なきよめが心の中で起こっているのを感じることができました。開いた傷口のように、痛み、ひりひり燃えるようでしたが、私はさらに深く話し続けました。自分の依存症や、誤った判断のために法律上のトラブルを起こしたことも告白しました。苦み、怒り、うつに陥った霊的な状態も明らかにしました。

 夫はいつも自分がミニストリーの目標を追い求め、家族を犠牲にしていたことを認めました。彼はユースパスターとしての役割を一時的に退き、家族を正しく導きたいと述べました。私達が話し終えると、会堂には重い沈黙が流れました。

 主任牧師が立ち上がり、だれでも私達夫婦の上に手を置いて祈りたい人は前に出てくるようにと言いました。まもなく、人々が私達に手を置いて祈るために前にやってきました。私達夫婦は頭を垂れて座っていましたが、周りで祈りが始まり、多くの手が私達にふれているという重みと暖かさを感じることができました。老若男女を問わず、私達のためにそれぞれが祈りました。後で聞きましたが、誰も自分の座席にいなかったということです。教会にその日いた全員が前に出てきて輪になり、それぞれが手を置いてくれました。私達はその手に触れられ、聖霊の力を受けることができました。



 4年がたちましたが、私はその朝のことを心にとめています。あの経験を通して、私は人々の集まり、告白、回復について重要なことを学びました。第一に、私達は人々の集まりの中で、他の人々と共に生きるように造られているということです。孤独は危険であり、人生から喜びを奪ってしまいます。第二に、告白は人々の集まりの中で必要なものだということです。危険が伴いますし、痛みもありますが、癒しの過程に入るのに必要です(ヤコブ5:16)。

 時には、真実で本物のコミュニティーを生み出すために、ある人の最も深く暗い部分が明らかにされなければならないことがあります。どんな人にもストーリーがあります。最後に、神様は力あるお方で、どんな人生や罪深い状況でも回復させたいと願っておられるということです。私の回復の恵みは、私がいたコミュニティーを大切にし、告白という訓練を実践したときに初めて受け取れました。その時にのみ、私は自分の人生において、真実で持続的な癒しの始まりを手にしたのです。



どのようにして仮面をとりますか?



 この胸を打つ記事を書いた人のことが理解できますか?心の痛みを隠すことをやめたいという思いは、神様が与えてくださるものです。多くの人にとっては、どのように隠していたものを明らかにすればよいのかが課題でしょう。以下に示すいくつかのステップと情報は、その過程を始める助けになるでしょう。



  1. 神様に自分の痛みがどれだけかを言い表してください。あなたの秘密を神様に打ち明けてください。もし声に出して祈るのが難しいなら、書き出してみてください。神様は全てをご存知で、あなたを心から愛しておられます。神様に秘密を打ち明けることは、信頼と礼拝の行為です。このステップをふむことは、自分自身を理解し、他の人に痛みを打ち明けるための助けとなるでしょう。
  2. だれか一人にあなたの痛みと葛藤を打ち明けてください。祈りつつ、誰に打ち明けるのが最も適当かを考えてください。愛があり、共感力があり、秘密を守り、あれこれ指示することのない人が適当です。 もしそのような人がいない場合は、外部に助けを求めることを考えてください。配慮や共感を持って聞いてくれるような他の教会やキリスト教団体がありますか。もしあれば、電話をしてどうすればよいか問い合わせてください。
  3. もし住んでいる地域に助けがない場合、後述の団体に相談してください(アメリカ国内の団体)。

 会衆や教会のリーダーシップの状態により、時には、全ての会衆の前で告白する必要がない場合、むしろ適切でない場合があることを覚えておいてください。まずあなたが最初に打ち明ける人が、最善の方法を考えてくれでしょうから、もし必要があれば、さらに多くの人の前で告するとよいでしょう。不必要になされたり、告白を受け止めることのできない人々の前で「告白」という名でなされたことは、大きなダメージを与えます。

 このプロセスの間、癒しのために神様があなたの前においてくださった方法を受け入れられる心でいてください。専門家のセラピー、医療、休養、そして深い霊的な友情はあなたが自由になるために相互に働き作用しあうのです。



連絡先(アメリカ国内の場合)

American Association of Christian Counselors (AACC) ? www.aacc.net

Open Hearts Ministry ? openhearts.gospelcom.net/

Celebrate Recovery ? www.celebraterecovery.com



by ジェニー・ヘックマン M.S. in Marriage and Family Counseling



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ジェニファー・ピーターソン(Jenifer Peterson)は夫とともにミシガン州ホーランドで学生伝道に携わっている。また、牧会ケアの専門家でもある。結婚16年で、2人の子供がいる。



Copyright 2008 Jenifer Peterson. Translated from Just Between Us, 777 S. Barker Road, Brookfield, WI 53045.

今日の霊的な訓練 


              ヘザー・A・グッドマン        

 私達はなんて不完全なものでしょうか。教会の女性たちが日々神様とつながり、創造主であるお方と強い絆で結ばれてほしいと思うのに、当の私達といったら、聖書の学びのテキストを書き、それを教え、スタッフミーティングに出席し、カウンセリングをし、行事の流れを見守り、それに出席し、特に必要を覚えている人からの電話を受け、ケアしている人に配慮している時には神様の臨在を忘れてしまうのです。

 

 神学校を卒業した後、私はその学位を用いて仕事につきました。4年間にわたる徹夜の勉強、ギリシャ語やヘブル語訳、「ルター曰く」という神学ゲームなどの中で、私はエペソ書の釈義が最もよくでき、信者を牧会できると思っていました。でも神様は私をまだ用いようとはされませんでした。まず静まり、主を知ることが必要だと私に教える必要があったのです。

 音楽家は、ラフマニノフの曲を弾くには日々スケールの練習をすることが必要だと知っています。同様に、他の人に生活を通して霊的な養いを与えるには、私達が神様と霊的な関係を持つことが必要です。霊的な訓練を復活させることで私達はこの関係を持つ方法がわかるようになりますが、それでもこの方法をどのように使ったらよいのかや、上司や子供たちの要求に応えながら過ごす教会内の女性達に、どのようにこの方法を実際的なやり方で伝えればよいのかがわからないことが多いのです。私達の霊的な歩みを具体的に測るカギは何でしょうか。



心の中の独り言を会話に変える。

 これは病的な精神状態のことを言っているのではありません。「絶えず祈る」(Ⅰテサ5:17)ことについてです。車の中で、スーパーで、退屈なクラスの間に、神と語ってください。スタッフミーティング中にはいらいらした気持ちを主に向け、渋滞の中では傷ついた友のために神にとりなしてください。別に神学的に深い祈りをする必要はありません。あなたが神の臨在を感じ続けることができるよう、神と会話してさえいればよいのです。



日々みことばに親しむ自分なりの方法を見つける。

 ダビデは「あなたに罪を犯さないため、私は、あなたのことばを心にたくわえました」(詩119:11)と言っています。この国では、聖書を通読するための機会がそれはたくさんあります。昼休みに日々のデボーションサイトにアクセスしてもよいし、通勤やふろ掃除の間に聖書を聴くこともできます。

 私達夫婦はこのごろ、その日読む箇所を区切ってあり、1年、2年、あるいは4年かけて読み通すことができるようにしてある旧新約聖書をThe Message訳で読んでいます。もしこういうやり方をするなら、2つアドバイスがあります。

(1)読めない日があってもがっかりしないでください。次の日にそこから読めばよいのですから。
(2)全てのニュアンスや意味がわからなくても大丈夫です。深くじっくり読むこともあれば、神がくださる新鮮な水であるみことばをただ浴びるという時もあるのです。研究者や教師として、注解書や辞書を開きたくなりますが、時には個々の意味を理解するよりも、例えばレビ記に出てくる聖さのように、大きく概観することで新たな思いが与えられることがあります。

 聖書通読は何も1月に始める必要はありません。自分の誕生日から、あるいは次ぎの月曜日からスタートし、終わったら特別なごちそうや祈りで主を喜ぶ時を持ち、さらに通読の過程で学んだことを3つリストアップしてみてください。

 日々のデボーションのもう一つのやり方は、オズワルド・チェンバーズの「いと高き方のもとに」やオンラインのデボーションThe High Calling's online devotional (www.thehighcalling.org)などのデボーションガイドを使う方法です。これらはより短時間でデボーションができるので、忙しい方には合っていると思います。食事時や夜入浴してリラックスしている時にも読むことができます(もちろん、ぬれた体のそばにあるコンピューターには注意が必要ですが!)。

 家族団らんの時にもしてください。夕食後、子供たちがビデオゲームに負けてだだをこねた時には、神様を第一にすることを教える機会となり、家族が神に近づくよい時となるでしょう。

 このところ、私はオーディオを通して聖書を聴くのが気に入っています。いくつかの団体ではMP3方式で聖書をダウンロードすることができ、コンピュータで聴いたり、CDにコピーして車で流したり、洗濯をたたみながら(乾燥機から引っ張り出してそのまま着るのではなく、私と同じように服をたたむのが好きな人にとっては)iPodで聴いたりすることができます。 



定期的に一食を断食する。

 断食はおそらく、霊的訓練としては最も多くの見解があるものの一つでしょう。誤って他の目的に用いることもできる反面、断食は神を喜ばせみこころを探るために、時間をささげる時とすることもできるのです。聖書には神の民がみこころを探るために断食した多くの例が出てきます(Ⅰ列21;ネヘ1:4; 9:1; ルカ2:37;使13:2; 14:23)。断食により、祈りや多くは主への奉仕に専心するのです。

 昼食をとりながらの会議や子供たちが食事をほしがると、断食は難しくなります。前もって日にちを調整し、神と交わるための日をきちんと確保してください。最初はあまり無理なことをしないでください。多くの人がまる一日断食しようとしますが、一食を断食してください。いつもなら食事をしている時間を祈りに使ってください。何を祈るかは心配しなくてもよいのです。神様に話すことがなくなったら、何か音楽をかけるか好きな詩篇を見つけましょう。午後になってお腹がグーグーなったら、それをキリストが私達のために犠牲となり、体をさいて血を流し、私達が子羊の祝宴に招かれているという希望を思い出す合図にしましょう。

 断食のかわりに、時間を決めてあるものを断つことにしてもよいでしょう。ある友人はお決まりのポテトチップをやめることにしました。なぜなら、彼女はがっかりすると、神様よりもかばんにあるポテトチップに慰めと平安を求めていたことに気づいたからです。私は1ヵ月間テレビをやめようかと思案しているところです(もし1ヵ月間、好きな番組がなかったらできると思いますが)。



喜んで犠牲を払う。

 以上は日々の生活の中で霊的な訓練を通して神とともに歩むめやすを表していますが、心に留めていただきたいことは、私たちが主に仕えるために、神様は私達を心地よいところから連れ出されるということです。ブログの時間、テレビ番組、あるいはいろいろな教会や地域の集まりに参加することでさえも、日常生活の中の何かをささげる必要が出てくるかもしれません。私達夫婦は、毎日聖書を読み祈るために目覚まし時計を早めにセットしています。夜だと私達はゆっくり静まることができないからです。

 時間に追われ、スケジュールの詰まったこの社会では、犠牲として召されていることを忘れ、インスタントな答えをほしがる女性達に犠牲を教えることを忘れてしまいがちです。

 私にとっては、毎日ピアノを練習する時間を確保するには訓練が必要ですが、独創的なやり方でストレスは軽くなります。もし何時間も、あるいは1時間でさえピアノに集中できないなら、5分でも、スパゲティをゆでるお湯が沸くまでの時間でもスケールや練習曲を弾きます。霊的な生活も同じような考え方ができます。毎日、毎週は何時間もとれないかもしれませんが、もしそうしたいと思うならキリストに焦点を合わせる時間を確保することができるのです。

 宣教においても、モラル上の些細な妥協をするのはたやすいことです。私達は皆、公には姿を見せなくなった有名な働き人を、少なくとも一人は知っていることでしょう。その結果をもたらしたと思われる行為は、彼らにとっては正しい狭い道から足を踏み外した第一歩というわけではないと思われます。生活において、私達を取り巻く世界に毒されるのはたやすいのですから。

 

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ヘザー・A.グッドマン(Heather A. Goodman)はダラス神学校卒、ライター・スピーカーとして仕えている。彼女については www.heatheragoodman.com.を参照のこと。




Copyright 2008 Heather A. Goodman. Translated from Just Between Us, 777 S. Barker Road, Brookfield, WI 53045.

後悔することの危険性


              ステーシー・ウィークス        

 "ロトのうしろにいた彼の妻は、振り返ったので、塩の柱になってしまった。" (創 19:26)

 後悔は一般に知られている感情です。 聖書には後悔を招く決断をした家族の例がたくさん出てきます。ヨセフを奴隷として売り飛ばした兄たちは、後にヨセフの恩恵を受けて後悔しました。ダビデは自分の罪の重さを知った時、バテシェバとの情事を悔やみました。

 しかし、どちらの家の例も、いかに神様が愚かな選択を神の栄光の現れる機会へと変えてくださったかが分かります。ヨセフはひどい兄たちにあわれみを示すことで勝利しました。ダビデは主との交わりを回復し、ヘブル11章では神の御旨に従った人の一人として名前が挙がっています。

 後悔とは、私達がした、あるいはしなかったことについての思いです。過去の失敗に目をとめると、現在を正しく見るはずの目が曇ってしまいます。そして、聖書を見ると、神様は私達が失敗や愚かな決断をして後悔にさいなまれていても、秩序や正義を回復することがおできになるとわかります。インターネット上の調査によれば、何かをしたことよりも、何かをしなかったことについて後悔を感じる人がわずかに多いということです。したことであれしなかったことであれ、後悔は宣教にとってふさわしくない態度です。

 宣教と後悔とは、密接な関係があります。宣教のダイナミクスを見ればみるほど、私達がいかにしばしば、愛し仕えるように召されている人々を傷つけてしまうかがわかります。ほとんどの教会には、キリストの家族としての体のうちに失敗した計画、有害な言葉、漠然とした不満が山のようにあるのです。でも、過去の傷があったとしても、これが神をほめたたえるのに必要な教会という家族なのです。

 宣教に関わる女性として、私には後悔があります。妻として、母として、姉妹として、娘として、私には後悔があります。問題にどう直面したかで後悔し、どう避けたかで後悔します。苦々しさにしがみついては後悔し、利己主義になっては後悔します。信仰を持って歩めなかったことに後悔し、神を差し置いて前に出てしまっては後悔します。

 ロトの家族と同様、何かをしてもしなくても私には後悔があります。ロトたちはどんな後悔をしていたのでしょうか。怒った群集に娘を差し出してしまったことをロトは後悔したのでしょうか。ロトの妻は従って出てきたのを後悔したのでしょうか。ロトの娘達は、婚約者を残してきたのを後悔したのでしょうか。そして、ロトの妻は振り返って何を見たのでしょうか。

 ロト一家がそれぞれ持っていた後悔は、多くの教会という家族が持つ同じ種類の後悔を示しています。彼らの記事を概観し、共通点を探ってみましょう。その前の夜、男性たちは皆(老いも若きも)ロト家を取り囲み、彼らにとってはただの人間に思えた、客である二人の天使をレイプしようとしました。客を出せという汚れた群衆たちの要求があまりにも強かったので、ロトは代わりに処女であった自分の娘たちを差し出しました。

 私は母親として、こんな解決が許されるような文化の中で生活するのは想像できません。娘として、自分が犠牲として差し出されるのは考えることができません。妻として、こうした状況で言われるがままになることは想像できません。女性として、こんな罪からついに自由になったのに後ろを振り返ることが理解できません。

 ささいなモラルの乱れがどのくらい重なったらこのように大きなものになるのでしょうか。ロトと妻はどのくらい頻繁に信仰を妥協し、神を恐れぬ近隣の人々をなだめるために家族を犠牲にしていたのでしょうか。ソドムとゴモラの堕落はひどいものでした。非常に退廃しており、ロトの申し出に嫌悪感をいだく親はいませんでした。

 宣教においても、モラル上の些細な妥協をするのはたやすいことです。私達は皆、公には姿を見せなくなった有名な働き人を、少なくとも一人は知っていることでしょう。その結果をもたらしたと思われる行為は、彼らにとっては正しい狭い道から足を踏み外した第一歩というわけではないと思われます。生活において、私達を取り巻く世界に毒されるのはたやすいことなのです。

 感謝なことに、神様は介入してくださいます。神様は御使いを通してロトを安全な神の家に連れ戻そうとされ、罪に汚れた町を滅ぼすように命じられました。なんという神様の恵みでしょうか。ロト達のお粗末な親としての姿勢や過去の妥協にもかかわらず、神様はロトの家を回復する価値があると思われたのです。

 ロトの家族を救い、山に逃れ場を与えるという神の計画を御使いが彼に知らせた時、ロトは躊躇しました。なんと、彼は躊躇したのです!その前の晩に彼の家の戸口でひどいことが起こったのに、彼は行くことを躊躇しました。御使いは急ぐようにと言いましたが、ロトはぐずぐずして「山に逃げるのでは死んでしまいます。あそこの町に逃れ、生きのびさせてください」と、取り引きをしました。神様はロトの家族にさらに恵みを与えてくださいました。

 なぜ神様はロトの家族にさえ目をとめてくださったのでしょうか。ロトは罪深い周囲の環境に影響され、自分の娘さえ犠牲にしようとしました。神様の恵みを受け取るのを躊躇しました。神様がくださるよりもずっと良さそうに思えたものを取り引きしました。感謝をあらわさないことについて話しましょう。

 私は神様の恵みをいただくのに何度躊躇しているでしょうか。恵みを分かち合うのを何度躊躇しているでしょうか。私にはロトとの共通点が多くあります。また、教会の人々との共通点もたくさんあります。救いは神の恵みによって与えられたもので、私自身の功績ではありません。恵みによって救われましたが、私自身はそれに値しない者なのです。宣教において、時にはフラストレーションを感じるような出来事がありますが、神様はご自身の子どもたちに下さった価値をごらんになり、どんな時にも御腕の中に備えてくださった安全な場所へと私達がかけこむ機会を与えたいと願っておられるのです。

 ロトの一家は私達の多くと似ています。霊性に欠けていると気づきながらも、変化することを先延ばしにしてしまうのです。ロト達は変革の必要性を最も認識した人たちではありませんでした。だから時にかなった方法でそれを成し遂げることができませんでした。あなたも、先延ばしになった変革に取り組む人々でいっぱいの教会で働いているわけではありません。私達はいかに自分の罪、ためらい、後ろを見たいという思いにしがみついていることでしょうか。

 ロトの家族が命がけで逃げた時、彼らは一つのことを命じられました。それは、後ろを振り返ってはいけないということでした。ロトは振り返りませんでした。娘たちも振り返りませんでした。しかし、彼の妻は・・・その時何を考えていたのでしょうか。

 やっと周囲の悪から自由になり、ロトの妻は喜んで神様が下さる未来の備えに目を向けるべきでした。しかし、彼女は振り返ってしまったのです。好奇心からでしょうか?財産のことを考えたのでしょうか。滅びる隣人を哀れに思ったのでしょうか。自分自身の経験から、ロトの妻は家や友達、そこでの快適な暮らしを思い出して振り返ってしまったのだと私は確信しています。私はいつの間にか快適な罪に戻ってしまうことがなんとよくあるでしょうか。不快な言葉や配慮のない行為を後悔しながら、次の日にはまた繰り返してしまうことがどれほどあることでしょうか。なんとたやすく、有害な罪のパターンに戻ってしまうことでしょうか。



 私もロトの妻と同じです。赦すのをためらったり、過去の傷を覚えていたり、現在に不満を抱いていたりと、前を見る代わりに後ろを見ていることがたくさんあります。自己中心的な選択を正当化するのはたやすいのです。

 私には彼女の思いが耳に聞こえるようです。「ちょっと見るだけ。それぐらい、大丈夫よ。逃げてきたのだもの。大丈夫に違いないわ。」私も同じような考えをしています。不従順を正当化してきました。ちょっと見るだけ。ちょっと口にするだけ。ちょっと考えるだけ。ちょっとするだけ。それぐらい、大丈夫。「ほんの小さな罪に過ぎないわ」と考えます。でもそうではないのです。

 1回だけ後ろを振り返るというのは、神様が直接命じられたことに対してわがままで不従順な行為です。してはいけないのです。神様は私達に前を向き、ゴールラインに集中してほしいと思われるのです。私達が自己憐憫にふけり、神のあわれみを御顔に投げ返すようなことをするなら、神様からの答えはつかの間で、最終のものとなる可能性があります。ロトの妻は後ろを振り返る人すべてへの神様からの警告を示すモニュメントとして、永久に塩の柱になってしまいました。この塩の柱は私達に警鐘を鳴らしてくれているはずです。後ろを振り返るのはとても危険なことですから、いつも前進し続けましょう(ピリ3:13-14)。

 ロト一家から学ぶことは何でしょうか。宣教のダイナミクスは家庭のダイナミクスによく似ています。過去のことを後悔している教会は未来に焦点を合わせ、自由を得るため神を見上げることができます。神様は教会という家族に与えてくださった救いの価値をご覧になり、赦しを与えて神の子たちの間で癒しと共感がなされるようさらに恵みを与えたいと望んでおられます。そして最後に、やみくもに決断すると非常に後悔する原因となることがあります。他のグループに変化を強制することはできませんが、自分自身が傷にどう反応するか、苦々しさをいつまで持ち続けるか、どれほどしばしば攻撃をしてしまうかなどは変えることができます。

 神様がつらい過去や罪深い選択からの脱出をさせてくださるという時には、神様の恵みを受け入れてください。前進し、二度と後ろを振り返らないでください。



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ステーシー・ウィークス(Stacey Weeks)は牧師夫人。夫はオンタリオ湖畔のナイアガラでファミリーライフ(家庭生活)・パスターとして仕えている。また彼女はメンタリング、執筆、女性のミニストリー、読書などの活動にも参加している。



Copyright 2008 Stacey Weeks. Translated from Just Between Us, 777 S. Barker Road, Brookfield, WI 53045.

来客を歓迎する家 


       ジル・ブリスコー        


 宣教にたずさわるつもりなら、自宅はもはや自分だけのものでないことを受け入れなければなりません。自宅は主のものなのです。

 もし主に仕える生活の中、プライバシーがないと悩む人がいるなら、私は心からその悩みを理解できます。なぜなら私は英国で生まれ、その国の女性がもつプライバシー感覚を持っていたのですから!

 私達の家が主のものであるなら、イエス様はご自身が招きたいと思われるどんな人でも招く権利をお持ちです。ところがイエス様には、ときに変わった友人がいるのです。まず、イエス様が友とされるのは、私達が夕食に招待したいと思うようなタイプの人ばかりだとは限りません。さらに、子どもたちとは一緒にいさせたくないと思うような人々がいました。

 しかし、イエス様は地上におられたとき、あらゆるタイプの人々を受け入れられたということがわかります。彼は汚れた人に会い、身体が変形した人をいやし、死体に触れることに忙しくしておられたのでした。ツァラアトの人たちにさえ接してくださったのです。ユダヤ人であるペテロは霊的、社会的に非常なショックを受けました。イエス様は彼に対して難易度の高いレッスンをされたのでした。

 「ペテロ、もしあなたが私の弟子なら、この世界を受け入れなければなりません。きよいとかきよくないとかにかかわらず、あなたはこれらの人たちを愛することを学ばねばならないよ。なぜなら、私が彼らを造ったからだ。そして彼らのために死ぬからだ。私についてくるとはそういうことなんだよ。」とイエス様は言われました。



ホスピタリティー(もてなし)

 聖書では、もてなすことは賜物ではなく命令です。それは、旅人が歓迎されていると感じられるように家を整え、人々がやって来たいと思うようにするということです。

 マルコ1:29では、シモンのしゅうとめが高熱で苦しんでいることをイエス様が耳にして、ヤコブとヨハネを伴って神殿からシモンとアンデレの家に向かわれるときのことが書かれています。おそらくペテロの妻はこのときイエス様と初めて会ったのでしょう。イエス様がしゅうとめにふれられると、熱がひき、彼女は給仕を始めたのでした。その夜、さまざまな病気をかかえた人や悪霊につかれた人たちがペテロの家にやってきました。実に「町中の者が戸口に集まって来た」(マルコ1:33)のです。私は「町中の者が戸口に集まって来た」というところにアンダーラインをひいてあります。

 同じようなことが起こっていると感じたことがありますか?宣教に携わり始めてまもなく、このような思いをいだくのではないでしょうか。「どうして私の家の戸口なの?」と。けれどもあなたが自分の仕事をしているなら、イエス様が家の中にいると知ったこの世の人たちは、あなたの家のドアまで列をなして突進してくるのです。



マルコの福音書を見ると、つづいて中風の人が4人の友にかつがれて、屋根をはがした穴からイエス様のところにつり下ろされた箇所があります(マルコ2:4)。彼らが知っていたのは、イエス様がその家におられるということだけでしたが、友のために何とかしようと決心したのでした。

 同じように、傷ついて救いを必要としているこの世は、キリストがおられると気づくと、あなた自身や持ち物があなたのものであることなど無視してしまうことがしょっちゅうなのです。ペテロの妻は、自分の家が群集でいっぱいになってしまってどうしていたのだろうかと思うことがあります。私が確信を持って言えるのは、彼女がもてなしの賜物を持っていたかどうかは問題ではなかったということです。彼女がどのような性格であったかということもまた問題ではなかったのです。この世の人々が戸口に来たなら、自動的にもてなすことになるからです。やかんでお湯を沸かすことでしょう。もし家にパンしかなかったなら、トーストを作ることでしょう。



役立つことの意味(The Meaning of Availability)



 私達がアメリカにやってきて約1年がたったあるクリスマスのこと、夫のスチュアートが礼服を着、ネクタイをして部屋に入ってきたので、「何があるの」と尋ねました。

「結婚式なんだ」彼は答えました。

「なんですって?クリスマスの日に?」私はびっくりして言いました。

「すまない、話すのを忘れていたんだ。それから・・・式はここでやるんだ。」

 なんですって!私はあれこれ聞き返すこともできました。「どうして?」と怒ることもできました。けれどもやっとのことで言葉を飲み込み、かわりに「何時からなの?」と聞きました。すると彼は「30分後だ」と言ったのです!

 クリスマスの日ですから、私はディナーを作っている最中で、床にはラッピングされたり開けられたばかりだったりのプレゼントがいっぱいでした。もちろんクリスマスで家族と過ごすゆったりとした日ですから、私は自分の髪型や着るものにはかまっていませんでした。しかしその時は怒っている時間さえありませんでした!私は子ども達を集め、半時間のうちになんとか掃除をすませました。スチュアートも文字通り「エプロンをして」手伝いました。大変な思いをしたことはいったん忘れて、私達は結婚式を行おうとしていました。

 スチュアートが言うには、カップルの両親は式に来ないだろうということでした。若い二人にとっては辛い時でした。そこで私達はできるだけのことをしたのです。式の最中に、ドアをノックする音がしました。片方の両親が涙を流しながら立っていたのです。彼らは、やはり結婚式に行くべきだと決心してきたのでした。しかしそこには両親がすでに2組おり、さらにもう1組が10分後に到着したのでした!彼らはお互いに殺し合いをしそうなくらいでしたが、自分の息子や娘にとってできる限り幸せな結婚式をさせてやりたいと思ったのでした。

 こうしたことは時々あります。だからそうした状況になるとすぐ、「これは悪夢かしら?とても信じられないわ」と思いますが、「でも、こんなことは一度きりでしょう」と考えるのです。神様はしばしば私達を驚かせますが、それを乗り切るための鍵はこうした考え方にあるのです。



うまく処理することを学ぶ(Learning to Cope)



 青年宣教の働きをしていたとき、私にとって非常によい模範になってくれたリーダーの妻がいました。彼女はジョアンといいましたが、私はずっと彼女の後についていき、重要な質問をしようとしていました。彼女はパン棚からダイニングルームへ移動しながら「私に一緒について来て!その間に質問してちょうだい」と言っただけでした。

誰かが私に質問したいとき、その人についてきてもらえばよいのであって、自分がしている仕事の手をとめなくてもよいのだということを、私は彼女から学びました。

 ジョアンが何度もA点とB点の間で止まるのを見ていて「ジョアン、彼らにあとで来るようにと言えばよいだけじゃないの」と言うと、彼女は「ジル、もし多くの人々があなたを必要としている時は、『この人が私の思いの中心にくる人だ』と一人一人の人に対して思い、立ち止まるべきなの。彼らは主が祝福された妨害者だということを私は学んだの」と言いました。それ以来、私は彼女のやり方に倣うようにしました。

 親切で必要に応じ、かつ柔軟であってください。サンフランシスコにある耐震住宅のようであってください。それらは岩の上に建てられているものの、全ての継ぎ目には可動性があるのです。だから激しい揺れがやってきても倒壊せず、しっかりと建ち続けるのです。あなたのスケジュールと周囲の人々の必要との間で感じる葛藤は、この先人生の終わりまで日常茶飯事となるのですから。



 もう一つの話をしましょう。子どもたちが大学生だったとき、私は家族みんなでイースターに2日間の休みをとるため、3ヶ月間働きました。あと2週間ほどでその貴重な休みだというとき、私は宣教師の友人から一通の手紙を受け取りました。開封したとき、悪い予感がしました。その手紙にはこうありました。

 親愛なるジルとスチュアートへ。
 あなたがたの素敵な家へのご招待を感謝します。それで遠慮なくお願いをしますね。私の娘は今アメリカにもどって大学に通っているのだけど、イースターに行くところがないの。それで、娘をあなたの家にいさせてくださるようにと、私からお願いします。先に「ありがとう」と言わせてね。

 主よ、あんまりです!私は心で叫びました。これまでの経験から、きっと女の子が一人でくるわけではないとわかっていました(事実、6人にもなったのです!)。家族水入らずで過ごせるはずの休みがもはやなくなってしまったことに、私の悲しみといったら、まるで死んだ人を悼むようでした。

 私は神様と交渉をしました。神様、神様、彼女を夏休み中預かるわ。それでいいですか。あるいは、来学期にまる2週間あずかります。しまいには破れかぶれに「彼女を養女としてうちで育てますから」と言い換えました。もちろん神様からの答えは何もありませんでした。しばらくして私は手紙をベッドにおき、その前にひざまずいて祈りました。「主よ、私は家族で過ごすために多くの努力をしました。そして、普段はいつも他の子どもたちと共にいることもあなたはご存知です。だからこれはあんまりだと思います。」天からは何の応答もありません。私はやっとのことで「主よ、じゃあ、あなたの言うとおりにします。でも、私が来客を歓迎したくないと思っていることを、彼女たちが気づかないようにしてください」と祈りました。あまり霊的ではないとわかってはいましたが、それが私にできる最善のことでした。私の心は依然として重いままでした。

 宣教における重要な原則は、「彼女たちが来るのがとても楽しみ!休みを取り去ってくださって、主よ、感謝します」と言えるようになるまで待っていてはいけない、ということです。私が知る限り、そのような境地に至ることはありません。ただ自分ができることとできないこととを、神様に申し上げるということだけなのです。神様は私達がこうあるべき、という姿ではなく、私達のありのままを受け入れてくださるのです。我が家にやってきた女の子たちは、私の本心に気づくことがありませんでした。私を除く全員はすばらしいイースターを過ごしたのでした。

 何年も後に、私は娘と共同で本を書きました。娘のジュディーに「あなたはこれとこれを書いて。そうしたら、私は私の視点から同じことをどう思うか書くことにするわ」と言いました。ある箇所で、私達は来客について書きました。

 驚いたことに、娘はそのイースターのことを書いたのです。私は娘が当時さまざまな問題に直面していたことを知りませんでした。けれども、イースターの休日に我が家に滞在してほしくなかった女の子たちの一人が、私が気づかなかった娘の問題に気づいたのです。この女の子は娘を人のいない部屋に連れていき、娘と共に座り、この問題を取り扱ったのでした。

 私達は知らないうちに主の御使いをもてなしていたのでした。その日、私はジュディーとキッチンのテーブルで涙を流しました。私は娘に、そのイースターに味わった葛藤を分かち合いました。

 それから神様に祈りました。ジュディは「主よ、その来客が私を助けてくれなければどうなったかわかりませんでした。あなたのみわざに感謝します」と祈りました。



 おわかりのように、あなたは主に仕えている身かもしれませんが、神様は決してあなた自身やあなたの家族への配慮を忘れてしまわれる方ではありません。私達は自分が献身して他者に仕えていると考えていますが、主は二重の計画を持っておられるのです。神様は私達が人々に仕え、神の似姿に変えられていってほしいと望んでおられます。さらに、神様は私達の奉仕やおかれている状況を用いて私達をいやし、ケアし、成長させてくださいます。そしてそれは多くの場合、私達が助けている、その人々を通してなのです!

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ジル・ブリスコー(Jill Briscoe)はJust Between Us誌のエグゼクティブ・エディター。ワールド・リリーフやクリスチャニティ・トゥディの理事もつとめる。世界各国の集会でもしばしば奉仕している。ジルと夫のスチュアートには3人の子どもと13人の孫がいる。



Copyright 2007 Jill Briscoe. Translated from Just Between Us, 777 S. Barker Road, Brookfield, WI 53045.

試練を乗り越えて生きる

ウーマン・インタビュー

   ~キム・ニューラン
              文:コンスタンス・B・フィンク               


 7250人の女性が集うティーパーティーを運営するとはどういうものか、想像してみてください。それをキム・ニューラン(Kim Newlen)はやり遂げたのです!

 2005年5月、彼女のミニストリーは世界最大のティーパーティーとして、ギネスブックに掲載されました。彼女がその認定を受けたとき、会場から大きな拍手がわき、彼女が乳がんとの戦いの中にあるとは思えませんでした。ごく短いショートヘアーにピンクの帽子をかぶっていること以外、彼女が病気だとわかるものはありませんでした。髪はほとんど抜け、乳房を失い、体は化学治療で弱っていましたが、彼女の陽気なほほえみ、あたたかい心、あふれるエネルギーはそれ以上に力があり、何千人もの女性の心を打ちました。

 キムの生き方は、女性をキリストのもとに招き、人生の危機から脱出する力を与え、人々の人生を変えています。彼女のミニストリーはガンの診断やギネス記録の何年も前に始まりました。

 12年前に出産に伴い教師を退職し、忠実な信仰生活を送ってはいましたが、彼女は寂しさと孤独に襲われたのです。「私がこれだけつらいなら、主を知らない女性たちはどれほどかしら?」と彼女は思いました。そこで、伝道のためのアイデアをあれこれ考えたのです。継続できるもので、準備にお金がかからず簡単なものでなければ、負担が大きすぎる。どの人も忘れることがないように、同じ場所と時間で続ける。こうしたことを念頭に、彼女は毎月第一月曜の夜に自宅を開放し、わかりやすいテーマを選んでお茶とケーキ、みことば、プログラムの時を持つことにしました。

 彼女はこの伝道を「スウィート・マンデイ(Sweet Monday)」と名づけました。12年前に最初のティーパーティーが持たれてから、この働きは全米434箇所、さらに世界16ヶ国に広がりました。彼女の自宅では30~70人の女性が参加し、毎月新しい人々が加えられています。

 スウィート・マンデイの3つの原則はSimple(シンプル)、Sweet(あたたかい、甘い)、Salty(塩気がある)です。Simple(シンプル)とは、「神の国をまず第一に求める」ということ、Sweet(あたたかい、甘い)とは「みことば私の口には蜂蜜より甘い」ということ、Salty(塩気がある)とは「私達は地の塩である」ということです。

 スウィート・マンデイは祈り会や聖書研究会とは異なり、イエス・キリストを紹介する入口となるものです。キムは「Sweet Monday: Women’s Socials on a Shoestring Tied to a Generous God(スウィート・マンデイ:豊かに与えてくださる神と結ばれるための女性の社交術)」という本を書いています。スウィート・マンデイを開催する人たちは、この本を用いれば、それぞれの集まりを時代を超えた聖書的な原則に基づいたユニークで効果的な伝道の場とすることができるのです。

 この伝道の集まりは午後7時30分に始まり、9時きっかりに終わります。8時にコーヒーとケーキを食べ終えると、キムはベルを鳴らしてプログラムをスタートさせます。まず5分間のみことばの時がもたれます。彼女はその中ではっきりと福音を語り、もしキリストについて疑問があれば質問できるよう、彼女の電話番号を伝えます。

 それから参加者たちは楽しく、役に立つようなプログラムに入ります。たとえば、“Man-I-Cured Those Nails(マニキュアに関するもの),” “Sweat Monday(汗をかくようなこと),” “How Do You Spell Simplify”など。ときにはある技術を持った人が参加していれば、その人がその技術を見せることがあります。それ以外の時には、参加者がプログラムに参加します。たとえば、 “A Beauty Full Evening”(美しさでいっぱいの夜)(訳注:Beautiful(美しい)とBeauty Fullをかけた)はキムが個人的に大好きなプログラムですが、女性たちが美しくなるための秘訣をお互いに公開しあいます。みことばの時には、キムは霊的な美しさへ変えられることや、イエス様が罪を取り除き人生をきよめて下さることを語ります。

 スウィート・マンデイは女性たちが輝くことのできる場を提供しています。たとえば、キムと同じ教会のある女性はケーキ・デコレーションが上手らしいということがわかりました。彼女は教会ではもっとも目立たない女性の一人で、キムも彼女のことをよく知りませんでした。しかし、キムはフットボール型のケーキをどのように作るか、パーティーに来て見せてくれないかと彼女にたのみました。彼女はキムの家の居間で実に活躍しました。時おり、キムは教会に来たことのない女性にもデモンストレーションをしてほしいと頼みます。そうすれば彼女はみことばの時間に福音を聞くことができるのです。

 調査によれば、福音的な伝道集会は数ある女性への宣教の中でもっとも効果が低いものだということです。なぜなら、伝道の鍵は人間関係だからです。スウィート・マンデイの働きは「女性をキリストのもとへ、1度にひとつの暖かい招待をする」ものです。キムは18歳から80歳の女性を迎えています。年齢を重ねた女性にとっては若い女性の相談を受ける機会があり、みなが互いにリラックスした雰囲気の中で励まされます。ほかにも独身女性、高齢女性、夫を天に送った女性、中学生を対象にしたスウィート・マンデイまであります。

 3年前にガンの診断を受けるまでも、多くの女性がキムの生き方を見、神に信頼する彼女の姿にならいました。ガンは大きな試練でした。JBU編集部では彼女にインタビューし、彼女がどのようにミニストリーを運営しているか、深刻な病の中でどのようにキリストと深い関係を保ってきたかを聞きました。



JBU: ご主人とご家族のことを聞かせてください。



キム: 1980年に、私はキャンパス・クルセードのスタッフとしてバージニア大学で働くよう導かれました。夫のマークは、大学生のクリスチャン・アスリートたちの交わりを勧める働きで、州の主事をしていました。学生のための祈り会で出会ったのが最初でした。彼はまさしく私の「輝くよろいをつけた騎士」であり、スーツをきちんときて、城のように広い建物でプロポーズしてくれました。結婚して22年になります。ケイリ(Kali)という15歳になるすてきな娘が与えられています。

 私はたくさんの子どもを生み、おそろいの服を着せたいとそれはそれはよく夢見たものですが、実際には何年もの間不妊に悩みました。ケイリは本当に祝福です。私は彼女のことを「特別なケイちゃん(Special K)」と呼んでいるんですよ。

 マークは私が自分自身のことを見つめるのを誰よりも助けてくれる人として神様が用いておられます。スウィート・マンデイを初めて1年がたったとき、マークは「もし君の考えを文章にしてくれたら、他の女性もそれぞれの自宅で同じようなことができるよう、50部のコピーを作ってあげるよ」と言いました。主に従順でありたいという気持ちで、そして夫に従うという思いで、私は書きました。

 その後、マークは「キム、君が女性たちの前で話すのが見えるよ」と言いました。私は主に、「私のような小さなものがそんなことをするなんてありえません。けれども、あなたが私にせよと言われることならば、その道をあなたが開いてください」と祈りました。6ヶ月後、女性の集会で話をしてほしいという依頼の電話を受け取りました。心臓が飛び出すくらい驚きました。これは主からのものであると感じ、行くべきなのだとわかりました。書いた本を50部持って、私は「王女様と深い穴」と名づけている自分の証をしました。私は王女のように育ちましたが、やがて深い穴に落ちてしまいました。私の結婚生活の1年目はそれは大変なものでした、という証です。私は4冊の本をそこに置いて帰宅しました。

 リッチモンドで最大のチェーンストア傘下のUkrop’sから、もっと多くの本を置いてくれませんかと声がかかりました。すぐに11以上の店舗に本が置かれました。1ヵ月後、近くの郡に住む女性から「私も近所の人とこの集まりを持っていいですか」という電話がありました。涙がほおを流れました。私はスウィート・マンデイが神様によって大きな働きとして用いられることをその時知りました。



JBU: なぜ結婚されてからの数年間、大変だったのですか。



キム: 私の期待が大きかったのです。結婚がどうあるべきかということについての多くの信仰書を私は読んでいました。フルタイムで主に仕える働き人が結婚生活で問題を抱えるとは、夢にも思いませんでした。私は幼くしてキリストを心に受け入れましたが、結婚するまでは、主の前に罪深さや欠けたところがあると気づいていませんでした。私は本当に自己中心的で身勝手でした。よろいをつけた騎士に、自分を守ってもらいたかったのです。

 しかし、私は失望と内面の葛藤を覚え、さらに試練にも直面しました。夫は思いがけない背中の手術のため2ヶ月間ベッドで寝たきりになり、仕事は誠実さを守るという理由だけのゆえに退職しました。私達の車は盗まれ、キッチンの屋根は陥没しました。ほかにもいろいろありました。これらの試練のたびに私は平静を失いました。なぜなら、私は「もし正しいことをしていたら、ずっと幸せに過ごせるだろう」という偽りを信じていたからです。代わって神は、試練を通して私を神により近づくものにし、また私に将来のための力を与えてくださったのです。これらの試練は私がガンになった時の備えとなりました。このガンもこの先起こることの準備なのだと思います。



JBU: 自分はミニストリーをする資格がないのではと思われたことがありますか?



キム: 毎日です!7000人以上の女性のティーパーティーは別としても、私はどんな規模であっても人前で話したいと思ったことはありませんでした。ジル・ブリスコー先生のキリストへの情熱と英国訛りがすてきだったので、私はティーパーティーに招きました。けれども、彼女は海外に行っていました。そこで神様は私に話すようにと言われたのでした。心は平静を失い、私はひざを震わせながら、私達の名前がいのちの書に記されることは、世界記録のギネスブックに載るよりも重要だということを話しました。

 私は他の人にキリストを示すとき、いつも弱さを覚えますが、みことばはむなしく帰ってこないということを信じています。その夜私はベッドにもぐり、もし恐れと自分にはできないという思いでやめていたら、神様が私達のコミュニティーに何かすばらしいことをなさろうとするのを押しとどめていただろうということを感じました。



JBU: どのように疑いや恐れを乗り越えたのですか?



キム: 結婚生活に困難を覚えた数年間は、私にとっては神様を求めた最初の時でした。私は毎日詩篇を読みながら叫びました。神様は他のだれにもできないやり方で私を励ましてくださいました。私は状況よりも神様について知っていることに焦点を合わせるということを学びました。

 ガンの診断を受けるまでに、主とみことばに思いを向けることが自然にできていたのです。眠れない夜には、主を知ることによる内面の平安を得て休息しました。神様は信頼でき、頼りになる方で、困難や失望の中でも私を見ていてくださる方です。私は女性たちが主を知るようになることにとても重荷を持っています。なぜなら、もし神様を知らなければ、深刻な問題にぶつかった時どこに助けを求めたらよいのでしょう?



JBU: 医師からマンモグラム(乳房X線写真)の異常について連絡を受けたときのことを話していただけますか。



キム: ショックを受けました。自覚症状がなかったですし、危険因子もありませんでした。まず心に浮かんだのは、「主よ、あなたは私の体に何かがあるのを全てご存知でした」ということでした。次に、「主よ、あなたを知らないで今もっと悪い知らせを聞いている女性たちはどうしているのでしょうか」ということでした。



JBU: ガンの治療中、最も辛かったのはいつでしたか。



キム: 2度あります。一度目は、髪がごっそりと抜けてしまったときでした。頭を剃ってもらって泣きました。もう一度は、乳房切除の手術で麻酔からさめた時で、乳房を再建してもらえなかったと分かったときでした。医師が化学療法と放射線治療を継続することにしたので、乳房が再建されなかったのでした。ショックでした。初めて鏡を見たとき、なぜガンは闘いだと言われるのかがわかりました。私はまるで戦争から帰ってきた人のようでした。最近になって、私は10時間かけてすばらしい乳房再建手術を受けました。再建しないで過ごしたのは3年間にも及びました。



JBU: 神様を疑ったり、もう限界だと思ったりしますか?



キム: いいえ、でもそれはただ神様を知っているゆえにだと思います。神様のご人格と、私や家族への神様の愛を知っているからです。神様がよい状況の中におられるのと同じく、辛い状況の中にもおられることを知っているからです。

 ガンとの闘いを通して、私は神様を新たなレベルで知ることができるようになりました。女性たちに、イエス様が最も偉大な慰め主だと知ってほしいと思います。どんな問題があっても神様と共に直面するなら、いかなる種類の痛みの中にも希望、助け、喜びがあります。自分の髪、そしてまつげ、まゆげ、体じゅうのあらゆる毛が抜けてしまうなら、私は外出できるくらいの姿になるまではきっと頭を隠したくなるだろうと思っていました。しかし、実際にはそのように思わなかったのです。私はピンクのバンダナをし、つけまつげのつけ方を研究し、未来に向かってほほえんだのです。



JBU: 辛い日々の間、どのように神様や他の人々との関係を保ちましたか?



キム: ガンは私をペースダウンさせるどころか、スピードアップさせました。医師や看護師を含め、他の人々とかかわる機会が飛躍的に増えました。ガンと診断されて、私は人生がいかに短いかを実感しました。ですから、神様が私と出会わせてくださった貴重な人々に喜んで接し、感謝し、仕えています。私が弱ってしまうと思った時に、神様は私の心を女性たちと神様に向けて花開かせてくださいました。主イエス様と共に旅路を歩んできたので、私は今はよりいっそう彼を愛しています。彼こそ私の岩であり、私は彼にしっかりとしがみついています。



JBU: 病気の間、ミニストリーの働きをやめる必要があると感じたことがありましたか。また、それをどのようにして知りましたか。



キム: はい、化学療法や放射線治療、その他の薬の副作用が出たときです。医師が、治療期間にはそれぞれ数日間トラックに衝突したときのように感じるかもしれないと注意してくれていました。それで、大好きなピンクのパジャマを着て嵐が過ぎるのを待ちました。



JBU: あなたが病気になったことは、家族や結婚生活にどう影響を与えましたか?



キム: 家族の忙しいスケジュールに加えて医師の診察や治療の日程が入ることは、時には大変です。私がいろんなことをお祝いしたがるので、マークは家計が破綻すると言いたいかもしれません。けれどもガンになって最も強調したいのは、当時12歳だった娘のケイリのことです。手術を受ける前、私はケイリに「あなたに一つの仕事を頼むわ。それは心配しない、ということよ。」と言いました。私達の秘密の合言葉として「仕事はどう?」と尋ねることにするわ、と彼女に言いました。

 数週間後、私達は3人で旅行しました。日程の都合で、ケイリは別のフライトを使わなければなりませんでした。私は空港で心配になり、自分のガンよりも娘が別のフライトになることの方が、神様に信頼するには難しいのだと話しました。娘は私の方を向いて「ママ、ママにも一つの仕事があるわよ」といいました。娘は真実を体験し、私にも同じように返してくれたのです。



JBU: 現在は、心配しないという「一つの仕事」をどのようにされていますか。



キム: 心配し始めるくらいなら、代わりに神様が私に望んでおられることをするでしょう。それは神様や他の人々との関係を深いものにするということです。私は自分が持っていないものよりも持っているものに目をとめるようにしています。悩んだりあきらめたりすることもできますが、思い煩いは主に委ねています。それで私は思い煩いに使っていたエネルギーを宣教のために使えているのです。他の人々に焦点を合わせることで、私の重荷は軽くなります。



JBU: ガンと診断されてから、あなたのミニストリーはどのように変化しましたか?



キム: ミニストリーにはそれほど変化はありませんが、私自身が変化しました。頭髪を失うに伴い、キリストを分かち合うのにより大胆になりました。身体があまり強くなくなったので、ただ神様だけが5つのカップケーキと2個のキャンディーを増やし(訳注:「5つのパンと2匹の魚」にかけている)、1年間でスウィート・マンデイを倍増させることがおできになったのです。



JBU: ガンの友達がいるとしたら、どのようなアドバイスをしますか?あるいは何を言わないようにしますか?



キム: 尋ねられない限りアドバイスはしないようにしていますが、ハグをしたり、食べ物やカード、本、新しく出たリップスティックをあげたりします。今「Beauty Tips for The Bald & The Breastless(頭髪と乳房を失った人のためのビューティー・アイデア)」という本を執筆しています。自分が感じるよりもすてきに見えるための具体的なアイデアの数々です。

 励ましということでは、その人にイエス様を紹介します。ある牧師がHOPE(希望)の頭文字を使うのを聞きました。「Happy Optimism of Promises Expected.(期待できる約束に基づく楽観主義)」というのです。私達の希望は状況でも感情でも医師の診断でもなく、キリストにあるのです。言わないようにしていることですか?ガン患者に向かって「何を食べているのですか」とか「人生で告白していない罪があるのではありませんか」とは決して尋ねません。



JBU: あなたのミニストリーは今後どうなっていくのでしょうか?



キム: 私は死ぬまで自宅でスウィート・マンデイを開くと思います!スケジュールが許す限り、講演の奉仕依頼も受けます。最近スウィート・マンデイの手引き書の4冊目を書き終え、ラジオ番組スウィート・マンデイ・ミニッツ(Sweet Monday Minutes)も60本の収録を終えました。私が伝道するとき分かち合っているのと同じことを語っています。訓練のためのビデオやセミナーもしています。私の願いは、私の死後もスウィート・マンデイが長く続いていくことです。

 この前のスウィート・マンデイで、一人の女の子が来てこう言いました。「私、来週の月曜日からスウィート・マンデイを始めるんです。近所に200枚のチラシをまきました」と。畑はまさに「ピンク」に色づいて収穫を待っているのです。



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●スウィート・マンデイを始めたい、あるいは自分の地域で持たれている集まりについて詳しく知るには: www.sweetmonday.org (ラジオ番組へのリンク: “The Sweet Monday Minute”),

メール sweetmondaymail@yahoo.com または 電話804.754.4333(アメリカ)).



●おすすめの資料:

・Praying Through Cancer: Set Your Heart Free From Fear(ガンの中で祈る:恐れからの解放) Susan Sorensen and Laura Geist

~静思のための本で、キムも執筆者の一人。



・www.LookBetterThanYouFeel.com

~キム発案の術後用キャミソールの新しい販促サイト。患者たちが診察室でもう服を脱ぎ着しなくてもよい作りになっている。フェミニンでデニムジャケットやブラウスと合わせるとすてき。キャミソールは商標登録・特許取得済。



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コンスタンス・B・フィンク(Constance B. Fink):牧師夫人であり、事務員、フリーのライターでもある。 ニュージャージーの都市部にある教会の牧師家庭の子どもとして育ち、心理学の学位を得た後ムーディー・バイブル・インスティテュートの女性舎監となる。現在はアルカンサスにある教会で夫のデイブと共に奉仕している。



Copyright 2007 Constance B. Fink. Tranlted from Just Between Us, 777 S. Barker Road, Brookfield, WI 53045.

人生におけるレッスン 

    ジル・ブリスコー        




 近頃、私は講演の依頼を受けました。「人生におけるレッスン」というテーマです。もし人生をやり直せるなら違ったやり方をしただろうと思うようなこと、あるいは「長い」人生での後悔やそういった類のことについて話すように頼まれたのは、これが初めてではありませんでした。人々にとっては、普遍のテーマといえるのでしょう。



 私は紅茶を入れ(英国人は大変なことに直面したときこうします)、ロッキングチェアーに座り、私の71年間の人生を振り返って「何か話す素材があるだろうか」と思いをめぐらせました。

 そしてあまり重要でないものは省き、上位5つの事柄にしぼってみました。あなたにも分かち合わせてください!



自己の価値 
~どれだけ年をとっても、神の目には若いときと変わらず価値がある。



 年を重ねると、自分の年齢を認めたくなくなってきます。周りの人がどう思おうと、自分では決して年をとったとは思いません!

少し前のことを思い出します。駐車場が凍っていて転倒してしまったとき、一人の若者が携帯電話で救急車を呼んでくれました。彼はこう言ったのです。「お年寄りが駐車場で転びました!」私は「あら、驚いたわ。私と同時に、だれかほかの人も転んだのね」と思ったのです!

 でも、それでもよいと思うようになってきました。なぜなら、私は今もまだ夢を持っているからです。神様のために登りたい山、渡りたい増水中の川があるからです。80歳になってなお若かったカレブのように、私は「この山を征服させてください」とチャレンジを求めています。

 どういうことがおわかりですか?年齢は関係ありません。私達が神様から与えられた賜物は老いることがありません。主への思いはいつまでも若いままでいることができるのです。そして、私が熱心に愛する神様を、世界の失われた人々が少しでも愛してほしい、という壮大な熱い願いのゆえに、喜びをもって、私は肉体的な衰えを忘れ、ますます高いレベルへと駆り立てられるのです。

神は、人生の終わりまで、私を神の国のために用いることができる価値ある者と見ていてくださいます。



礼拝
~私にできる最善のことは、他の人が私の生き方を見て神を知りたいと思うようになるほど、自分自身が神様を知ることです。



 個人的な礼拝によって、個人的な変化が起こります。私は毎日、「私は神の王座の前にいるだろうか?天使の歌声を聴いただろうか?『悲しんでいます』と言っただろうか」と自問します。「心を探る」のを実践すると、「私は素晴らしいのだ」とは言わなくてよくなります。神様は「自分のことを実際よりえらいと思う」者を用いることができません。・・・これが人生におけるレッスンです。

 「いつまでも祈っていたい」と思ったのはいつのことだっただろうか、と時々恥ずかしくなることがあります。あなたは祈りながらも、時計の針を気にしてはいませんか?私達は意識的に神を求めることが必要です。「私はどこで養われているのだろうか。心をどこに向けているだろうか」と私はいつも自問しています。

 私の人生はいつも神との霊的な親しさから始まります。実際、人生の成功は神との霊的な親しさにかかっているのです。



空き時間  
~「私の」時間というものは存在しない。



 宣教にかかわっているなら、決まった営業時間はありません。オズワルド・チェンバーズは「あなたはあなた自身のものではありません。神は聖徒たちの個人的な生活を分割し、一方の道をこの世のため、他方を神ご自身のためとします。」と言っています。

 それは旅なのです。神様は、世の人々を送り、私たちの家や家族に試練を与えられますが、それはなによりもまず祝福なのです。

 イエス様は何度も「来て少し休みなさい」と言われました。そうすることで、養われ、教えられ、癒され、助けられる必要のある5000人の人にようやく対応できるのです。

 私達はイエス様のおっしゃった通りに努力して休もうとしますが、「養ってください、教えてください、癒してください、助けてください」と要求する5000人の人々に出会うのです。

 主が「彼らをそのまま返してはいけません。あなたが何か食べるものを与えなさい」とはっきりとおっしゃったのを聞きました。私達は自分のわずかなパンと魚を持って従うことに葛藤を覚えます。そしていやいやながらしぶしぶ従うことと、寛大さに欠けることを恥じるのです。

 自分の計画を手放し、神に私達の人生の予定を明け渡すなら、驚くべき冒険の連続になることでしょう。でも心の中にはいつも「感謝」があります。そしてそれより大きな報いはありえないのです。



従順
~神への願いについて無条件になる。



 神への従順は無条件でなければなりません。エレミヤ書の言葉が浮かびます。「わたしがあなたを遣わすどんな所へでも行き、わたしがあなたに命じるすべてのことを語れ」(エレミヤ1:7)。こう言われて、私にそれができるなら「はい」と答えます。「もし報酬があるなら」とか、「もし自分の本やCDを売ってもよいなら」とか、「もし家ではなくホテルに滞在できるなら」とか、「もし語るだけでよく、それ以後の人々の必要は気にしないでよいなら」などと言ってはならないのです。「もし」や「でも」と言うべきではありません。

 私達が無意識に人々に印象を与えていくことは、彼らに仕えることと同じだといえるでしょう。私が無意識に人々に印象を与えていくのは、人々に仕えることに自分の生涯を捧げることと同じです。

 そしてキリストは「私がこれらの人々の一人にしたのは、神に対してしたのと同じなのです」と言われました。聖書に書かれているように、私がこれらの人々の一人にしていることは、主にしていることと同じです。

 キリストの香りを放つ人の香りは、少なくとも周りに神の臨在を広める人には感じることができます。キリストの臨在の香りを広めている人は、自分がキリストの香りを放っていることを全く意識せずに行っています。

 私は「神様が私という人間を知ってくださっていることだけで満足すべきである」と学びました。ほかの人がどうあろうと関係ないのです!私が行っていることは、周りの人々が気づいているかどうかに関係なく、ただ主が知っていてくださることに喜びを持つことだと学びました。

 自分が香りを放つか、クリスチャンらしいか、効果的に話したか、CDがたくさん売れたか、人々を笑わせたり泣かしたりしたか、などを気にする必要はありません。聖霊の力によって語るべきことを語ったか、聖霊の力だけによりたのんだか、それのみです。

 大切なことは、主が私に語ってほしいことを聖霊の力によって語ったかどうかであり、また自分が主の邪魔になっていないかということです。

 人々からどう思われたか、人々の心に届いたか、などは関係ないことです。神様からどう思われるかだけが重要なのです。人々が私をどのように感じ受け止めたかは、全く考えなくてよいのです。 ただ神様のためだけに生きるのです。



満たし
~主の満たしは不足することがない。



 富や健康、愛、友人、教会、希望はなくなることがあるかもしれませんが、神様が足りなくなることは決してありません。

 このことについての本を出版して、流し出せば神様が満たしてくださること、決して主の満たしは不足することがないことを改めて思いました。

「小さな油壺(A Little Pot of Oil)」という題の本を出版したことがありますが、自分を注ぎ出せば、主が注ぎ込んでくださり、私達は決して神に不足することがないことをもう一度思い出しました。 神様は聖霊というご人格の中に必要なものをすべて備えておられます。

 いつまでも尽きることなく燃え続ける秘訣は、正しい火を燃やすことです。自分の努力や野心の火によるのではなく、聖霊による火です。

 私は毎日、自分が聖霊を抑え、拒み、悲しませていないか、聖霊に身を任せ、聖霊ご自身の働きによって心を新しく生かしリフレッシュしているか、自分に問うようにしています。 聖霊に満たされ、神の支配のもとにあるなら、私は燃え続けられます。



 これらは私が人生で学んだいくつかのレッスンです。1年たってもう一度問われれば、間違いなく今より深く学び、尋ねる人にもそうでない人にも、より多くを分かち合うことができるでしょう。

さあ、あなたが人生で学んだレッスンは何ですか。そのことを、時間をとって主に尋ねてみてください。



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ジル・ブリスコー(Jill Briscoe):
 講演、執筆による宣教で世界的に活躍している。著書は40冊以上あり、その中には聖書研究の手引き、デボーションガイド、詩集、子ども向きの本もある。Just Between Us のエグゼクティブ・エディター。ワールド・リリーフ(World Relief)およびクリスチャニティー・トゥディ誌(Christianity Today)の理事も務める。


 イギリス・リヴァプール生まれ、18歳でクリスチャンになって以来、若者への宣教に従事。1958年にスチュアート(Stuart)と結婚、以後夫婦で国を越えてクリスチャンの集会やセミナーで奉仕する。アメリカに渡りウィスコンシン州ミルウォーキー郊外のエルムブルック・チャーチ(Elmbrook Church)でスチュアートは30年にわたり主任牧師として働く。現在、スチュアートとジルは同教会の大衆伝道者として仕えている。3人の子どもと13人の孫がいる。







Copyright 2007 Jill Briscoe. Translated from Just Between Us, 777 S. Barker Road, Brookfield, WI 53045.

忙しい働きの中、魂にも食物を!

~ナンシー・ネルソン        




食料品店の中を歩いているとき、おなかがペコペコでたまらない思いをしたことがありませんか?周りは食物だらけだというのに、自分は空腹で死にそうなのです。



伝道者の妻たちは、教会という名の食料品店の中にいながら、しばしば自分が霊的に飢え乾いていることに気づきます。聖書の学びにも出席できるし、いやでもメッセージを聞く環境にあるのに、なぜか満たされない思いなのです。神に仕え、宣教に励み、教会員のケアに追われている人が、なぜ乾ききった思いになるのでしょうか。私自身も26年以上の間、時々霊的な飢餓状態にあると感じてきました。他の人には霊的な食物を提供しながらも、私の魂は空腹でたまらない思いをしていたのです。



 自分では霊的に空腹に陥っていることに気づかないことがあります。けれども他人から見れば、あなたがイライラし、腹を立て、否定的になり、落ち込んでいることがわかります。主の働きで忙しくする中、霊的な食物をどう食べることができるのか、私自身が見出したいくつかの方法を紹介しましょう。

  • 飲み物(The Drink)
スケジュールを調整し、気分が乗っても乗らなくても、日々一人で主と交わる時間をとること。あなたは忙しいですか?きっとそうでしょう。前の晩遅くまで奉仕があったなら、朝早く起きるのは大変なことでしょうか?大変ですね。毎日聖書を読まなくても、クリスチャンであり続けることはできるでしょうか?もちろんです。では、まる一日あるいは二日間、水を飲まないでも大丈夫でしょうか?・・・それはちょっとわかりませんね。神様と過ごす時間はあなたのために必要なのです。神とともに時間を使うと、神様はあなたを新しくしてくださるのです。一人になり神様と過ごす時間は、何物にも代えられないことを、私は体験してきました。魂のためには、毎日霊的な飲み物を飲むことがぜひとも必要です。


  • アペタイザー(前菜、The Appetizer)
背負っている荷物を主のもとに持っていきましょう。私達は罪責感、重荷、人々への気づかいを引きずっています。自分自身を何とかコントロールしようとしているのです。霊的なリフレッシュのためには、まず私達の内面にある冷蔵庫を掃除しなければなりません。
  • メインコース(主菜、The Main Course)
祈りです!定期的に祈るのは難しいですか?自分の祈りなんて聞いてももらえない、と思うことがありますか?もしそう思っているなら、「神様との強力な結びつき」という肉を食べ損なっているのです。これこそ一番のごちそう、つまり神様との関係で何よりも重要なことなのです。
  • 調味料(Fresh Seasonings)
主にある友人と時間を作って会いましょう。あなたを楽しい気持ちにしてくれる友達はいますか。あなたの信仰の状態に関心を持ってくれる人たちとの時間をとることをお勧めします。個人的な必要についても、宣教に携わっている他の女性と祈りあってください。
  • サイドディッシュ(副菜、Side Dish)
救われて間もない人のケアをすることです。他の人の成長を助けずにいると、私達の神との歩みまで停滞してしまうことがあります。自分がこれまで学んできたことを生かし、他の女性をメンターしましょう。そのことであなた自身も霊的にリフレッシュされるでしょう。

 

 私はかつてイタリア系の女性をケアしたことがあります。彼女は信仰的に成長したいと熱心に願っていました。聖書を学んでいたとき、彼女は「マラキ」という「イタリア人」のような預言者がいたことを知ってとても喜びました。こうした楽しいひと時は、あなたの魂に新たな力を与えてくれることでしょう。

  • 冷蔵庫のカビ(Mold in the Fridge)
正直なところ、人々から傷つけられることがあります。批判や失望、やるべきことが多すぎて憤慨することがあります。冷蔵庫を開けたままにしておくとカビがどんどん生えてしまうように、霊的にもカビが私達の魂に忍び込んできます。人を許すことができないと、神様に向かう心まで汚されてしまいます。あなたが受けた傷を神様にゆだねるなら、神様はそれを通してあなたを用いてくださいます。

  • デザート(Dessert)
宣教の働きをしている人は、時に「自分には霊的なデザートはいらない」と思ってしまうようです。他人に対しては教え、訓練し、説教し、祈るにもかかわらず、です。
 でも、私達も時には甘いものが必要ですね!他の人の教えを聞いて、自分自身も成長する機会を持ちましょう。聖書の学びに参加したり、伝道者の妻たちのサポートグループを作ったり、霊的な養いになる本を読んだり、個人的にリトリートを取ったりしてはどうでしょうか。主を経験するすばらしい時を持つことは可能です。思う存分楽しみましょう。

  • ひとりで食べないで(Don't Eat Alone)

 宣教に携わる夫婦の多くが、霊的な食事は一人でとることに驚きます。私達は人々に囲まれてはいますが、その中で孤独なのです。

  多くの夫婦は共に祈る時間もエネルギーも持とうとはしません。でも、あなたの配偶者は魂からの友達(ソウルメイト)になれる人なのです。神様が教えてくださっていることを互いに分かち合ってください。「神様はあなたの人生に、今何をなさっているの」と尋ねあってください。
 これまでにもこうしたことを聞く機会はあったと思います。でも、テニスやゴルフのプロプレイヤーは、スランプに陥るといつも基本に戻るといいます。人生における最良のレッスンというのは、すでに知ってはいるけれども実行するのを忘れてしまっていることを思い出させてくれるものではないでしょうか。イエス様の近くにとどまり続けることは、頭であれこれ考えるほど難しいことではありません。ヤコブ書には「神に近づきなさい。そうすれば神はあなたがたに近づいてくださいます」とあります。さあ、食卓につきましょう。魂の食事の時間です。

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ナンシー・ネルソン(Nancy Nelson):


 牧師夫人として25年奉仕し、現在は女性のための牧師として教会に仕えている。また、講演を行い REV! magazineのコラムニストとしても活動する。夫のアランとの間に3人の息子がいる。コロラド州Fort Collins在住。彼女の講演活動については nancydnelson@msn.com、牧師向けの雑誌REV!については www.revmagazine.comまで。










Copyright 2007 Nancy Nelson. Translated from Just Between Us, 777 S. Barker Road, Brookfield, WI 53045.

バランスのとれた人生とは Balancing Act 

JBU誌の編集スタッフが語る、 人生の季節をよく生きること 聞き手 Ann M. Cook 私たちは皆、バランスを取るのがなかなかうまくいきません。 家族の世話、ミニストリー、介護、奉仕は、私たちが抱えるほんの一例です。 たいてい、これらをすべて同時にこなさねばなりません。 JB...